3 妻の尊厳
この章で完結です。
『牧場のサンドイッチ』の誕生秘話はわかったと思う。しかし、息子のユーリアンが言っていた、自分が傷付けたという妻の尊厳とは、一体なんだったのだろうか?
ミリアナが居なくなってから、間もなく一年が経とうとしているが、今だに彼女の尊厳というものが思い当たらなかった。
オーサーはミリアナに会いたかった。話をしたかった。息子と娘、そしてマイケルからも二度と接触するなと言い渡されている。彼女は息子のユーリアンの主治医だった男と既に再婚してしまっている。復縁が無理だと言う事も、時間をかけてようやく頭では理解できるようになってきた。
しかし、突然、本当に突然の別れにはまだ心が納得できていないのだ。彼女の気持ちを聞いてみたいのだ。その上で謝りたいのだ。
「三十年以上まともに話をしようともしなかったのに、今更何言ってるのよ。見苦しいわね。この屑男!」
娘のケイトは息子のユーリアンの何倍も手厳しいし、容赦がない。そして私の悩みの相談にはけして応じてはくれないが、月に一度くらいは孫たちを連れて様子を見に来てくれる。ミリアナの育て方が良かったのだろう、優しい子だ。
孫達はとてもかわいい。私が簡単な魔法を見せてやると大喜びしてくれる。息子や娘にもこうやって相手をしてやれば良かったと、涙をこぼすのもしばしばだ。
そんなある日、私のもとに、王城の使者から手紙が届けられた。長年の魔術研究の功績が認められて、春の叙勲で準男爵位を授かれる事になったのだ。
予想されていた事とはいえ、オーサーは久しぶりに嬉しくなって、息子と娘にその事を伝えた。そして、受賞式に一緒に参加して欲しいと頼んだ。
しかし、二人からはその日は別の大事な用があるから一緒には行けないと断られてしまった。
このところ、親交を深めてきたとはいえ、三十年以上放りっぱなしにしてきたのだ。当然の報いだ。今更一緒に喜んでくれというのは図々しい願いだった。オーサーは久しぶりに落ち込んだ。
家族を犠牲にしてまで研究に捧げたこの三十年。その結果がこれか。一緒に祝ってくれる者が誰一人もいないとは。最初の喜びはどこかへ吹き飛んでいた。
オーサーは暫く落ち込んで、ただボーッと叙勲の招待状を眺めていたが、彼は突然ある事に閃いた。彼は書斎から飛び出すと、居間と台所を眺め回した。
なんて自分は馬鹿なのだろう。なんで思いつかなかったのだろう。自分は一体何を研究してきたんだ! 過去視魔法や残留思念魔法の研究だろう?
この家の中にはミリアナの三十年もの思いが溢れているじゃないか! それを見れば彼女の思いがわかるぞ!
