56. 先行移住者
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その日の夕方には、早速『新都市』へ先行移住する第一陣が集められた。
農民からは独身の男性が10名。『ロスティネ商会』と『トルマーク商会』から、同じく独身の男性が16名。第一陣の移住者は合計で26名になる。
見ての通り、今回の所は男性の単身者がメインだ。これは、そもそも移住を即日で行えるほど家財の少ない人が、男性単身者ぐらいしか居なかったことが大きい。
なので女性単身者や夫婦は、明日以降に順次先行移住させていく形になる。
また、それとは別にルベッタとアドスも、今日から生活拠点を『新都市』のほうへ移してくれることになった。
とはいえ、商人として成功しており、相応に広い邸宅に住んでいる彼らは家財も多いので、今日の時点で移住が完了するわけではない。これから何日か掛けて荷物を新都市側へ移動させることになるだろう。
なお、今回の移動はユリの転移魔法で行う予定だ。
ニルデアと新都市の間は大した距離でもないし、既に『駆逐』も完了しているので、歩いて移動しても魔物と遭遇する危険は無いのだけれど。
とはいえ、単身世帯の荷物とはいえ抱えたまま4kmの道程を歩くのはなかなか大変だろう―――と。そう思ったので、ユリが魔法で送ることにしたのだ。
どうせユリからすれば魔法ひとつで済むことなので、大した手間でもない。
領主館前に集められた先行移住者の方へユリが歩み寄ると。その姿を見つけて、すぐにユリのほうへと駆け寄ってくる女性の姿があった。
女性はユリの目の前で立ち止まり、深々と頭を下げてみせる。ユリはその女性の姿に見覚えがあった。前に会った時より随分若くなっているけれど―――。
「……エリン、よね? 随分と若くなったみたいだから、一瞬判らなかったわ」
「お世話になっております、ユリ陛下。陛下から頂戴しました薬を今も夫と一緒に服用しておりますので、ここまで若さを取り戻すことができました」
ユリの問いかけにそう答えて、女性はなお一層深く頭を下げてみせた。
―――彼女の名は『エリン』。
『トルマーク商会』の会頭を務める、アドスの妻だ。
元々はかなりの老齢に達していた女性なのだが。アドスに渡した『変若水』を夫婦共に服用した事により、現在のエリンはちょうど転生する前の『蓬莱寺百合』ぐらいの若さにまで戻っているようだ。
ユリは既に、エリンとは面識を持っていた。
以前アドスに領主館までエリンを連れてきて貰ったことがあるためだ。その時に力を取り戻した『睡蓮』の手で、エリンの持病を完治させている。
「そうよね。アドスが引っ越してくれるなら、あなたも一緒になるわよね。何だかごめんなさいね、私が急に先行移住なんて面倒なことをお願いしたから」
「いいえ、ユリ様。私も夫も、何かひとつでもユリ様のお役に立てることがありますなら、それは嬉しいことでしかありません。こうして先行移住者の末席に加えて頂くことで、僅かにでも恩返しができましたらと思います」
「恩とかそういうのは、あまり気にしなくても良いのだけれど……。でも、エリンが参加してくれるのなら嬉しいわ。新居を見て何か思いつく改善点などがあれば、遠慮無くアドスを通じて私の方まで伝えてきて頂戴」
「承知致しました」
アドスの話によれば、エリンも若く健康だった頃は腕利きの商人だったらしい。
商人は『遠慮無く』と事前に言っておきさえすれば、本当に遠慮などせず意見をどんどん言ってくれるから、とても有難い存在だ。ルベッタとアドスだけでなく、エリンも貴重な意見を沢山寄せてくれることだろう。
それからユリは男性単身者とルベッタ、アドス夫妻を含めた合計29名の人達を転移魔法で『新都市』へと送る。
使用するのは【集団長距離転移】の魔法だ。
正直ニルデアから新都市までは『長距離』という程の距離でもないのだけれど。【集団短距離転移】の魔法だと4km先の地点まで届かないので仕方が無い。
