第12話 その3
僕が本の方へ目を落としているのを察してか、車掌は本を手で掴もうとしていたのところを、タイトルが隠れないように持ち方を変えて目の前に持ってきた。
「死せる魂、読んだことあるかい?」
「ありません。タイトルも初めて聞きます」
「う〜ん、そっか」
はぁ、と小さなため息がかすかに聞こえた。彼女は少し残念そうな顔を浮かべて、話を続ける。
「こいつは1842年に執筆・出版されたんだが、現代までロシア文学の最高峰、名作中の名作として、いろんな読書家に太鼓判を押されてるんだ。日本でもそれなりに読まれた時代があったんだけどね」
「すみません、海外文学にはあまり明るくないもので」
思えば僕は、国内作品ばかりを選りすぐって読んでいる気がする。海外作品はとっつきにくい印象が強いのだ。特に翻訳の良し悪しによって、作品の良し悪しまで変わってしまうような気がして、なかなか読む気にはなれない。読まず嫌いと言われてしまえばそれまでなのだが。
「著者のゴーゴリは帝政ロシア時代の人物で、死せる魂自体は30歳くらいの時に執筆された作品なんだ。全3部作、私が今取り出したのはその中の第1部に当たる」
「1部でそれってことは、まだ2部、3部が連なっているわけですよね。執筆への熱量がすさまじい方だったんでしょうね」
「……残念だが、ゴーゴリは第2部の原稿を途中で二度も燃やしてる。しかも最後はそのまま書き終わることなく死んだ。3部に至っては構想から一度も前に進まないままだ」
……こういうものをなんと評するべきなのだろう。
「第1部を書き終えてから10年。途中で『外套』って作品を執筆してるんだけど、それでもなお第2部はなかなか筆が進まなかったらしい。最初に原稿を燃やした理由も「執筆が進まないことへの苦悩」があった、なんて言われてる。熱心に取り組み続けたのはいいけど、結局脱稿することは叶わなかったわけだ」
あまりにも壮絶すぎる。ゴーゴリがどんなことを考えて執筆していたのか、その内容を僕は知らないけれど、その中にあったであろう強い熱意は伝わってくる。
でも、そんな強い熱意をもってしても――
「そこまでの熱意があったとしても、小説家には書けないもの・時がある。プロもアマも関係ない。無理な時は無理だし、書ける場合はスイスイ書けたりする。往往にしてそんなものなのさ」
改めて、作家という存在の恐ろしさを理解する。
「僕は、どうするべきなんでしょうか……」
書けない。
そのような事実を突きつけられてなお、僕は答えるための言葉を思いつけないままだった。
心が焦燥を感じている。僕は何を目指していた?――小説家だろう。
理由は大したことない。昔から読んでいて、それで好きだったから。それだけの簡単なことだ。そこにはドラマもなにもない。
それでもあの日、沖田さんと約束してしまった。あの人の生き方が、僕の目には高尚なものに映ってしまったから。あの人を尊敬したいと思ってしまったから。
今思えばそれはまさに――
「短絡的すぎだろう。焦りすぎとは言わないが、もっと落ち着いてみたらどうなんだい?」
――ゾッとする。僕の考えていることすべてが見透かされているような感覚。
それを感じた瞬間、僕は嘔吐しようとした。けれど口からは薄い胃液とよだれだけが垂れて吐き出されるばかりだった。
目が痛い。その場でうずくまるようになりながら、右目を抑える。呼吸が荒くなっていくのがわかる。そのまま視界が暗くなっていく。音も聞こえなくなっていく。
精神的に強いショックを受けた時の、いつも通りの症状。





