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軍服のクマさん

やばい、遅れる。訓練の後、俺は宿舎室に戻り慌てて準備をしていた。ざっとシャワーで汗を流すと、ガシガシと髪を拭く。俺の勤勉で可愛い婚約者はきっと時間も気にせず働いているだろうけど、だからと言って長々待たせるわけにもいかない。


バタバタと服を着ていると袖が何かにぶつかり、小さなそれがコロンと棚から落ちベッドの下に転がった。

「あーもう急いでんのに…」と言いながら床にへばりついてそいつを救出すると、ほこりを丁寧に払い落とした。同僚が見たら笑うだろうが、それは手のひらよりも一回り小さなクマのぬいぐるみだった。しかもぶかっこうな軍服を着た。

軍事局に入局する前の王立学院時代に、このクマは『ただのクマ』から『軍人のクマ』に成長を遂げた。俺はそれをそっと撫でると、この軍服が贈られたときのことに思いを馳せる。




俺は始業の鐘がなるのを聞きながらのんびりと王立学院の一回生クラスが並ぶ廊下を歩いていた。この時間、一回生は入学式で当面は戻ってこないはずだ。そして俺のクラスは一限目が算術だった。戦闘に算術が必要ないとは言わないが、逆に算術を極めたからと言って戦いに勝てるわけではないだろう。


つまりは授業をサボっていた。


どこか適当なクラスで寝ていようと角を曲がったところで、廊下の中ほどにうずくまる小さな影が見えた。人だと認識すると同時に走り寄る。

「おい、どうした?」

栗色のサラサラとした長い髪を揺らし、少女が顔をあげる。大きな瞳が苦しげに歪んでおり顔面は紙のように蒼白で、肩を上下させて息をしている。

「お、おいっ大丈夫かよ!…誰か!誰か来てくれ!!」

だれか、と続けようとした俺の腕を少女が掴んだ。目を向けるとまだ苦しそうに下を向いていたが、小さく首を横に振っていた。大事にするなという意味だろうか、じゃあどうする?と焦る。

「…なあ、ちょっとここで待っててくれ。保健士呼んでくるから。それまで独りで大丈夫か?」

俺は言いながらも、何か彼女を元気づけられるものがないかと制服をパタパタと探る。出てきたものはフェルトでできた小さなクマだった。なんだっけこれ、と思いながら少女にそれを渡す。

「それ、俺の代わりのお守り!一緒に待ってろよ!」

一階にある救護室にダッシュで向かう道すがら、保健士であるジルの顔が思い浮かぶ。何度も怪我を手当てしてもらってはいるのだが、あのおっとりしたおっさんにあの子を任せて本当に大丈夫だろうか。


階段を下りきったところで白衣を着たぼさぼさ頭の男と出くわした。ジルだ。いつになく硬い表情をしているそいつを見て、さっきの叫びが届いていたことを知る。

「ガルディウスくん!」

「ジルこっち、女の子が倒れてる!」

言いながら踵を返して今度は階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。その俺をジルが追い越していった。

え。こいつ、ただひょろひょろしてるだけかと思ってたら意外と動ける。追いかけながら見るジルはまるで野を駆ける獣のように、無駄の無いしなやかな姿をしていた。

女の子のところに戻ると彼女は完全に倒れ伏していた。が、こちらの足音を聞いてか震える腕で体を起こそうとする。


「保健士のジルと申します。ちょっと失礼しますね」

ジルは少女の傍らにしゃがみこみ声をかけるとテキパキと彼女の容体を見た。俺はそれをじれったく見守るしかできない。最後に彼女の顔を持ち上げ目元を見たジルは、そのまま彼女の瞳をのぞき込むようにして告げる。

「救護室でしばらくお休みしてもらいたいのですが、歩くのは難しいかと思いますので、僕がお連れしてもよろしいですか?」

ジルは少女が微かにうなづいてくれたことを確認してから彼女を抱きかかえた。限界だったのだろう、彼女の体からふっと力が抜け、意識を失ったことがわかる。

ついていくべきか迷ったが、ジルの視線に促されて一緒に救護室に向かった。

「なあ、その子大丈夫なのか」

「大丈夫ですよ、ただの貧血です。少し休めば元気になります。でもガルディウスくん、お手柄でしたね」

自分よりよほど年上のそいつに褒められると偉大な成果を上げたような気になり、まあなと照れ隠しをしながら胸を張った。




俺はその数日後、ジルからあの少女からのお礼という茶色い紙袋を受け取った。なんでジルから?と問えば、君ねえ、文学科一回生の女の子が軍事科三回生の男の子のところに行くなんて、人目もあるし普通怖くてできないでしょう。と告げられた。

そういうものか?と思いながら女性からの贈り物にしては地味な色合いの袋を怪訝に見れば、それも、誰かに見られた時に君が気恥ずかしい思いをしないように彼女からの配慮ですよ。そういうところもちゃんと気づいてあげなさい。とたしなめられた。はあ。と、よくわからないまま返事をした。


帰宅して袋を開けると、手紙と手作りらしいクッキー、それとあの時持たせたクマが入っていた。クマには見覚えのない洋服が着せられているように見える。

まず手紙を取り出して読んでみた。お礼が遅くなったことのお詫びに加え、あの時のお礼が長々とつづられたあとに、クッキーが口にあえば、ということと、クマについてが書かれていた。


『あのときクマさんを持たせてくれて、一人じゃないと思えてとても心強かったです。ジル先生からガルディウス様が騎士さんを目指されていると伺いましたので、小さな友人に勝手ながら軍服をお贈りさせていただきます』


それを読んでクマを取り出して見れば確かに軍服だった。律儀に肩章や徽章も刺繍で縫い付けられている。へえ、器用なもんだと思ってよくよく見ればそこかしこの縫い目がガタガタしており、あの小さな少女が苦心しながら縫ってくれている様子が思い浮かんだ。


心臓がどきんと一度鳴り、その鼓動が波紋のように心の中に広がっていった。そのくすぐったさを紛らわすように、律儀なやつ。と言って笑う。


それから数年後、親に見せられた婚約者候補の中にレティシアを見つけた俺はその場でレティシアを選んだ。あの日、冷たい廊下でただ震えるしかなかった小さな彼女を、どこの馬の骨とも知れない男には任せられないと思った。




「婚約してからもう六年なんだよな…」

お互いに次男次女でありかつ長男の家には跡取りとなる男子が早々に産まれていたため、結婚はなあなあと引き延ばしてしまっていた。その結果、北方遠征が手に届くところまで迫ってきてしまっている。


北方遠征の任期は最短で三年。結婚して彼女を北方に連れて行ければと切実に思うが、彼女は重い貧血でしょっちゅう倒れている。北の過酷な生活に、彼女の体は耐えられるのだろうか。耐えられなかったとしたら、俺は彼女を一人王都に残して北に行くことになるのか?あの頼りない彼女を一人で置いていくなんて選択、全く現実的じゃない。といろいろな考えが頭の中を錯綜する。


行きづまった俺は顔を叩いて気合を入れ、ニッと笑みの形を作った。まずは律儀で可愛い婚約者を彼女の本の城に迎えに行かなくては。

クマを見てて遅れた、と言ったら彼女はなんと言うだろう。きっとはにかみながら笑ってくれると思った。

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