8.3年という月日は
「アリア、あんた今日は休みなさい。ご飯は後で持ってきてあげるから、そんな顔して外出ちゃダメよ? いいわね?」
「……はい」
腫れぼったい目をした私を店の奥にある、サリーさんの居住スペースに残し、釘を深々と刺してからサリーさんはお店へと向かった。
おそらく今日も姫様の件の騎士との関係を報じた新聞が巷に溢れるのだろう。
ウソかマコトかそれすらわからずに蔓延るそれらは真実として国民の中に着実に浸透していく。
今日の私はサリーさんに守られてその記事を目にしないで済む。おそらく明日からも彼女は、彼女達は私を守ってくれるだろう。
けれどエリアスはどうなのだろう。
今でこそ勇者様と、英雄と持て囃される彼だが、数年前は田舎の村の青年でしかなかったのだ。
朗らかな笑みの似合う、国を背負うことなんて出来なさそうな、それでも私の自慢の、大好きな幼馴染なのだ。
勇者になって身体だけではなく、精神的にも強くなったのは簡単に予想がつく。村にいた頃の彼は人間を殺そうとする魔王にすら剣を突き刺すことなど出来なかっただろうから。
だがやはりエリアスの根底は未だに変わっていないのではないかと、今頃傷ついてはいないかと心配でたまらないのだ。
3年ほど前のエリアスが私を切り捨てたのならば、私は今からでも彼の手を引いて村に連れて帰ることも出来る。だが彼に忘れられた私にはそれすらももう出来はしない。
「エリアス……」
「アリア!」
誰に対して発したわけでもないその言葉を捉えたのは他の誰でもないエリアス本人だった。
「……嘘、でしょ」
腫れた目に攻めて来るのは枯れたと思っていた涙で、揺らぐ視界の中には確かに私の大事なエリアスがいた。
嘘だと思うのに、私がエリアスを見間違えるわけがないと確信を持っている。
新聞の中みたいにキッチリとかしこまった服を着ているのではなく、カッターシャツにジーンズとラフな格好に身を包むエリアスはまさしく私に馴染みの深い、村にいた頃のエリアスその人だった。
「アリア、ただいま! 遅くなってごめん」
「なん、で……」
「魔王の呪いが解けたんだ!」
「呪、い?」
『魔王の呪い』――それは私が八つ当たりのように魔王に押し付けたもので、まさか本当にかけられていたとは思いもしなかった。
けれど本当にそれが呪いならどこからどこまでがそうなのだろう。
私を、過去の記憶の一部を忘れてしまったこと?
幼馴染を捨てて姫様と結ばれたこと?
姫様に捨てられたこと?
それともその全て?
突然のことに頭がついていけていない私は開きにくくなった目をこれでもかと見開いて見えるはずもない真実を捉えようとした。
「そう、ずっと姫様とシリウスが頑張ってくれていたんだ。……あんなデマを流してまで俺の幸せを願ってくれた」
「シリウス、って……」
いやまさかと、同じような名前の人はごまんといるはずだと震えだす手を押さえ込んだ。
だがシリウスさんが、お城で働いているなら姫様と会うことだって出来なくはないだろうと思ってしまう自分がいるのもまた事実で、否定してくれと、そう願った。
けれど現実はやはり私に厳しいようで、3年前のあの日と同じくらいに辛く突き刺さる。
「アリアには言ったことなかったか。シリウスは一緒に魔王討伐に向かった仲間なんだ。母親が東洋の出身らしくてこの国には珍しい黒い髪と瞳でさ、それに加えてあいつ、目つきが悪いから怖がられることが多いけどいい奴なんだ。今度アリアにも紹介するよ」
それだけでああ彼だと認めざるを得ないのだ。
背の高い彼は私に合わせてかがんでくれて、黒曜石のように艶めくその視線に私を何度も魅了された。そして節ばった手は触れるたびに心を鷲掴みにされたのだ。
