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通りの向こうのテンちゃんに

作者: 166

頭をゆうに越す土の塀、緑の散る前庭、紅白の鯉……。俺が育ったこの屋敷は、理想の美を詰めこまれて出来たものだった。その美しさは誰にでも分かるようで、屋敷の門が開くと必ず知らない大人が庭を覗き込んでいた。どいつも呆けたような顔をしていて、それが当時子供の俺には面白かった。庭を覗きこむ大人の中には、金を払うから全て見せてくれと頭を下げる奴もいた。親父はなかなか首を縦に振らなかったが、5年前、とうとう親父は庭を解放した。すぐに庭は人で埋め尽くされた。俺が安全に通れるだけの隙間すらなくなって、俺は屋敷の中に逃げるしかなかった。土間の壁に寄りかかり、引き戸の向こうの話し声が消えるのをずっと待った。そのほとんどが一方通行の誉め言葉だった。俺のひとりぼっちと親父の孤独は正反対だった。

俺だけは知っていた。この庭がどんなときも整然としていたのは、年を食った親父の唯一の趣味だったからにほかならないことを。事故で足を悪くしたせいで、妻に負担をかけている自分のみっともなさを忘れたいだけだということを。要は、この美しい庭は間が持てない老夫の気晴らしの産物にすぎないのだ。だというのに町の奴らは、気骨のある人がつくるものはやはり違うなぁ、だの、

あの庭は親父さんの根っこのひたむきなとこがでてるのさ。じゃなきゃああはならないね、だのくだらない賛辞ばかり口にした。だから親父は孤独だった。どれだけ誉めそやされても、名声が親父を変えることはなかった。お袋が死んでも、屋敷を訪れる人間がめっきり減っても、手入れを疎かにすることはなかった。淋しい老人はいつも庭に立っていた。親父も、俺も背中に落ちた陰の重みにあえいでいた。

ひとりぼっちの俺は、人が欲しかった。人が欲しいから金が要った。金が要るから、親父の寂寥につけこんだ。

「ひどい賃金でさ、自由に使えるのなんてこれっぽっちしかないんだよ。頼むよ父さん、家族だろ……。」

狭い部屋の中に流れる空気は張り詰めていて重たかった。父さんは黙ったまま俺に2枚の万札を渡した。ありがとう、ごめんよ。うわのそらで呟きながら、俺はそれらを懐の財布にしまった。そして次に来るだろう言葉を待った。

「……通りの向こうのテンちゃん、賢いんだってな。昨日も満点とって先生に褒められたんだと。」

そら来た。内心毒づきながら引き締めたままの顔で親父を見る。くすんだ肌に彫られたたくさんのしわは口が動くたびに歪み、増えて彼の老いを感じさせた。

金を無心しはじめた頃は、親父はこんな話をしなかった。ただその黒い目で俺を射るように見つめるだけだった。しかし、あるときから親父はテンちゃんの話をするようになった。よその子供の昔話をひっきりなしに語る姿は、とても気味悪く見えた。

「父さん、いつの話してるんだよ。テンちゃんは2年も前に死んだんだよ。そんなこと言うべきじゃない。」

テンちゃんは思慮の深い子供であった。腹を空かせた幼子がいれば、自分のぶんの柿をそっくりくれてやるし、勤めに出た親を待つ子供がいれば、日がな一日介添えをした。皆、テンちゃんが好きだった。

しかし、通りの向こうに住んでいた貧しい小さな男の子は、頭がよくて誰からも好かれたテンちゃんは突然この世を去った。自殺だった。

「お前もテンちゃんみたいだったらなぁ…。」

思わず顔をしかめる。毎度毎度、俺の胸ぐらいの背丈の子供と比べられることに、いい加減うんざりしていた。何よりそいつは死人だ。

「父さん、テンちゃんは確かに頭がよかったよ。でも、テンちゃんは頭がよかったから死んだんだ。お父さんとお母さんに少しでも多くご飯を食べてほしくて、自分を殺したんだ。」

非の打ち所のない人間なんざいやしない。善人ってのは大概、頭がどうかしている。たまたまその短所が人の役に立ったから、完成された人間のように見えるだけなのだ。テンちゃんもその1人であった。幼い彼は、先の栄光よりも目の前の利をとった。大成する未来を捨てて、痩せ細った両親を少しでも楽にするほうを選んだのだ。彼の親友は大声をあげて泣いていた。テンちゃんから届いた最後の手紙を、母親に抱き締められるまでずっと両手で握りしめていた。

「あの子は本当によくできた子だったな。いつも誰かを助けてた。俺の庭にも来たんだよ、あの子は……。」

だからどうだというのか。親父の黒い目はしわくちゃの手を虚ろに見つめていた。障子の向こうから射し込んだ橙色の光が夕暮れを告げ、次第に親父の顔にかかる影を濃くした。そろそろ潮時だろう。

「もう俺、部屋に戻るよ。お金、ありがとう。」

膝をついてよろよろ立ち上がる。そう長い話ではなかったのに、俺の足は少し痺れていた。障子に背を向けて、貰った金の使い道を考えながら歩き出す。酒を買ったら、亮平と健三が寄ってくるだろうな。飲ませろ飲ませろ、と笑う2人の声が遠くで響く。頭の中に、酒を抱えて騒ぐ俺たちとそんな俺たちに目もくれず煙草を吸う酒屋の爺さんの姿が浮かんだ。ああ、煙草なんて阿呆らしい。いつかの思い出に包まれながら襖に手をかけようとしたときだった。

「お前が、テンちゃんみたいだったらなぁ。」

熱のない声だった。ゆっくり振り返ると、親父は橙に染まる障子のほうに顔を向け、眩しそうに目を細めていた。この障子の向こうには庭がある。庭の先、土塀のずっと向こうにはテンちゃんの家が建っていた。両親のために死んだ、テンちゃんの家が……。親父が俺のほうを見た。

こちらを向く黒い目の中には、ほのかな光も宿っていなかった。

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