1 定年退職の日
どこにでもいる、人生の黄昏を迎えた男性の話です。特別悪い事をしたわけではないですが、家族を顧みなかった為に、大きなしっぺ返しをくらいます。少し切ない話です。
彼の名はオーサー=オーウェン。
三十五年もの長きに渡って、魔法省魔術研究所で研究員として勤めてきたが、今日、いよいよ定年の日を向かえた。
数多くの論文を提出し、いくつもの特許をとり、賞も書斎の壁に飾れないくらいに貰った。
この国どころか、他国にも役立つ魔法の研究をしてきたので、あと数年後には恐らく勲章を貰える事だろう。
彼が職場のみんなに挨拶をして帰ろうとすると、同僚から大きな花束を渡された。
「長い間本当にお疲れ様でした。
最後くらい皆で食事をしたかったのですが、どんな高級レストランで食べても、奥様の料理には叶わないと思いますので、お誘いは遠慮しておきます。お帰りになったらきっと、素晴らしい御馳走が並べられているでしょうね」
「素晴らしい料理? 何故妻の料理が美味しいと思うんだね?」
お愛想とは言え、妻の料理を持ち上げ過ぎだろう。高級レストランのそれより旨いだなんて、とオーサーは思った。
「だって、奥様の料理、美味しい事は有名じゃないですか。最近はお忙しくて無理だったのでしょうが、以前はこの職場にもよく差し入れをして下さいましたよね。本当に美味しかったですよ。
特にあの『牧場のサンドイッチ』、あれを二十年前に食べたと言うと、みんなに羨ましがられるんですよ」
「何だそれ?『牧場のサンドイッチ』って?」
変ったネーミングにオーサーが小首を傾げると、後輩は驚いた顔をした。
「オーウェンさんは、毎日ランチで食べていたのに、あのサンドイッチの名前を知らなかったんですか? あの栄養満点、バランス満点、その上美味しいサンドイッチの。あれは奥様オリジナルで、サンドイッチの中で一番だと高く評価されているんですよ」
知らん。そんな事。たかがサンドイッチくらいで大袈裟な。
彼の研究の評価をする時より間違いなく力が入っていて、真剣に話をしているのが気に食わない。それはともかく・・・
「何故退職する時に花束をくれるんだ? 男が花束を貰っても嬉しくないんだが」
オーサーがこう言うと、今度は別の後輩の女性が苦笑いをしながら言った。
「それは奥様に対してのものですよ。奥様の内助の功があったからこそ、無事に定年退職の日を向かえられたのでしょう?
体調管理やら身の回りの世話、家事子育てを引き受けて下さったからこそ、仕事に邁進出来たわけですから。それに対する感謝ですよ」
「花束なんか貰って嬉しいものなのか?」
「花を貰って嬉しくない女性はいないと思いますよ。まさか、奥様に花を贈られた事がないんですか? 誕生日や、結婚記念日に。それじゃあ、花じゃなくて何を奥様に贈られていたんですか?」
女性後輩は驚いた後で、疑わしそうな顔でオーサーを見た。まさか、記念日に何も贈らなかったのかと。
しかしその通りだ。彼は結婚記念日や妻の誕生日がいつなのか知らないのだから。まあ妻だけでなく、自分の誕生日の日付さえ怪しい。
「そんなんで、退職後は大丈夫なのですか?」
彼女は今度は心配そうにそう聞いてきたが、何が大丈夫なのかそうじゃないのかがオーサーにはわからない。
「旅行とかに誘ってみたらいかがですか? お二人とも長らくお勤めご苦労様、という事で。まぁ、奥様の方は今後もお忙しくて、なかなか時間をとれないかもですが・・・」
さっきの後輩もこう言った。ただ、言葉の最後の方がよく聞こえなかったのだが。
家に帰る道すがらオーサーは思った。退職後は何をしようかと。
魔法の研究は役所でなくても出来る。これからも続けるつもりだ。しかし、たまには旅行をするのもいいかもしれない。
ただ、出張の時に困ったのは、旅先での食事の不味さだ。今までは仕事だから仕方なかったが、私的な旅行なら妻を連れて行こう。そうすれば問題なく、快適な旅になるだろう。
家に着き、オーサーがドアを叩いたが応答がない。料理で手が話せないのかもしれないと、彼は自分で鍵を開けて家の中に入った。
しかし家の中には誰もいなかった。食卓の上には食事も乗っていない。
