173. 教育機関(1)
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―――秋も下旬に入った『秋月28日』の午前中。
ユリは例によってユリタニア宮殿の執務室に籠って、決裁を要する案件の可否を判断したり、各所から寄せられる報告書に目を通していたりした。
報告書によると、ロスティネ商会に預けたロフスドレイクによる『空輸』については、レベル40以上の探索者を雇用した上で、実際に幾つかの都市へ向けて試験輸送を行う所まで進展したらしい。
この分であれば、実用化されるのはもう目と鼻の先のことだろう。
(……あら)
書類に順に目を通して居たユリは、やや意外なものを見つけて僅かに驚く。
それは『未成年教育機関の設立提案書』と題打たれた書類だった。代表提案者の欄には『睡蓮』隊長のセラや『紅薔薇』隊長のプリムラの名が署名されている。
内容は、どの都市からでも『転移門』を利用して移動できるユリシスの都市に、未成年を対象とした教育機関―――つまり『学校』を設立して教育を施し、国内の識字率を高めると共に、最低限度の知識を教え込もうということらしい。
この世界では『義務教育』が無いにも拘わらず、識字率自体はそれなりにある。
これは大聖堂などの神殿施設に従事している人達が、手空きの時間を利用して希望者に対し、無償で読み書きを教えているからだ。
但し、それはあくまでも『それなり』程度でしかない。半分以上の人は立て札や看板に頻出する、簡単な文字ぐらいなら読めるのだけれど。もっと、ちゃんとした書籍―――例えば、八神教が発行している『聖書』を普通に読める人というのは、おそらく10人に1人にも満たないだろう。
『睡蓮』や『紅薔薇』の子達が『未成年教育機関の設立』を提案した背景には、活版印刷が一般的になったことがあるようだ。
過去に『竜胆』の子達が製作した活版印刷機は、あれ以降も百合帝国と同盟国の主だった商会などに逐次配布され、その数は40台以上にも達している。
もともとこの世界では、木材を魔法で加工することで『紙』自体は簡単に作成可能なこともあり、印刷技術さえ伴えば書籍も普通にし得る土壌が醸成されていた。
その為、活版印刷機を手に入れた商会が精力的に活動した結果、今までとは比較にならないほど安価な書籍が、市場で一気に流通するようになった。
庶民の収入でも気軽に買える価格で書籍が売り買いされるようになれば、当然それに興味を持つ人は多くなる。
けれど、文字を全く読めない人は無論のこと、文字を半端にしか読めない人達にとっても、やはり書籍を読むと言うのは難しいことで。
国内外では俄に『読み書きを学ぼう』と、あるいは『読み書きを学び直そう』という人達が急増しているらしい。
これで困ったのが、大聖堂などの神殿施設だ。
希望者に多少の読み書きを教える程度なら、今までは余暇時間に教える程度でも出来ていたわけだけれど。希望者が大幅に増えると共に、『本を読める』レベルでの読み書き修得を誰も彼もが望むとなれば、もはや余暇時間だけで対応しきれるものではない。
―――どうやらそのことが神殿に縁深い『睡蓮』の子達の知る所となり、『百合帝国』の中で最も智者が集まる『紅薔薇』の子達とも相談した上で、『未成年教育機関の設立』という提案書の形でユリの元にまで届いたようだ。
(……あまり、安易に手を出したい領域では無いのよね)
提案書にざっと目を通しながら、ユリは小さく溜息をひとつ吐く。
神殿で読み書きを教える程度しかしていないこの世界では。基本的に『教育』というもの自体が、殆ど行われていないのだ。
そんな場所でいきなり『教育機関を作る』というのが、一体どれほど難しいことなのか。ユリには想像に難くなかった。
まあ―――現実的なラインとしては、欲を出さず、あくまで『文字の読み書き』だけを教える場所を設置するに留める、ということだろうか。
『睡蓮』と『紅薔薇』の子達が書いた提案書には『未成年者の識字率を高めると共に最低限度の知識を教え込む』とあるが、この『識字率を高める』のと『最低限度の知識を教える』ことを一度にやろうとすると、きっと難易度は跳ね上がる。
最初はあくまでも前者だけを目標とすることに留め、後者については長期的な目標ということにして、おいおい考えていくのが良いだろう。
(とはいえ『読み書き』だけ教えるとしても、結構な数の教師役が必要よね……)
この辺のことは、ユリタニアの大聖堂の長を務めるバダンテール高司祭や、八神教の教皇であるアルトリウスに相談するのが良さそうだ。
