8.アカラ村
乗合馬車を乗り継ぎ、数キロほど歩き、また他の馬車に乗り継ぎ、を繰り返しようやく着いたアカラ村は俺の想像していた通りの場所だった。
一面緑溢れるこの場所は、初めて会った時のエリアスの印象から浮かび上がったのと全く同じで、柔らかく、穏やかな時間が流れているような気がした。
「お兄さん、この辺じゃ見ない顔だね。道にでも迷ったか?」
そう声をかけてきたのは、いつの間にか俺の背後を取った優しそうな男だった。
反応が遅れたことに驚きながらも、人を探す手間が省けたと早速考えていた台詞を口にする。
「あ、いえ。この村は勇者エリアス様の故郷と聞きまして、一度訪れてみたのですが」
「ああ、エリアス、エリアス……」
「えっと、どうかしたんですか?」
エリアスと聞いた途端に腰に下げた大きな剣の柄をカチカチと鳴らし始めた男の顔は笑顔だ。声は魔王なんて目ではないほどに地を這うようなものなのに、だ。
俺の頭に過ったのは、王都へと帰る途中に仲間と交わした会話だった。
「魔王が怖くなかったか?」と戦いの最中、足が震えることすらなかったエリアスにシャオが問うたのだ。すると彼は答えた。
「アリアの兄さんに怒られた時に比べれば全然」――と。
その時は流石にそんなことはないだろうと、きっとエリアスは緊迫した空気の中で怯えすら消し去ってしまっただけなのだろうとそう思っていた。
だが俺は実際、魔王がいなくなったこの平和な世の中で、よりにもよってつい先ほどまで穏やかだと印象を持っていたこの場所で、あの時以上のピリついた緊迫感を体験している。
急いでいたため城に置いてしまった魔王討伐を共にした相棒を腰から下げていたならば、確実に抜いて構えていたことだろう。いや、抜けないかもしれない。
それほどまでに自分と目の前の男には格段に実力の差があることを、この身はすでに悟っているのだ。
「リンデル、どうした? ……ってその人は誰だ? 知り合いか?」
「いや、今さっき会ったとこ。エリアスの故郷を見にきた人みたい」
「ああ、兄ちゃん悪いが、あんの馬鹿息子なら居ない。城にいるらしいが、いつまでいるかは分からんぞ。気づいた時には三枚におろされてるかもしれないからな」
「は?」
三枚におろすって、そんな魚でもあるまいし……と突っ込む勇気はなかった。目の前の男と同等の力を持った者なら実行するのは不可能ではないだろう。
『王都一の魔導騎士』の名前を与えられた俺でさえ、対峙したその瞬間に負けを認めるような相手なら城の衛兵など居ないも同じだ。
「何言ってんだよ、おじさん。アリアを捨てた罪が三枚おろしで償えるわけがないだろう?」
「アリアって……」
「アリアはアリアだよ。俺の可愛い妹で、愚かなエリアスに捨てられたかわいそうな女の子」
「あんな優しくて可愛くて気立てのいいアリアちゃんを捨ててお姫様を選ぶなんて、すっかり王都に毒されやがって……本当に、息子を王都になんて行かせるもんじゃあねぇな……。ってことで悪いな、兄ちゃん。俺達は今から刃物を研ぎ直さなきゃならないんだ」
「あ、はい」
話の途中も何度も柄をカチカチと鳴らせる男がアリア=リベルタの兄で、刃物を研ぎ直すと物騒な言葉を吐いたのはエリアスの父親なのだろう。
どちらも王都にいる2人の印象とはかけ離れているが、それはおそらくエリアスの変化に対して轟々と怒りを燃やし続けているからなのだろう。
さすがにこれが通常運転だとしたら、怖すぎる。毎日が恐怖との戦いだ。
なぜアリア=リベルタの兄が魔王討伐に召集されなかった疑問には思うが、それよりも恐怖の方がウンと優った俺は、早々にその場を立ち去り、代わりに村中の人達にアリアのことを訪ねて回った。
『勇者エリアスにはアリアという名前の婚約者がいたと聞いたのですが』――と噂好きの観光客を装えば、嫌な表情を浮かべながらも、皆一様にアリア=リベルタという少女の話を語ってくれた。
優しくて気立てのいいよく笑う少女――と言うのが、村人から教えてもらったアリアの性格だった。
エリアスから聞いていた通り、誰もがそう口を揃えていうのだ。……彼女を捨てて姫様の隣に立つことになったのだと報道されたエリアスの名前を口に出すことを避けながら。
先ほどの2人といい、この村の人間からしてみれば勇者と姫君の婚約はアリアへの裏切り行為に等しいのだろう。エリアスは村に帰るつもりはないようだが、その選択は正しかったようだ。新聞で一方的に告げられただけでもこの様子で、エリアスがその事実を自らの口で語ったならその顔を二度と拝むことは出来なくなってしまうだろう。