オーサーはあまり感情の起伏が大きい人間ではない。いや寧ろ平坦で、あまり怒ることはない。
そんな彼だが、さすがにこの時は腹立たしく思った。今日はいつもと違う。退職の日なのだ。後輩から御馳走が並んでいるだろうと言われ、多少期待をしていたのだ。それなのに。
しかし、と、オーサーはふと思った。
そう言えば、朝食以外でテーブルで食事をした事がなかったなと。
彼は平日の夜と、休日の三食は標準より大きい、書斎の特注品の机でとっていたからだ。
そうか、食事は机の上か。納得しながらオーサーは書斎の扉のドアノブを回した。そして唸った。
机の上にも何も乗ってはいなかったのだ。
結局夜遅くなっても妻は帰ってこなかった。彼は腹を立てながら台所を探って、パンとソーセージの缶詰とチーズを見つけた。そしてそれをテーブルの上まで運び、滅多に飲まないワインと共にそれらを胃袋へ流し込んだ。
イライラして味なんか全くわからなかった。
肌寒さを感じてオーサーが目を覚ますと、彼はなんとテーブルにうつ伏せになって寝ていたらしい。
ブルッと彼は身震いした。春になったとはいえ、朝夕はたままだ冷える。
書斎で研究に夢中になって寝込んでしまうのは日常茶飯事だったが、目が覚めた時に寒さを感じた事は今までなかった。それは毛布を掛けられていたり、部屋が暖められていたからだ。
「ちっ!」
オーサーは珍しく舌打ちをした。一体彼女は何をしているんだ。妻に対して少し甘過ぎたかもしれない。これからは妻としての心構えを再確認させなければならないだろう。これから自分は、毎日家の中で彼女と過ごす事になるのだから。
ふと彼は、萎れ始めた花束に気がついた。花の手入れなどはした事がなかったが、とりあえず水に浸さないとまずいだろうと立ち上がった。そして掃除用具入れからバケツを取り出すと、水を汲んで、そこに花を突っ込んで、彼はため息をついた。
その日も妻は帰って来なかった。さすがにおかしいとオーサーは思ったが、彼女がどこへ行ったのかさっぱり思いつかなかった。
息子と娘は結婚してとうの昔に家を出て独立していた。しかし、子供達の家の場所を彼は知らなかった。孫が生まれた時もお祝いは妻任せで、顔を見にも行かなかったからだ。どうせいずれ向こうから来るのだからと。
もっとも、孫達が遊びに来た時も書斎に籠もっていて、顔を見もしなかったが。
困った彼は、いやいや妻の実家へ行った。しかし、妻の実家があった場所には知らない家が建っていて、知らない住人が住んでいた。
「イーグルスさん? ああ、以前ここに住んでいた方ですね。もう十年くらい前におばあさんが亡くなって、その後息子さんがここを売りに出して、私どもが買ったんですよ。
えっ? 息子さんがどこにいるかですって? そんな事知るわけないじゃないですか」
妻の兄はオーサーの職場の元同僚で、そもそも妻と結婚したのも、その兄の紹介だった。数年前、定年前に退職していたが、辞めた理由も、今何をしているかも知らない。それを今まで気にした事もなかった。
新しい住人である中年の婦人に追い返され、オーサーはトボトボと家路についた。
もう妻の居所を探す術がない。警邏隊に捜索願いを出すべきだのだろうが、そんな恥ずかしい真似が出来る筈がない。自分が妻に酷い事をして逃げられたと思われてはたまらない。自分は博士号を持ち、間もなく国から勲章を貰う予定の人間なのだから。
しかしながら、妻がいないと生活に困るので、彼女が戻るまで家政婦に来てもらう事にしよう、と彼は思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
役所を退職してから三週間程たったが、妻はまだ戻らなかった。
家政婦紹介所から手配してもらった家政婦は既に二人目だった。
一人目の家政婦はすぐにクビにした。掃除や洗濯、片付けには問題なかったが、とにかく料理が下手だったのだ。
家政婦を雇うのが初めてで、こちらの条件をはっきり指定するのを失念していたのだ。
「今度は料理上手な人を頼む」
と家政婦紹介所の女所長に告げると、彼女は首を捻った。
「前の人も料理上手だって評判だったんですが、味のお好みが違ったのですかね?