わからないはずが、気づかないはずがない。
「待たせてごめん。結婚しよう、アリア」
差し出された手を喜んで掴むにはもう時間が経ち過ぎた。
あの日から進み続けた3年は世間知らずの私に多くのことを教えてくれた。
一人暮らしは思ったよりも大変で、一人で食べるご飯はあまり美味しくなかった。
その分、賄いで出されるご飯が美味しくて買い物に行くのが億劫になった時期もあった。
王都を歩くカップルよりも幸せそうな家族に目を引かれて、私がエリアスとなりたかったのは家族だったんだって思い知った。
そして私は『恋』を知った。
「エリアスは、本当にそれでいいの?」
私に恋を教えてくれたのはエリアスだった。
私に向ける快活な笑みと姫様に向ける優しげな笑み。
あれが恋なのかと、彼は姫様を愛しているのだと新聞を通して理解したのは何も私だけではないはずだ。
「約束しただろう? 全て終わったら結婚しようって。遅く、なったけどアリアは待っていてくれているってシリウスから聞いたんだ」
私の手を包み込み、そして繋がった4つの手に額を当てるエリアスは私と結婚することに迷いなどないのだろう。
それが私と交わした『約束』だから。
優しくて真面目なエリアスは3年近くも大事に育ててきた恋心を踏みつけてまで、20年間共に過ごしてきた幼馴染の手を取るのだ。
そんなのって、悲しすぎる。
これが魔王がかけた呪いというのならば私はそれに抗おう。
勇者でも、その仲間でも、お姫様でもない、ただの村娘だった私が。
勇者の剣は抜けないし、魔法だって使えない、体力だって男の人には勝てないし、見た目だって綺麗とか可愛いわけじゃないけれど、私はエリアスの、魔王さえも倒してしまう勇者エリアス=バクスタの幼馴染なのだ。
「ねぇ、エリアス。あなたの一番の幸せって何? 村に帰って私と結婚すること? それともお姫様の隣で笑っていること?」
「……約束、したから」
「約束とかそんなものはね、もうどうでもいいの! そんなのは3年も前に諦めたわよ!」
優しすぎるエリアスについつい声を荒げてしまう。
でもこうでもしないとエリアスは間違いなく、この3年間をなかったことにして私と一緒に村に帰ってしまう。
それをエリアス自身が望んでくれたのならまだしも、『約束』なんて錆びた鎖に縛られて。
「……ごめん」
「今大事なのはエリアスがちゃんと幸せな選択をすることなの! ……結婚なんてしなくても私にとってエリアスが大切な人なのは変わらないんだから」
「アリア……」
私はエリアスが好きだ。愛している。恋人としてではなく幼馴染として。
大好きな人には幸せになってほしいと思うのが通りでしょ?
だから。
「エリアス、幸せになってよ」
だから私は魔王の呪いに抗って、そして愛おしい幼馴染で元勇者の彼に縋り付く。
泣いて、笑って、錆びた鎖なんかさっさと解いてしまおう。
どうせもう意味などないのだから。
「アリア……ごめん、ごめん」
「ごめん、じゃないでしょ? ほらエリアス、笑って。勇者様を泣かせたなんて言ったら私、衛兵さんに捕まっちゃう」
涙を頬につたらせるエリアスの手を引き上げて、今度は私が繋がった手に額を当ててみせる。
それに込めるのは自分勝手な願い事。
『目の前の彼が幸せになってくれますように』
大好きな勇者様が幸せになれないはずはないけれど、それでも神に願いを伝えたらもっともっと彼が笑えるような気がするから。
「ありがとう、アリア」
やっぱり私に向けるのは快活な笑みで、それが私にとってのエリアスの笑顔なのだ。
「どういたしまして」
笑いかえす私もまた同じように笑って見せた。
ほら、魔王の呪いなんて簡単に解けてしまう。
だって私は勇者の幼馴染、アリア=リベルタなのだから。