オーサーのその思いつきは良かった。しかし興奮して、その事の持つ重要性、深刻さに思いが至らなかった。その結果、心構えが出来ていなかったオーサーは、人生の中で一番きつい思いをしたのだった。
結婚当初のミリアナは若くて愛らしくて可愛らしかった。幸せそうな微笑みを浮かべて、楽しそうに家事にいそしんでいた。オーサーはそんな彼女の姿を知らない。彼女を見ようとしていなかったからだ。
彼女は毎日のように庭の花を摘んで、居間のテーブルと書斎のサイドテーブルに飾っていた。オーサーはその可憐な花には気付いてはいなかった。
彼女は朝早く起きて朝食の準備をし、それを綺麗に皿に盛って、テーブルの上に並べた。その後、手早く弁当を作って可愛らしい四角い布地で包んだ。
自分が毎日食べていた弁当は、あんなにも綺麗で美味しそうだったんだな。同僚に羨ましがられた意味がようやくわかった。当時はただからかわれているだけだと思っていた。
そう、朝食も昼食も夕食も料理を見ずに、新聞や本やレポートを読みながら食べていたから、どんなに美しく、美味しそうに盛られていたのかを知らなかった。そしてその自分の様子を悲しげな顔で見つめていた妻の顔も。
「何か食べたい料理はありますか?」
「どの料理が好きですか?」
「今日の料理はどうでしたか?」
ミリアナの問にオーサーは面倒臭そうな顔をして何も答えない。彼女は泣きそうな顔をしてしていた。それでも毎日一生懸命に料理をしていた。
そして彼女はあの『牧場のサンドイッチ』を生み出した。書斎で書物を読みながらでも片手で食べられるように、職場で研究の片手間に食べられるように。
ミリアナは時々『牧場のサンドイッチ』を沢山作って、職場の同僚に差し入れをしていた。
同僚達は顔を綻ばせ、美味しい、美味しいと口々に言っていた。それはお世辞ではなかった。顔を見ればわかる。
彼女はとても嬉しそうな幸せそうな顔をした。結婚したばかりの頃に見せていた顔だ。そして、家庭ではもう見せなくなった顔だった。
そのうち、ミリアナは本当に笑わなくなった。そしていつも暗い顔をしているようになった。オーサーに話しかける事もなくなった。食卓はいつも静かで、時計の秒針の音だけが響いていた。
しかし、そのうちにこの家もにぎやかになった。赤ん坊が生まれたのだ。ミリアナはユーリアンを抱いて再び幸せそうな顔をしていた。
三年後には二人目が生まれた。娘のケイトだ。
ミリアナは毎日忙しそうだったが、料理だけは手を抜かなかった。
そしてやがて目的の日の映像が浮かんだ。その日は朝からケイトの機嫌が悪く、朝食の用意はどうにか出来たが、お弁当が間に合わなかった。
怒った様子もなく、今日は昼飯を抜くからいいと言ったオーサーに、ミリアナは謝りながら、昼食の時間までには役所に弁当を届けると言った。
彼女はケイトをあやしながら、ユーリアンに学校の仕度をさせ、彼を登校させた。
それから彼女はケイトと共に朝食をとり、すぐに料理をまた再開した。そして、夫の弁当と自分達三人の昼食を用意した。
『牧場のサンドイッチ』は本当に手間暇がかかる。あんなに大変な思いをしながら作っていたのかと、今更感動し、感謝した。
ようやく弁当が出来上がると、ミリアナは化粧をして髪を結い、小綺麗な服に着替え、弁当の入った手提げ袋を提げ、娘の手を握って出かけて行った。
やがて暫くしてミリアナが娘と共に帰ってきたが、彼女は今まで見た事がないほどやつれた顔をしていた。憔悴しきっていた。ただ弁当を夫の職場に届けただけなのに、どうしたんだろう。
彼女が戻ったすぐ後に玄関のドアがノックされた。隣りのスミス夫人がアップルパイを焼いてやって来た。どうも約束していたらしい。
しかし彼女はミリアナの顔を見て驚いていた。彼女が泣いていたからである。
ミリアナは泣きながらスミス夫人にオーサーとの結婚生活の不満をぶちまけた。女の同士の会話のあからさまな内容にオーサーは驚いた。
男同士じゃ間違っても話さない話まで平気で口にしている。しかも、男同士の話は半分は本気じゃない。照れ隠しでいい加減な事を喋ってるだけだ。
それなのに彼女達は真面目な顔で冗談ではなく、夫婦生活の秘密裏な言葉まで話していた。
しかし、一番ショックだったのは、彼女がスミス夫人の顔をはっきり見つめながら言ったこの言葉だった。
「私、もう無理だと思う」
「それは離縁したいという意味?」
オーサーの胸はズキンと痛んだ。しかし、ミリアナは頭を振った。
「子供達はまだ幼いし、離縁なんかできないわ。実家からも縁を切られて、他に頼れる所なんてないもの」
「それじゃ、何が無理なの?」
「夫に愛されること・・・」
ミリアナの呟きにオーサーの胸が抉られた。彼は妻を愛しているとか好きだとか思った事などなかった。嫌いでは無い事は確かだったが。
その事にミリアナは最初から気付いていたが、愛されたいと努力し続けていた。しかし、この映像の日、ついにそれを諦めたという事なのだろうか? でも何故?