当然ながら『転移魔法』を初めて体感する人達は、実際に周囲の景色が一変したのを見て、大きく驚愕することになった。
ユリがニムン聖国から来た使者を『転移魔法』で送ったこと自体は、割と市民に知られている話らしいけれど。知っているのと体感するのとでは、また別物ということだろう。
「これが転移魔法かぁ……! あとで皆に自慢してやらんと!」
「す、凄いっぺ! ニルデアがもう遠くに見えるっぺよ!」
特に転移を体感した農民の人達の感動っぷりは、かなりのものだった。
転移魔法ひとつでこれだけ喜んで貰えると、ユリとしてもちょっぴり嬉しい。
ちなみに転移先は、新都市の南門を出てすぐの所だ。
その場所で、ユリは〈インベントリ〉から取り出した1つの腕輪を見せながら、29名の人達に向けて語りかけた。
「これから皆に1人1つずつ腕輪を配るから、受け取って頂戴ね」
「腕輪……ですか?」
ユリの言葉を受けて、ルベッタが不思議そうに首を傾げる。
「ええ。もちろんただの腕輪ではないわ。これは『市民証』としての役割を果たす腕輪で、身に付けていないと結界に阻まれて都市へ入ることができないの。大切なものだから、利き手でない腕に常に身に付けておいて貰えると嬉しいわ」
メテオラと2人で手分けして、29人の人達に腕輪を配っていく。
腕輪は一種の魔導具で、装備者の手首にちょうど合うサイズへ自動的に伸縮するようになっている。この仕組み自体は珍しいものではないので、商人の人達は何も思わなかったようだけれど。一方で農民の人達は、これにも結構驚いていた。
「新しい都市の周囲を、何か透明な壁が包んでいるのが見えるかしら?」
新都市を包む、半透明のドーム状の障壁を指差しながら、ユリが問いかける。
それに29名の人達が、一斉に頷くことで応えた。
「結構。この透明な壁が『結界』といって、いま渡した腕輪を身に付けていないと絶対に通り抜けることができないのよ。腕輪がないと都市に『入る』だけでなく、『出る』こともできなくなるから気をつけて頂戴ね。まあ、そのお陰で腕輪を家に忘れたまま都市の外に出る、みたいなうっかりはやらずに済むでしょうけれど」
逆に言えば『腕輪』さえ身に付けていれば、都市の結界は自由に通過することができる。
新都市は『結界』で護っているから、代わりにニルデアと違って『防壁』が存在しない。そして防壁が無いと言うのは、つまり都市の中へ『どこからでも入れる』ことを意味する。
新都市の東西南北には『門』が設置されているけれど、必ずしもこの門を通る必要さえ無いわけだ。360度、どの方角からでも都市へは歩いて出入りできる。
ユリからその事実を口頭で説明されて、農民の人達は大いに喜んでいた。
彼らは都市の中に居住するが、勤務地は都市外の畑になる。毎日畑まで通うのにわざわざ門を通らなければならないのは、やはり手間でもあったのだろう。
今後は『腕輪』さえ身に付けていれば、好きな場所で結界を通り抜けて、家から畑まで最短距離で向かうことができるわけだ。
なお、馬車や荷馬車を伴った通行は、必ず『門』を通って貰う必要がある。
なので商人の人達にとっては、あまり恩恵が無い話ではあった。
「これは―――急に涼しくなりましたな」
結界を超えて『新都市』へ入ると、まずアドスがそう驚きを口にしてみせた。
もちろん、気温の変化は他の全員にも理解できたのだろう。アドスの声に触発されるように、29名の集団が俄に騒がしくなる。
「結界の内側は、人が過ごしやすい温度になるようにしてあるの。だから今みたいな夏場でも結構涼しいし、逆に冬は結界の外よりもずっと暖かくなるわ。
但し、この効果があるのはあくまでも『結界の内側』だけ。農地については範囲に含めていないから、農民の人達は気をつけて頂戴ね」
「……もしかしてオラたちのために、わざわざそうして下さったのか?」
ユリの言葉を受けて、即座に農民のひとりがそう問いかける。
その言葉を聞いて、ユリは少なからず驚かされ、そして同時に確信を持った。
