第11話 その3
――あまりにも僕の見通しが悪かった、というか間違っていた。
部室の中は窓から差し込んで来る春の陽気が詰め込まれていて、少しでも油断しそうになると、それらが脳へ大量の快楽物質を送り込んで来る。具体的にどうなるかと言うと、眠くなる。
この暖かさはまさしく魔性の存在だ。悪魔のごとき誘惑に屈したくはないが、それでも眠気がだんだんと身体中を支配して来るようだ。ミント味の飴を持っていなければ即死だった……。
自販機から缶コーヒーを買ってきてもいいかもしれない。しかし飴ごときでは足りないとばかりに、僕の足が外へ出向くことを露骨に拒否してくる。脳内は結構頑張ってるんだから、末端組織は少しくらい言うことを聞いてほしい。
もしここに毛布があったら、そんな甘言――もとい狂気的な想像をしてしまう。きっと今頃安らかな顔で眠りこけていたことだろう。なんと恐ろしいことか。そんな快楽の塊のような攻撃を受けてしまってはひとたまりもない。所詮僕が強い意志を持ったところで、すぐに暖かさの波に溺れていたことだろう。
しかしそれを鑑みた上でだが、素晴らしい空間だと思う。
部室には僕しかおらず、部屋の中は閑散としている。本のページをめくる音、パイプ椅子が体重によって軋む音、そのくらいしか聞こえない。
もし自由に鍵を開けられたなら、お昼休みをここでのんびり過ごすのもなかなか乙なものだろう。あとは急須とお茶があれば完璧だっただろうな。
朝とは違う本を読んでいる。教室や図書館とは少し違う、自分だけの空間。ここには真に僕しか存在していなくて、4分33秒の音楽が無限にループしているような――
「やっほー!!」
――気がしていたんだけどなぁ。
「まだ栞ちゃんだけ?」
「えっと、そうですけど……。僕って先輩にきちんと自己紹介しましたっけ?」
そういえば、だ。いきなり部室に入ってきた勢いのせいで呆気にとられていて、名前を満足に名乗った記憶がない。
「名簿から確認したの。顔は覚えてたし、生徒会室に置かれてたからそれで」
個人情報保護法って、学校とかにも適用されるんじゃなかったか?
しかし日向先輩の屈託のない笑顔を見ればわかる、この人には一切の悪意や悪気というものが感じられない。いやまぁだからこそ、ある意味ではタチが悪いと言えなくもないのだが。
「まぁゆっくり待とうかな。今は何読んでるの?」
「太宰治の『人間失格』です。今までタイトルは聞いたことありましたけど、よく考えたら読んだことなかったな、って思って」
「人間失格かぁ。私はあんまり好きじゃなかったなぁ。同年代の文学作品と比べたら真新しい感じはあるんだけど、やっぱり主人公がどんどん落ちぶれて――いけない、これ以上はネタバレになっちゃうかな」
……この人もしかして、文学については意外と知識が豊富なのか?
「私からもいくつか質問でいいですか?」
「いいよー、なんでも聞いて!」
なんでも、となると本当になんでも聞いてしまいますよ?
「じゃあまず、日向先輩の一番好きな小説ってなんですか?」
「一番好き、かぁ。結構悩む……。小泉八雲の『怪談』とか、夏目漱石の『吾輩は猫である』みたいなのは結構好きだなぁ。『斜陽』とか『花のワルツ』も何度も読んでるし。あ、それと現代語訳版だけど古事記と日本書紀もかなり読んだなぁ。それからそれから――」
「先輩、ストップ」
「あ、ごめん。話し出すとつい止まらなくなっちゃってさ」
まさかこんなに教養高いというか、ここまで近代文学を読み込んでいるとは。しかもレパートリーがバラバラってことは、とにかく自分の好き嫌いで自由に読み漁ってることの証明に他ならない。普段の振る舞いからは想像できないな……。