まあ別の料理好きな人をご紹介しますが、うちはあくまでも家政婦紹介所なので、料理にそれほどこだわるなら、調理人を専門に雇ったらいかがですか?」
そして紹介された二番目の家政婦が今の女性だ。しかし彼女を今もって雇っているのは、最初の女性より料理が上手だったわけではない。しかし下手だというわけでもなかった。所長が言っていた通り、単にオーサーの舌がこえすぎていたせいで、彼女達の料理を美味しく感じなかっただけだった。
「私は、これでも料理上手と今までの雇い主からは評判だったんだけどね。病気療養中の奥様は、よっぽど料理名人だったんだね。旦那さん、本当に幸せ者だね」
妻と同年代と思われる、五十代ちょっと思われる家政婦が言った。
「うちの旦那も生前は、美味しいものを三度三度食べられて、俺は幸せもんだ、っていうのが口癖でしたよ」
彼女の夫は五年前に仕事中の事故で亡くなり、今は娘夫婦と暮らしているらしい。
二人目の家政婦は、毎日色々な料理を作ってくれたが、オーサーはなかなかこれだという料理とは巡り合えなかった。その事に先に音を上げたのはオーサーではなく彼女の方だった。いくら朗らかで明るく普段元気な彼女でも、女性として、主婦として、家政婦としてのプライドを傷付けられたのだ。
「もう、いい加減にして下さいよ。私に旦那さんの好みがわかる訳がないじゃないですか。奥様のお見舞いに行かれた時に、奥様にレシピを書いてもらうか、さもなくは最低限料理名を聞いてきてくださいよ」
彼女の言う事はもっともだ。しかし、妻に聞く事は出来ない。いや、そもそも聞けるのならば、こんな状況には陥ってはいないのだ。
オーサーはう〜んと唸った後でこう呟いた。
「『牧場のサンドイッチ』を食べたい」
すると、家政婦はパッと明るい表情をした。
「確かに『牧場のサンドイッチ』は美味しいですよ。最高です。あれがお好きなら何故もっと早く言って下さらなかったんですか?
それじゃ今から買ってきますよ。あれは作るのに手間暇かかる上に、本物以上に美味しくは作れませんからね」
「えっ?『牧場のサンドイッチ』って売っているのかい?」
オーサーが驚いてこう尋ねると、家政婦はそんな彼に驚き、呆れた顔をした。
「『牧場のサンドイッチ』って言ったら、この王都一人気のレストラン『魔女の牧場』の一番人気メニューじゃないですか。あのサンドイッチは店内だけじゃなくて、持ち帰りできるんですよ」
彼女はいそいそと買い物に出かけて行った。
彼は二十年以上、毎日三食この『牧場のサンドイッチ』を食べてきたのだが、そのサンドイッチがそんなに手間暇かかるものだとは思ってもみなかった。妻はその人気のレストランのサンドイッチを自己流で再現したのだろうか? オーサーは少しだけ妻を見直した。
やがて家政婦が二人分のサンドイッチを買って帰ってきた。
「午前中の最後の二個を買えましたよ。長い列が出来ていて、売れ切れてしまうんじゃないかって、そりゃドキドキもんでしたよ」
彼女は顔を紅潮させ、興奮気味に言った。そして彼女は自分の分は自分で支払うと言ったが、迷惑をかけた詫びにと、オーサーは金を受け取らなかった。
そう、オーサーはこの事で深く彼女に感謝する事になった。彼女が買ってきた『牧場のサンドイッチ』は、まさしく妻の味だったのだ。
本当は短編にしたかったのですが、少し長くなったので、三回の連載にしました。続けて投稿しますので、読んで頂けると嬉しいです。