「お前みたいな女が人に好きになってもらえるわけがない。だから、せめて料理で相手の胃袋を掴んで、嫌われないようにしろ。出戻ってきても家には入れない、って、母や兄に言われて育ったの、私・・・
私、誰かに愛してもらいたかった。だから、旦那さまに一生懸命尽くそうと思った。でも、何をしても喜んでくれなかった。私の顔を見ようとさえしなかった。
それでも食べる事は生きる事と同じでしょ? せめて食事だけでも頑張って作っていれば、いつかは私を必要としてくれるかも、とちょっぴり期待していたの。でもそれは無理だとわかった・・・」
「どうしたの? 何があったの?」
スミス夫人が優しくミリアナの背中を撫でながら尋ねた。そう、知りたい。一体何があったんだ。
オーサーは居間の隅からダイニングテーブルの方を凝視した。
「今日はケイトの機嫌が悪くて、朝、お弁当が間に合わなかったの。だから、さっき職場へ届けに行ったの」
「そう。それで?」
スミス夫人が次の言葉を促した。
「夫がね、同僚の方と話をしているのを偶然聞いてしまったの」
「そう。どんな事話していたの?」
「牛になりたいなぁ、って夫は言っていたわ」
「牛? 何? どういう意味?」
スミス夫人はその素っ頓狂な、不可解な台詞に眉間にしわを寄せた。
「牛はただ草を食べるだけだから、栄誉もバランスも献立も何も考えなくて、楽で面倒臭くないからいいなぁって」
ああ、確かにそんな事を言っていたような気がするが、それがどうしたと言うんだ。
「何言っているの? 元々ミリアナさんが作ってくれた食事を食べてるだけでしょ。これ以上楽な事はないじゃない。何が面倒なのよ」
スミス夫人が怒った。
「職場の同僚の人もそう言っていたわ。そうしたら夫が言ったの。サンドイッチはまだいい。見なくても簡単に食べられる。でも、それ以外の料理は面倒だって。色々出されるのが鬱陶しいって」
「! ! !」
スミス夫人が怒りで震えて言葉が出ない様子だった。
「私の得意な事ったら料理しかなかったのに、それさえ夫にとっては迷惑な事だったとわかって、凄いショックだわ。私なんて何の価値もないんだわ」
ミリアナはまた声をあげて泣き出した。スミス夫人は彼女を強く抱き締めて、更に背中を撫でた。娘のケイトも「ママァ、ママァ」と泣き出して、母親の足元に縋りついた。
「ほら、ケイトを見てご覧なさいよ。ケイトだけじゃないわ。ユーリアンだって貴女がいないと生きてはいけないのよ。
それに二人が今まで病気らしい病気をしていないのも、貴女が毎日栄養たっぷりの美味しい食事を作って食べさせているからでしょ。旦那一人何を言ったって無視すりゃいいのよ!」
スミス夫人はミリアナを宥めながらこう言った。そして、何か閃いたよう顔をしてこう言った。
「オーウェンさんは人間じゃないわ。そう、彼は牛、牛よ。
貴女はこの家の隣りの牧場で牛を一匹飼っているのよ。貴女は牛の飼育方法を知らなくて、無駄な世話焼きをしていただけ。これからは牧草だけ食べさせておけばいいのよ。そうすれば牛本人も満足なのだから」
「牧場の牛・・・
牧草・・・」
ミリアナがブツブツと呟いた。そして徐に泣いているケイトを抱き上げると、スミス夫人に顔を向けてにっこり微笑んだ。
「ありがとう、マチルダさん。私は今日から立派な牧場主になってみせるわ」
それからミリアナは毎日毎日『牧場のサンドイッチ』を作った。そして、朝食をダイニングテーブルに置き、昼食分を弁当箱に詰め、夕食分を氷の魔石で冷やす保冷庫の中へしまった。
