゛普通を選んだヒトの話 ゛
それから数年の間は、先輩や同期達に軽い皮肉を言われながら仕事に臨む日々だった。それでも徐々に営業成績を平均にまで持ち上げ、今この時、県外の出張営業を任される程度には働けている。21時20分に出発して翌日3時には到着するようだ。すでに2時間ほど走っている高速バスの2列目窓側に座って景色を見るのが、この時間の唯一の楽しみで
キィィィキキィィィィィィ ガシャン‼ ベコン‼
突然の衝突音が前方から聞こえる。バスの目の前で事故が起こったようだ。と、理解した瞬間気づいた事は、事故を起こした車を避けようと右往左往するこのバスと、身体の浮遊感。とうとうバスが前方の事故車両にぶつかり、衝撃で窓や椅子に頭をぶつけ、乗客の悲鳴と自身の思考が混ざっていった。
倒れる、死ぬ、私もほかの乗客も。事故を起こした人間が憎い。バスもなんでブレーキを踏まない。あぁでも高速でブレーキは。せっかくひとりで生きられるようになったのに。会社に連絡を。昨日買ったクリームプリン食べておけば。明日の天気なんだっけ。鞄には大事な資料が。
ぐちゃぐちゃになった思考が開けた瞬間目に入った景色は、見上げるほど高い崖とちょうどその間から流れる水、その水で出来たであろう川、そして
「喫茶・境界線…喫茶店…?」
何かの植物がまばらに白い壁を伝い、赤い屋根に青い扉を付けた、こじんまりとした喫茶店。こんな、明らかに人が通るはずもない場所に?いったい誰が何のために?そもそもここはどこ?事故車両は?私が乗っていたバスと乗客は?だってさっきまで私は、私は…。
「死んだの、私…?」
眩暈がする、吐き気で立てない、嘘だと思いたい。あの時頭をぶつけたせいじゃない、もっと、信じたくない事実が今この瞬間に私の精神を潰していくのが解る。そうか、死ぬとはこんな感じなんだ。そしてここが、いわゆる死後の世界なんだ。少しずつ、少しずつ、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、事を受け入れるように深呼吸をした。
ひとしきり自分を落ち着かせ、ようやく立てるようになった頃。営業仕事のおかげか、今は目の前にあるこの喫茶店に入ろう、入ってしまえばこっちのもんだという勇気さえ湧いてくるようだ。死んだのだったらこれ以上が起こることはない、なら、死後の世界の喫茶店、行くしかないでしょ。
カラン、コロン。扉のベルの音に、オーナーであろう男がこう告げた。
「ようこそハザマの魂さん。ここは喫茶・境界線、生と死の間の谷底さ。」