2.ユキ
あれから厩舎内は大騒ぎになった。飼育員の人だけじゃなくて牧場のご夫婦までもがすっ飛んできて私をなだめすかしたり、つられて騒ぎ出した仔馬と騒ぎが伝染してしまった他厩舎にいる繁殖牝馬をおとなしくさせたりでてんやわんやだったようだ。
私は途中退場しちゃったかららしいということしかわからなかったのだけどね。ようやく目を覚ました私の健康状態を獣医の先生が見てくれて、全く問題がないことが分かってから、お見舞いにきてくれた牧場の方々が私を囲んで口々に話す内容から推測するしかなかった。
なんだか大変なご迷惑をおかけしてしまったようで申し訳ないという気持ちはあるのだけれど、自分が馬になってしまったという現実が重すぎて……。
ユキ大丈夫だよ。
ユキ良かったねぇ。
ユキにけががなくてよかった。
ちょっと驚いただけだもんなユキは。
ユキは……。
ユキ―――
みんなが私のことをユキって呼ぶ。私にとってのユキはわがままお姫様猫のユキちゃんだけなのに。私は……私は……。
私は誰だったんだろう。
自分が何者なのかを思い出そうとすると、お母さんのことを思い出す。でも、お母さんは誰だったろう。顔を思い出せない。声も。でも、日々の会話ややりとりや、一緒に買い物にでかけたことや、部活の大会に応援にきてくれたことも思い出せる。
部活の仲間たち、顧問、マネージャーも全てかはわからないけど、思い出せる。国語や社会が苦手だったこと。走るのが得意だったこと。
あぁ、でも、記憶を一つ一つ辿っていっても、自分の名前や顔は思い出せない。
まるで雪が降り積もった後のように。全てが白い輪郭にぼやけてしまう。
それからの生活は完全に無だった。一度よみがえった人としての感覚が、私を以前の仔馬とはすっかりかえてしまった。
どうしてこんなものを私は食べさせられているのか。おいしくないならよかったのだけれど、それなりにおいしいと感じてしまうのが悔しい。
手を使わないで食べなければならないのも嫌だ。トイレがないのが一番嫌だ。
それよりも。
それよりも。
あぁ……。
突然変わってしまった私の奇妙な振る舞いに、みんなが戸惑っているのがわかる。うまくコミュニケーションが取れないから、避けているだけなのだけど、みんなが私を群れに馴染ませようとしてくる。私のことで心をいためてくれているのがわかるから、仕方なく相手をするのだけど、いまいちノリがわからないのよ……。しきりに遊ぼうというように誘ってきたりちょっかいをかけてくるけれど、そんな気分にはなれないときも多くて。だって人生の絶望に打ちひしがれていたんだから。
徐々に反応しない私に愛想をつかした子たちが、私をいないものとして行動するようになって。そうすると私はひとりぼっちになって、それを見かねた飼育員さんが、私たちの間を取り持つように一緒にするけれど、やっぱりうまくいかなくて。そんなこんなで、私は一人自由行動をするのであった。
自由行動といっても、特にやることはないので、結局はぽつんと一人で時間を過ごすことになってしまう。宿題や部活やスマホがないと時間ってつぶすの大変だよね……。
木々の色づいた葉っぱが全部落ちる前に雪が降った。冷たい風が四肢の間を通り抜けていく。雪はいつまでもいつまでも振り続けて、あっという間に一面が雪に覆われてしまった。寒かろうと、飼育員さんが馬用の服をきせてくれたけれど、そのお古からは自分ではない馬のにおいがした。
久方ぶりに晴れたある日。いつものようにぽつんと立って空を眺めていた。人間だったときもこうして空を見ていたのを覚えている。
肺の中いっぱいに空気を吸い込むと、刺すような冷たさの空気が私のささくれたこころをきれいにしてくれるような気がした。鬱屈したこの気持ちを浄化してくれるような気がした。
そうしていると、雪をぎゅっぎゅと踏みしめて牧場主の男の人が私のほうへやってくるのに気付いた。笹森さんだ。みんながそう呼んでいるから。笹森さん、笹森の奥さん、二人のお子さんの広大くんと茜ちゃん。それから飼育員の飯田さん、安藤さん、小林くん。馬の目は視界が広くて、耳もひとよりずっといいから、すぐに気づいてしまう。
寒さに顔を赤くしながらやってきたその人が私の頬を撫でる。それは少し乱暴な仕草だったけれど、馬の私の皮膚は丈夫で、見た目ほどに乱暴には感じられなかった。
この人はいつも私にこっそりとりんごをくれる。きっと他の子たちはもうりんごをもらっていて、その場にいなかった私のところへわざわざリンゴひとつを届けにきてくれているんだろう。なんだか申し訳ないような気持ちになるけれど、それでもほかの子たちとは一緒にいたい気がしない。何せ子供すぎて、小学生か幼稚園児を相手にするようなものなのだ。たまにならいいのだけど、いつもだとしんどい。
ぽけっとから真っ赤なりんごを一つ取り出して私に見せる。いたずらっ子のようにそのりんごを空中で左右に動かす。私はそのりんごを眼だけで追いかける。
さも気にしてませんがという風に。
牧場主の笹森さんがくすくすと笑ってもう片方のポケットからナイフを取り出すと、慣れた手つきでさっくりと四等分してくれた一つを私の鼻先へ差し出す。
皮ごとりんごをたべることになるなんて、とはじめは思ったものだけれど、皮を剥かずにそのままりんごを食べる人もいるのだから別にいいのだ。
甘い匂いにつられてつい食べてしまう。馬になってこのかたケーキやチョコレートは食べられない。甘いものはめったにもらえないのだから仕方ない。
すぐに飲み込んでしまった私をみて、笹森さんがくすくすと笑ってもう一切れくれた。もぐもぐごっくん。三切れ目。四切れ目。
そうして私が綺麗にりんごを平らげると、風邪をひかないようにと服の袷のたるみをなおしてくれた。それから頭をぽんぽんと撫でると、仕事の続きへと戻っていった。
私はその後姿を見送って、また一人ぼっちに戻った。口から洩れる白い呼気が、風にさらわれて流れて消えた。
少しずつ、自分が馬であるという現実を受け入れつつある自分を、肯定しなければいけないと思った。
人では無くなってしまった私はこれから何をしたらいいのだろう。
そう思った。