あるいはルベッタやアドスに相談してみるのも良いかもしれない。商人の中には読み書きを高いレベルで修めている人も、きっと多く居るだろう。
個人的には、この世界に『日本語』を浸透させてしまいたい気もするけれど。
……流石にそれが無謀であることぐらいは判るので、実行したりはしない。
ユリがそんなことを考えていると―――。
不意に、コンコン、と執務室のドアが二度ノックされた。
「どうぞ?」
ドアの外に向けてユリがそう声を掛けると。「失礼します」と告げて、ひとりの少女が室内に入ってきた。
ユリの感覚からすると13歳程度にしか見えない、稚さが残る少女だ。けれどもユリはこの少女が、充分な利発さと聡明さを兼ね備えていることを知っている。
「あら、ロゼロッテじゃない。執務室を訪ねてくるなんて珍しいわね」
その少女の名はロゼロッテ・エルダード。
姉のリゼリアと共に、今や亡国となったエルダード王国の王女であり、現在ではユリの『第四側室』という立場に納まっている少女だ。
「旦那様。執務中に邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
「そんなことは気にしなくて良いわ。あなたは私の側室のひとりなのだから、遠慮などせず、いつでも私の元を訪ねてきてくれて構わないのよ?」
「ありがとうございます。そのお言葉、ちゃんと胸に刻んでおきます」
そう告げて、ロゼロッテは小さく頭を下げる。
何と言うか―――本当に、生真面目な少女だと、ユリは改めて思った。
「それで、今日はどうしたのかしら?」
「はい、旦那様。私に仕事を頂けませんでしょうか?」
「あら―――。まだ午前中だというのに、情熱的なお誘いを貰ってしまったわね」
ロゼロッテの言葉を受けて、ユリはくすりと微笑む。
彼女はユリの『第四側室』なのだ。そんなロゼロッテがユリに『仕事をせがむ』というのは―――即ち『寵愛を求める』意味に他ならない。
「……あっ! ち、違います! そういう意味で申し上げたのではありません!」
「あら、違うの? ちょっと残念ね」
「あ、いえ。もちろん旦那様がお望みでしたら、吝かではないと申しますか、私もとても嬉しいですし、望むところではあるのですが……。
でも……そちらは流石に、もう少し日を置いた方が良いですよね?」
「まあ、そうね。ロゼロッテの言う通りだわ」
ユリは側室の子達を閨に招く頻度を、多くても『1月に1度』までにするように制限している。
これは、あくまでもユリにとっては本妻―――つまり『百合帝国』の子達の方が重要度が高く、また愛情をより多く傾けたい対象であるからだ。
『百合帝国』の子達の中には、まだユリと愛し合ったことが無い子も多い。
これは『寵愛当番』を必ず個人で担当することになっている為だ。この異世界に来てから既に1年と半年以上、つまり『240日』以上が経過しているとはいえ、主のユリを除いても『百合帝国』には総勢359名もの子達が居る。
全員が『寵愛当番』を経験するまでには、まだまだ相応の日数が掛かるわけで。そうなると、まだ抱いていない本妻も居る中で『側室』に過ぎないロゼロッテ達を閨に高い頻度で呼ぶのは、躊躇われることだった。
「それで。『側室』としての仕事で無いのなら、一体何の仕事をロゼロッテは求めているのかしら? 一応あなた達姉妹には、旧エルダード王国領の各都市・村落を治める貴族令嬢達との折衝役を任せていたと思うのだけれど」
「その役目はもう、姉様だけで充分に務まると判断致しました。お陰で私のほうは手が空いてしまいまして……何か私でも務まる仕事は無いものでしょうか?」
「仕事が無いのなら『側室』らしく、役目の時以外は遊んでいても構わないのに。わざわざ仕事を欲しがるなんて、ロゼロッテは真面目ねえ」
ユリがそう告げると、ロゼロッテは少し困ったように眉を落としてみせた。
「旦那様や国の為に大して貢献しているわけでも無いのに、良い暮らしだけはさせて頂くというのが。どうにも気持ち悪いと言うか、性に合わなくて……」
「気持ちは判らないでも無いけれど、本当に真面目なのね。―――まあ、そういうことならロゼロッテに、ひとつ役目を任せたいのだけれど良いかしら?」
「はい。私にできる限りで、精一杯頑張らせて頂きます」
ユリの言葉を受けて、ロゼロッテが深く頭を垂れる。
生真面目な子というのは、もちろんユリとしても嫌いではなかった。
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