第15話 その5
「――ありがとうございました。面白かったです」
席から立ち上がり、向かいで本を読む倉橋先輩にコピー原稿を返す。
「そういってもらえるなんて、嬉しいわ。自分の作品の参考にはなった?」
「えぇ、もちろんです」
僕の「彼は誰を問う頃に」には特別な人物が出てくるわけじゃない。語り部たちは確かに死亡している。僕はその前提で小説を書くれけど、作中ではその可能性を示唆する程度に抑えるのみで、明示する予定はない。
死んだ人間が尊ばれるのではなく、尊ばれるべき人間が死んだだけなんだから。
人間は死を神格化しすぎだ。誰も彼も、僕も。
――と、いけないいけない。
考えすぎるのは悪い癖だな。杞憂を患いすぎて体調を崩した経験は、果たして量の指で数えきれるだろうか。
「しかしもう6時ですか。帰る準備しますね」
急いで原稿用紙をまとめ、茶封筒の中に収める。この紙束の扱いが面倒なもので、一度バラしたものを縦横きちんと揃えようとするとなかなかうまくいかないのだ。
仕方なく数枚ずつに分けて整える。それを何度か繰り返して、ようやく全てが封筒の中に収まった。
「お返しします。ありがとうございました」
「気にしないで。私も読んでもらえて嬉しかったから」
「それじゃあ、お先に失礼します」
それだけ挨拶して、僕は部室棟を離れた。
*
「うーっ、さぶっ」
思わず声が出る。日が沈むとあっという間に辺りが冷え込んでいく。一週間前と比べればだいぶマシだが、長袖程度だと少し寒い。
思ったよりも遅くなってしまった。買い物は明日にしよう。そうなると今日は残りの食材で適当に鍋かな。キムチ鍋の素だけ買って帰ろう。
しかしやることが多い。
小説を書く。女の子っぽい振る舞いをする。倉橋先輩の恋路を少し手伝う。宝石会とやらについて思案する。
全部自分の自己満足のため、そんなところがある。恋路については頼まれたことだが、自分のことを考えると放っておく気にはなれなかった。これも一つの自己満足だ。
まぁ順番に考えるか。
小説を書くのは適当に、毎日コツコツやっていればよろしい。そのうち完成するだろうし、急いで完成するものではない。
振る舞いに関しては……どうなんだろうな。瞳とはまた別の、自分の中の思い出があるからこそ、『私』という一人称を使うことに臆病になる。自分がそう喋ろうとすると、あの二人が頭の中でちらついて離れない。吹っ切れるまではまだまだ時間のかかりそうな問題だ。
次、恋路。倉橋先輩に勧めたのがGW前。それから連絡もなければ、文芸部に話を通しにくる気配もない。覚悟することが難しいのは知ってる。だから僕は先輩が覚悟するまで、しばらくは待ちだ。
宝石会、これがいちばんの厄介ごとだ。秋篠先輩とやらの文言をどうにも信用できない。おまけにエメラルドグリーンの瞳だ。見るだけで芽が出る頭痛のタネを、好き好んで何度も見たくはない。頼むからしばらく保留させてくれ。
最後に、沖田さんともう一度会いたい。
あの調子だと、沖田さんにとっての僕は「知り合ってきた人のうちの一人」程度になっているだろう。そのまま放っておけば、いずれ記憶の片隅からも消え去る。
それは恐ろしいことだ。僕にとっての重大な覚悟が、その人にとって取るに足らないものとして霧散していくわけだから。
しかしこちらも残念ながら、解決する術を持ち合わせていない。
露天のくじ引きなら箱の中に手を突っ込んで、適当なものを拾い上げれば当たるかもしれない。だが今はくじの補充待ちだ。最悪なことに話しかける店主も不在ときた。今の僕に必要なものは店主の連絡先か、店の中に乗り込む度胸、そのどちらかだ。
ポケットの中の携帯電話がかすかに震える。取り出して開くと、それはメールが来たことを知らせるバイブだった。
『明日の昼休み、会ってもらえませんか』
倉橋先輩から、それだけの短い文言が届いていた。
あの人はきっと、今の僕が沖田さんと会いたくないのと同じように、勇気が足りないのだ。本人がどこにコンプレックスを抱いているかまでは見抜けないけど、それくらいの簡単なことなら察することができる。
急に強い風が吹きつけてくる。カバンでスカートを押さえながら目を閉じると、不思議と暖かい空気が肌に触れていった。
山の陰に隠れた夕日が、橙色の光をうっすらと残しているのが見える。
5月の始まり。まだまだ寒いと思ってたんだけど、そうでもないのかな。感覚が麻痺しそうだ。
……頑張りたいな。
人生は長い。立ちはだかる艱難辛苦を乗り越えるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
僕はきっと、もっとこの瞳と向き合って生きていかなきゃならないから。
「とりあえずは人の恋路に介入するところから、はじめていくか」
了承の返事を打ち込み、送信した。
苦労はまだまだこれからだ。もっと、頑張りたい。
今回をもって、更新をしばらくの間休止させていただきます。
年明けまでに新作の執筆を始めていくことができれば、と考えている最中です。
詳細についてはTwitterアカウントで随時発信していく予定ですので、よければ次作も読んでいただければ幸いです。





