想定内の婚約破棄
本当にその通りになった。立ち尽くしているが、ハンナはショックを受けたわけではない。夜会の真っ只中、突然婚約破棄を宣言したフーゴは、冷笑を浮かべる。
「自分が何をしたかわかっているな。其方は国母になるに相応しくない」
ちらりと移した視線を追うと、無邪気という衣を着た、礼儀知らずな彼女が、目を爛々とさせている。はーっと溜め息を吐くハンナに勘違いをしたフーゴは、追い打ちをかけるように口を開く。
「どうした。言い逃れも出来ないか。心当たりがありすぎるか」
弾ませる声に呆れ果てる。次代の王がフーゴだと思うと、頭が痛い。
「恐れながら。何か不備がごさいましたでしょうか」
沈黙を破ったハンナに、そんなことも教えてやらねばならないのか、とフーゴは鼻を鳴らした。
「身分を笠に着て傍若無人に振る舞っておきながら、自覚がないか。ここまで愚かだとは思わなかった」
愚かなのはどちらだ。そっくりお返ししたい気持ちを抑えていると、フーゴの声は虚飾に満ちていく。
「其方は、学園に不慣れな学友に、ずいぶんと卑劣な態度を取っていたらしいではないか」
「らしい、とは。ご確認なさってないのですか」
「被害に遭った者から、直接聞いている」
「殿下ともあろうお方が確認もなさらず、たったそれだけの情報で」
「うるさい! 被害者が嘘をつくわけないだろう」
繰り広げられる展開に集まってきた人々は、耳打ちを始める。ハンナなら直ちに過ちを認め、粛々と婚約破棄を受け入れると踏んでいたフーゴは、周囲の様子に焦りを見せる。
「殿下。その方は何を訴えておいででしたか」
「ふん。編入したてで勝手のわからぬ者を咎めていただろ。身分が上の者に自分から話しかけるな、許可なく名前で呼ぶものではない、料理とカトラリーが合っていない」
フーゴが口を動かすほど、周囲はひそめきをぴたりと止め、眉根を寄せていく。どこに過ちがあるのだ。当たり前のことが出来ず恥をかくのは、まずは当人。貴族社会の中で簡単に弾かれてしまう者を、わざわざ気にかける物好きはいない。格好の餌食は、利用されるか、相手にされないかだ。学園は、基礎学力と立場に見合った振る舞いを身につける場とされているが、教師以外が気にかけることは稀であり、幸運な経験ではないだろうか。
「仮に私の所業として。誤ったことを申していますか」
「いや。正しいことを言っている」
フーゴと彼女以外は、呆気に取られる。何が問題なのか。ハンナは頭痛どころか眩暈まで覚え、フーゴの情けなさに泣きたくなる。
「卑劣な態度、ですか」
「ああ。彼女は辛く感じたのだ」
「だとすれば。彼女は国母に程遠いな」
よく通る声が会場に響く。群衆となった人々の波から、一本の道ができ、陛下、自身の父の姿にフーゴは慌てふためく。
「何やら興味深い余興をしているようだな」
「よ、余興などではございません」
「そうだな。何も聞いておらん」
陛下を通していなかったとは、本日何度目の衝撃だ。夜会の最中に婚約破棄を宣言するなど、王家でさえ例を見ない。これは、フーゴの独断。ハンナは冷めてきた頭で考える。
「ハンナ。愚息は一人芝居を披露したかったようだ。観劇が好きなのは知っているな」
「はい。迫真の演技で、大変驚かされました」
「はは。驚かせて悪かった。次はしっかり場を設けよう」
次の場。余興の場ではないと察する。
「さて。皆の者、付き合わせてしまったな。芝居は終わりだ。夜は長い」
周囲は散り散りになっていく。長居は無用。いつまでも残っていれば、国王の計らいに異を唱えたこととなる。陛下に礼をし、立ち去ったハンナは飲み物を受け取る見知った顔を発見する。
「リナ。こんなところにいたのね」
声を掛けられたリナは、ハンナに飲み物を渡す。とんだ茶番に付き合わされて疲れた。淑女らしからぬ勢いで、一気に飲み干す。
「お疲れ様」
「リナのおかげで難を逃れたわ。救世主よ」
季節外れに編入してきた彼女は、令嬢とは思えないほど無知だった。誰もが巻き添えをくらわぬよう遠巻きにする中、このまま学園に通っていても意味がないとハンナは意を決した。それから、彼女に寄り添い努めていたが、振る舞いは一向に改善されない。リナが話しかけてきたのは、どうしたものかと頭を悩ませていたときだった。人の話を全く聞き入れないどころか、フーゴに不満を漏らしていたと知ったときは、絶望した。
「信じられないような話を持ちかけたのに、ハンナは信じてくれたわね」