農民の人達は―――学は無いかも知れないけれど、決して馬鹿ではない。
即座にユリの意図を看破したことが、その証左だろう。
「ええ、そうよ。結界の中は『ずっと季節が同じ』になるようなものだもの。そうなると農民の人達はきっと困ってしまうでしょう?」
「そりゃあそうだ。季節がなきゃ育つもんも育たねーべ」
「んだんだ」
「寒い時も暑い時もあるお陰で、同じ場所でもいろんな作物が作れるだよ」
農民達の言葉を聞いて、ユリは心底満足げに頷く。
やはり彼らは充分に賢い人達だと、そうユリは確信した。
この世界では農民が『下等』な職業と認識されていると。以前にそう、ルベッタとアドスの2人からユリは聞いたことがある。
農民は春に種を蒔き、秋に収穫するだけの。どんな愚か者でも務まる、この世で最も『怠惰』な職業―――とさえ言われることもあるらしいが。
無論、現代日本で暮らしていた経験を持つユリからすれば、そんな戯言は始めから耳を傾ける価値も無いことだった。
たとえ世界が変わろうとも、農民が誰より『働き者』であることだけは、絶対に変わらない事実としか思えなかったからだ。
それに農民というのは畢竟、農業のスペシャリストでもある。
専門家が馬鹿であろう筈も無い。彼らは持っている知識が、他人よりも特定分野のみに偏っているがために、時に他人から頭が良くないように見えるだけなのだ。
「メテオラ、商人の皆様を中央区に案内してあげて頂戴。私が農民の人達を南区に案内するから」
「承知しました」
ルベッタ達もいることだから、本当はユリが商人側の案内役をする予定だったのだけれど。何となく、もっと農民の人達と話しておきたくなって、ユリは農民側の案内役を買って出る。
この辺りで育てることが出来る作物の話などを聞きながら、彼らを新居まで案内した上で、住居設備について丁寧に説明していった。
「お、お貴族さまみてーだべ!」
「オラ達にこんなの、もったいねえなあ……」
新都市の住居は原則として『上下水道が完備』されており、また『給湯設備も備えられている』ので、蛇口を捻るだけでお湯も自由に使うことができる。
自宅内には『水洗トイレ』が設置されているので、今後は汚物の管理をする必要が無い。更には、魔導具で追い炊きが可能な『お風呂』も設置されている。
キッチンには魔導具の『コンロが備え付け』になっており、また住居全体に魔導具の『照明器具が備え付け』られている。夜でも快適に過ごせるだろう。
農民の彼らからすれば、風呂や魔導具のある生活など『貴族がするもの』であるらしい。
ユリが全ての設備を今後自由に使って良いことを告げると。農民の人達にとっては、まず喜びよりも驚きの感情の方が先にたっている様子だった。
「ちなみに水道料金は無料だから、水は遠慮無く使って頂戴ね。魔導具用の魔石も毎月無料支給されるから、お金は掛からないと思ってくれて構わないわ」
「そ、そこまでして貰うのは、何だか申し訳ねえなあ……」
農民の1人が、心底申し訳なさそうにそう言葉を漏らした。
「別にあなた達だけでなく、新都市に住む全員に提供される住居設備なのだから、そんな風に申し訳無く思う必要は無いわ。
それと新居で暮らして貰う上で、何か不満に思うことがあったら遠慮無く言って頂戴ね。先行移住して貰ったあなた達が早めに不満点を挙げてくれるほど、後から来る人達に向けて、私達の方で改善作業を進めることができるのだから」
「わ、判りましただ。こんな良いとこ住まわせて貰って、不満だなんて出そうにも思えねんけども……」
「足を伸ばして寝られて、隙間風が無えだけでも有難えのに……」
「全くだべ。ここなら屋根が崩れることも無さそうだしなあ」
……農民の彼らは一体、今までどんな家に住んでいたのだろうか。
気になるけれど、ちょっと聞くのが怖いような気もした。
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お読み下さりありがとうございました。