彼女はその後も様々なバラエティに富んだ料理を作っては、子供達や友人、客人にふるまい、みんなを笑顔にしていた。
しかし、オーサーにはそれらの食事が提供される事はなかった。
そう。それがオーサーが望んだ事だったのだ。確かにそうだったのだが・・・
その数年後、ミリアナが血相を変えて家に飛び込んできた。リビングの床でユーリアンがのたうち回っていた。
ミリアナはユーリアンを抱き上げると、浴室へと走って行った。そしてその後、スミス夫人が医師を伴ってやって来た。
一人残されたケイトがダイニングで泣き叫んでいた・・・
ユーリアンが火傷をしてから、ミリアナの残留思念の中にオーサーの姿は全く現れなくなった。
オーサーがいなくても、ダイニングはいつも賑やかだった。スミス夫人をはじめ、ミリアナの友人や、ユーリアンやケイトの友人が絶えず遊びに来て、ミリアナの料理に舌鼓をうち、皆幸せな顔をしていた。
やがて子供達は大きくなり、それぞれの恋人を連れて来た。そして結婚式なのだろう。みんな正装して幸せそうだ。亡くなった両親の姿も見える。しかし、そこにオーサーの姿はない。
子供達が独立して、家の中は静かになった。そして、ミリアナが家を留守にする時間が増えていった。浮気か? 一瞬そう疑いかけたが、段々と疲労し、老けていく様子に、それはないと思った。
そして、その後続けざまにミリアナの喪服姿を見た。彼女はとても悲しそうな顔をして泣いていた。
「母さん、よく頑張ったね。おじいさんもおばあさんも、感謝していたよ。母さんこそ、自分達の本当の娘だったって」
ユーリアンとケイトがミリアナを慰めていた。ああ、両親が死んだのか・・・
その後、子供達が赤ん坊を連れて何度か姿を現したが、その後暫くたつと、誰もこの家にやって来る者いはなくなった。そして、ミリアナの残留思念は消えた。まだ、去年の定年退職の日までまだ間があるというのに。
オーサーは泣いていた。静かに声も出さずに。
ここは自分の家で、三十年以上暮らしてきた筈なのに、ミリアナが見てきた風景をオーサーは全く知らなかった。そして彼女の生活の中に自分の存在はなかった。必要なかった。何故なら、オーサー自身が彼女も子供も隣人も必要としていなかったからだ。
彼は書斎という居心地のいい牧場で暮らし、好きな事だけをして、生命維持のために仕方なく、サンドイッチという名前の牧草を喰んで、オーサーはこの三十年幸せだったのだ。ミリアナの主婦として、妻として、人間としての誇りを傷付けてまでも・・・
春の叙勲の式場である王城内の庭園で、オーサーは思いがけないいくつかの顔を見つけた。息子一家と娘一家だった。
やっぱリ来てくれたんだ。サプライズをしようと、用事があるだなんて嘘をついたのか。そう思った瞬間だった。彼らが向かった先に、素晴らしいドレスを着た初老の美しい夫人が、ロマンスグレーの品のいい紳士とともに、笑顔で彼らを迎えていた。
「ミリアナ・・・」
オーサーは呆然と呟いた。
彼は気付いていなかったが、王城から届いた今回の受賞者名簿には、彼女の名前が記されていたのだ。
国民の健康促進及び、寡婦や孤児への社会福祉の貢献に対して準男爵を叙勲すると・・・・・
ミリアナは、この国ではメジャーな女性の名前だという設定です。そして、ミリアナは再婚して姓が変っていたので、オーサーは元妻に気付きませんでした。
そもそも、普通の主婦だと思っていたミリアナが、自分と同じ勲章を貰えるなんて、オーサーの発想にはなかったので、青天の霹靂だったと思います。
読んで下さってありがとうございました。