殿下の不貞。リナは真正面から告げた。最初は、話半分にとどめようとしたハンナだが、思い返してみれば、思い当たることばかりだった。フーゴと過ごす時間は、学園でのランチだけ。教室移動は、フーゴと彼女が楽し気に歩いている。街で二人が過ごしていた、と学園中もちきりになったこともある。ハンナはフーゴに恋愛感情など持ったことはない。フーゴもそうだろう。だが、あまりにも不誠実ではないだろうか。
二人で手を取り合い、よりよい国にしようと語っていたのは何だったのか。もはや婚約を破棄したほうがいい。しかし、誰にも打ち明けられずに一ヶ月を過ごした。
「婚約はやめたほうがいいわ。今の殿下なら、きっと自分から言い出してくるわよ。彼女を気にかける必要もないの。王家どころか爵位のある家は、彼女を受け入れるはずがないもの。没落まっしぐらよ。二人は報われない恋をしているだけ。馬鹿な二人は放っておいて、ハンナは自由になりましょう」
放課後、教室に一人残っていたハンナに、リナはまた声を掛けた。
翌日。ランチで会うのはやめよう、とフーゴに持ちかけると、あっさり快諾された。体裁を気にして渋るかも知れないと考え、見聞を広げる為という理由まで用意したのに、拍子抜けしてしまう。
「リナがいなかったら、今の私はいないわ」
ドリンクのおかわりを貰い、こっそりグラスを掲げ、乾杯する。
「リナ」
声の方を向けば、一人の男性が目を細めた。
「私の兄よ」
「アベルです。初めまして」
リナの父は財務大臣であり、アベルは補佐を行っている。将来は、父親を凌ぐ人物になるともっぱら評判だ。
「かしこまらなくていいですよ。恐れながら拝見しておりました。妹に倣って名前で呼んでも?」
「もちろんです」
「ハンナ嬢の心根は、気高く美しいと思う」
「勿体ないお言葉です」
「ハンナ嬢、私と踊っていただけますか」
えっ、とハンナは声を漏らす。先程の顛末により、フーゴとの婚約が破綻していることは明確である。しかし、まだ正式な婚約者。目の前に立つ、リナの兄に応えられない。
「安心してください。ハンナ嬢は非難されない。むしろ、あなたが踊ることで場の空気は払拭できる。誰かと踊ってしまえば、次いで誘ってくる者も現れるでしょう。平然と踊り続けていれば、参加者は理解する。本当に余興だった、と」
「そう、でしょうか」
「はい」
穏やかに微笑むアベルに、ハンナはどきっとする。まだ婚約者がいる身で、これはいけない。そっと上目遣いで様子を窺えば、アベルは少し首を傾ける。
「私でよろしいですか?」
下ろしている手を、僅かに上下させ逡巡を続けていたハンナは、アベルの差し出した手に、そっと手を乗せる。
「ありがとうございます。……他の者には譲りませんが」
「え」
「あなたの手を取れて光栄です」
聞き漏らした言葉がわからない。エスコートされるがままダンスフロアへ進む。
リナは扇子の奥でニヤニヤと笑い、注目を浴びる二人を眺める。ハンナの足捌きは手慣れたものがあるが、アベルもなかなかだ。
「そうなると思った」
リナは、フーゴと彼女が街にいるのを偶然見かけた一人だ。仲睦まじく花屋にいた様子を、帰宅後アベルに話した。全てを聞き終えたアベルは、ハンナに正直に伝え、そばにいてやれ、と言った。
「流石。お上手ですね」
「こんなにリラックスして楽しめるのは、初めてです」
「初めてですか」
「ええ。いつもはミス一つないよう、神経を張り詰めていましたから」
「私だとその必要はないと?」
「まさか。その、私の立場はもう変わっているようなものです。そういった評価は受けないと感じておりますので」
「誰もがあなたに視線を注いでいても?」
「関係ないです。今はただ踊っていたいです」
アベルは回していた腕に力を込め、先程より引き寄せる。
「では。このままでいましょう」
真っ直ぐに笑みを向けられ、ハンナは真っ赤にした顔で、こくりと頷く。軽やかに流れるメロディーと胸騒ぎが、つま先を軽くする。
アベルは、初めてハンナの姿を捉えた時、運命の悪戯だと思った。いつ出会ってもおかしくなかったのに、いつもフロア一つ分すれ違っていた気がした。麗しくも決して手を伸ばしてはいけない存在。今以上に知恵をつけ、国を支え、彼女を守るしかなかった。ハンナを当然のように迎えながらも、蔑ろにしたフーゴに、今は感謝しかない。
「ふふ」
「何かございましたか」
「いいえ」
フーゴが既に退場していることに、ハンナは気づいていない。それだけでアベルは、気分がいい。