第10話 その4
吐き気はまだ治らない。気持ち悪さだけがぐるぐると身体中を駆け巡る。
足取りが重いのは悩みだけじゃない。そんなわかりきったことを考えながら、ふらふらと階段を一段ずつ登っていく。
教室前まで到着する。どれだけ時間をかければ気がすむのかと、自分に辟易してしまう。
薬の効き目はイマイチだ。耐性がついてしまう前に治さなければ……。そんな焦燥感が頭から離れてくれない。きっと何もなかったなら、僕は一生この障害を背負っていたんだろうな。
暗い未来が見えた。
呼び出してきた相手側に見えないように、扉の影から教室の中を覗き込む。
中には机と椅子が二つずつ。そしてその片方には、女子と思しい後ろ姿が座っていた。よく見えないが、スマートフォンでゲームでもしているのだろうか。
顔は確認できないが、どこかで見覚えがある後ろ姿だ。しかしそれがいつ、どこだったかがはっきりと思い出せない。確かに僕はこの姿を見たことがある、その確信だけが残っている。
……すでにかなりの時間待たせている。考える時間はこのくらいにしておかなければ。
ゆっくりと、そして恐る恐るノックする。
「失礼します」
その声に彼女は振り向かず、スマートフォンに目を向けたままだった。それは僕が教室に入ってきても変わらなかった。
「ごめんなさい、いいところだから少し待って」
「……はい」
向かい側に設けられている椅子に腰掛ける。目の前の顔は真剣な表情でスマートフォンを見つめている。その時ようやく思い出した。あの後ろ姿、あの声、そしてその顔。
「あなたって、もしかして昨日ぶつかった人ですか?」
「そうだよ」
二年生であることを示す、赤色が混じったストライプ柄のネクタイが夕日に輝いた。
そこでいいところが終わったらしく、スマートフォンを机の上に伏せた。
「すみません、体調不良でお待たせしてしまいました」
「いいよ、私もゲームできる時間ができて丁度良かったから」
その言葉が社交辞令なのはすぐに理解した。
「佐々木栞さん、であってるよね?」
「どうして僕の名前を?」
「眼帯の女の子の名前を知らない?って後輩に聞いたら一発だったよ」
普段の僕なら予想できていただろう。けれど今日の僕にはそれを想像することができなかった。
そりゃそうだ。僕を呼び出すだけなら、僕の名前を調べ上げるだけなら簡単なことだったじゃないか。ぐちゃぐちゃと理由を考える前に、方法を思いつけなかった自分が恥ずかしい。
やはり僕程度では、沖田さんのような推測などできっこない。
「初めまして、私の名前は倉橋凛咲。よろしくね」
「改めて、佐々木栞です」
求められるままに握手を返す。日向先輩ほどではないけど、フレンドリーそうな印象を受ける。
「わざわざごめんね、こんなところに呼び出して」
「綴木先輩のことでお話だそうで。どのような要件でしょうか?」
「タメ口でいいよ。同級生じゃないだけで、同い年なんでしょ」
すでに後輩からあらかたの話は聞いているらしい。
しかし推測だが、僕の噂は一年生の中だけで止まっているのかもしれない。
倉橋先輩がわざわざ一年生に話を伺ったり、文芸部の先輩方が優しく接してくれたあたりにその兆候を感じる。
悪い噂ばかりだから、それがどこかでシャットアウトされているのはありがたい。
誰かが意図的に話を漏らさなくなるだけでも、その拡散力は大きく削がれる。誰かに聞かれるまでなんて受動的な行動は、歴史で消極的に見られ続けているのがその証拠だ。
……本当にくだらない。
「どこで誰が聞いているかわかりませんからね、一応敬語で話させていただきます」
「そっか」
誰かにこの会話を聞かれて、知らないところで話が複雑になると面倒だ。少しだけ気を抜けない。
「じゃあそのままでいいよ。本題に入ろうか」
いよいよだ。これでようやく僕が呼ばれた理由がわかる。





