痺れる甘さの特製ブレンド
ルード文官長の執務室から退席した帰り道。医局にあるジル先生の医務室のドアを叩くノックに返された、どうぞー開いてますよー。という間延びした声を聞いて私はようやく気を抜くことができた。
「失礼しまあす…ジル先生ごめんなさい、ちょっとベッド貸してください…」
と言い終えないうちにベッドに倒れこむ。
「どうしました、また発作ですか?!」
部屋の角に置かれた無機質なデスクで何がしかの書きものをしていたジル先生は、グレーの柔らかそうな長いウェーブ髪を振り乱しながらこちらを振り向く。
「いえ、紛らわしくてごめんなさい。さっきまで文官長と話していたのでちょっと疲れちゃって」
「…レティシアさん、悪気はないんでしょうけど、本当に肝が冷えるのでやめてください」
はぁい、ごめんなさい。と笑うとジル先生は丸眼鏡を外して目元を揉む。おじさんっぽいですよ先生、おじさんですからいいんです。といういつもの掛け合い。
総統院にある医局で働いているジル先生はガルディウスと同じく王立学院からの知り合いで、持病がある私の主治医も務めてくれている。十年に渡る長い付き合いなので、先生のその癖が出るときは本当に困っている時だと知っていた。申し訳ないことをしてしまったと素直に反省する。
「お仕事は順調ですか?」
「そうですね、次の総会に向けて文官長にいくつか提案を持って行ったんですが、大きな修正は無しで済みそうだったので安心しました」
「へえ、あのルード文官長を相手にそれなら大金星ですね」
「はい、ラウラとハンスも頑張ってくれたので、良い報告ができそうで嬉しいです」
有意義な時間だったし好意的な反応だったのは大変嬉しいし悪い人ではないのだけれど、いかんせん、あの頭の回転の速い人と一対一で話し合うのは疲れる。疲れる、という表現では生ぬるい。脳の中に過電流を流されて、強制的にいつもより五倍回転させられているような感覚だ。
目の奥がちかちかしてぎゅう、と目頭を押さえた私の鼻孔を香ばしい香りがくすぐる。
「おつかれさまでした」
ジル先生が私にカップを差し出してくれる。少しのコーヒーにたっぷりのミルクとお砂糖。ジル先生特製ブレンドだ。
「ありがとうございます。すみません、無理言って急に診察のお時間をいただいたのにコーヒーまで」
一口飲むと痺れるような甘さが直接脳に行き渡り、もう一口飲むと食道からお腹、指先から足先まで温かさがじんわりと染みわたっていく。
あまい。おいしい。
お行儀が悪いとは思ったけれど、ミルクのおかげで人肌の温度になったコーヒーを私はほぼ一気に飲み干してしまった。すっかり力が抜けてしまって、ほう…と息をついた私の姿を見たジル先生は真剣な顔になり眼鏡の奥の細い目をさらに細めた。
「レティシアさん?そのご様子ですと、もしかして、また、お昼ごはん抜きました?」
内心ぎくりとする。
「た、食べたような気がするんですが…?」
「へえ?どこで、誰と、何を」
「え、ええと…なんだったかしら…?」
「…ふうん?」
ちらりと見やればいつもの中性的な柔和さが消えたジル先生が、無精髭を撫でながら値踏みするような目で私を見ている。その圧に負けて素直に白状した。
「すみません、忙しくて忘れてました」
「でしょうねえ。…おかしいなぁ。僕はここ十年ずっとずうっと、母親かのように『ごはんを食べなさい』って言っているんだけど。目の前にいる僕の患者さんは王立学院をそれはそれは優秀な成績で卒業した才女のはずなんだけど。なんでお昼ごはんを食べるっていうただそれだけのことができないのかなぁ。おかしいなあ」
「…すみません」
嫌味たっぷりに言われるが、十以上も年上の男の人の言いようとは思えなくてちょっと面白くなってしまう。それに気づいたのかジル先生は真面目な声音で言いなおした。
「たびたび失神するほどの貧血なんですから、真面目に考えてください。きちんと食事をとっていても倒れることがあるのに食事を抜くなんて、君は死にたいんですか」
「はい、すみません」
私も真面目に言いなおした。よろしい、と言うと先生は私からカップを取り上げる代わりに体温計を手渡す。体温を測っている間、ジル先生は目のふちの血色を見、脈と血圧を測った。かすかに香るタバコのほろ苦い香り。ほらね。貧血を起こしてる。と先生は小さくこぼす。
「このあと食事会に行けるかっていうご相談でしたよね。相変わらず仲良しですね。…まあ、君に過保護すぎるくらいのディーが付いているならいいでしょう。その代わりきちんと食事をとって、お酒は控えめに」
ガルディウスとも親しいジル先生は彼のことをディーと呼ぶ。私は彼との約束を反故にせず済んでほっとした。
「この時間、騎兵隊はまだ訓練中でしょう?」
「はい、なんでも今日は一騎打ちの模擬試合があるそうで意気込んでました」
「じゃあディーが終わるまで少しここで休んで行きますか?」
「そうしたいのは山々なんですが…」
とうなだれた私を見て察してくれたらしいジル先生は、仕事中毒っていうのも立派な病気ですからね。と言って苦笑した。
廊下で再度頭を下げた私に小さなチョコレートを握らせ、先生は私の頭をポンポンと撫でると扉に寄りかかりながら小さく手を振った。
「ディーによろしく言ってください。良い夜を」