12.忘れ行く記憶
「シリウス、エリアス様の様子はどう?」
姫さんが俺の部屋を訪れた時には全てが終わっていた。あまりにもアッサリと。残ったのは鈍い頭の痛みだけ。
「よく眠ってるらしい。目を覚ました頃には全て思い出しているだろうよ。それで……姫さんの方はどうだった?」
「お父様が例の新聞の回収を始めたわ。今頃、他の記事も完成している頃でしょうけど」
「後戻りは出来ねぇな」
「今さらでしょう? そんなのするつもりもないわ」
苦い汁でも飲み干したような笑いをどちらともなく浮かべると、姫さんは自室へ、そして俺はエリアスの様子を確認するため、彼の部屋へと向かった。
アウレンから連絡を受けた通り、エリアスはよく眠っていた。その気持ちよさそうな寝顔から察するにエリアスは何らかの異常に悩まされていないようだ。
俺も眠りにつけば少しは楽になれるのかもしれないが、眠ってしまえばアリアという少女を覚えていられる時間は確実に減ってしまうのだった。
アリア=リベルタ――それは30年以上も女に惚れたことのなかった俺が惚れた女の名前であり、誰からも愛される、これから幸せを掴む女なのだ。
そしてそれは待つこと7日、いつものようにエリアスの様子を見るため、彼の部屋のドアノブへと手を伸ばした途端、部屋からは何度も愛おしい女の名前を呼ぶエリアスの声が漏れて聞こえた。
「アリア、アリア、アリア……」
ちょうど今、起きたばかりなのだろう――と俺の心は意外にも落ち着いていた。
アリアその名前の少女に会わせるためにずっと俺達は行動し続けていたのだ。なぜそこまでしたのかは自分でも理解できないが、それでもこれは自分達の成果などだということだけは確かだった。
「ああああああああ」
断末魔のような叫びが耳をつんざくと同時に、容赦なくドアに全体重をかけて部屋の中へと侵入する。
「エリアス!」
ベッドの中で嘆き喚くエリアスは己の身に爪を立てて、まるで全身に虫でも這っているかのように掻きむしっていた。
「シリウス……俺は、俺はアリアをずっと忘れていて……」
「ああ知っている。俺も、姫様も、アリアも」
「え?」
「なぁ覚えているか? 魔王の最期の言葉」
それは数日前の自分が作ってくれた、エリアスに状況を説明するためのセリフだった。
自分でも記憶にあるものとそうでないものが入り混じって、気持ち悪いくらいなのだが、それでもしっかりとエリアスに伝えろと手紙の中の自分は何度も訴えていた。
魔王――それは魔族を統べる王に相応しいほどに他の魔族よりも強い力を持った存在だった。
透けてしまいそうなほどの銀色の髪は大量の魔を有する象徴のように長く、美しかった。そして体内の血液を全て集結させたような紅の瞳は、彼が傷つけた人間の多さを物語っていた。
彼は去り際にとある言葉を残した。
『私を殺したことを後悔する日がいずれ来ることだろう。それまで生ぬるい日々に浸かっているといい』――と。
それがどういう意味なのかも分からずに、俺は毎日毎日増えていく過去の自分が書き記したメモの通りに話を続けていく。
「まさか……」
「忘却魔法だよ、それも最上級の。……最期の力をそんなことに使うなんて、魔族っていうのは本当に何を考えてるんだかわかりゃしねぇ」
「忘却、魔法……」
「『魔王の呪い』ってとこだな。姫様に色々と協力してもらっても3年近くもかかっちまった。だがお前はもう自由だ」
「エリアス様」
「姫様……」
「父上には昨日、本当のことを話しました。スキャンダルを流していただくよう、街の新聞社にも協力を仰いでいます。ですからエリアス様は、アリアさんの元へ行ってあげてください。彼女はずっとこの王都に残っているのです」
「アリアならあの食堂にいる。行き方は、覚えてんだろ?」
「ああ」
『あの食堂』が何を指すのかすらも今の俺には分からない。きっとこのモヤモヤした記憶の中にあるものなのだろう。何かしらが原因で手放したもの。
けれどそれとエリアスは関係はないのだと自分に言い聞かせるように彼の背中を思い切り叩いた。
お前だけは前に進め――と。
本当はメモには1つ殴ってやれと書かれていたのだが、なぜか本能的に固めた拳は開いた手に変わっていたのだ。
「行っちまったな」
「そうね」
「殴る暇さえなかった」
「殴るつもりなんて最初からなかったでしょう」
「そうでもない。だけどあんなになった友人を殴れるほど俺は人を捨てたつもりはないだけだ」
だが、それでいい。
俺はエリアスに一体何があったのかすら、もうろくに思い出せないのだから。