1.愛したのは
「セシリア、わかっておるな?」
「もちろんです、お父様」
数百年に一度だけ魔王は誕生する。
普段は群れるのを嫌う魔族だが魔王と呼ばれる存在の命令だけは聞くのだと云う。
彼らにとって強さこそが全てであるのだと幼い頃に王室教師から習った。だからこそ魔族にとって魔王の命令は絶対なのだと。
だが本当にそうなのだろうか?
幼い頃の私はそんな彼らでも話せば分かり合えるのではないかと淡い期待を抱いていた。
だが私が13歳の頃、突如として現れた魔王によって私の期待は床へと落下したガラスの水差しのように簡単に割れて飛び散った。
魔族にとって人間はいわば下級な存在であり、今まではただ単純に滅ぼす必要性がなかったがために放置されていたに過ぎないのだ。
魔王は人間にとってはありがたいその無関心を、たった一言の命令で消し去ってしまう。
魔王はその力を魔族達や人間に示すため、南北の大陸を分断した。
幸い死人は出なかったものの、生死の際をさまよったものは大勢いた。
誰もが魔王の恐ろしさに震える中、お父様は王家代々伝わる古い文献に記された通り、『勇者』と呼ばれる1人の人間を選出した。
選ばれたのは魔王の眼中にも入らないほどに小さな村の出身の男の人だった。御伽噺で語られるような、強そうな雰囲気は感じられなかった。どちらかといえば争い事には向かないような、植物を愛でていることの方がよく似合いそうではあった。
お父様によって選抜された勇者のお付きよりもひ弱そうな彼こそが魔王討伐一行のリーダーとして王都を出発したのである。
そして私の未来の婚約者様でもある。
魔王を討伐した勇者を王族に迎え入れるよう、文献に記載されており、私よりも何代も前の姫もまたその任を背負い、そして神の加護を受けた勇者の子を産んだ。
その血がほんの少しだけ流れている私が今度は勇者の子を残すべきなのだ。
はっきり言って私がエリアス様と婚約を結んだのは王族としての義務感からだった。
王族には現在、姫は私しかいない。私の他の兄弟達は皆、男であり、王子なのだ。
魔王が誕生した時点で国王になることが出来なくなってしまった彼らは王子としての覇気を失ってしまった。元よりあまり乗り気ではなかったようではあったがそれが加速したと言ってもいい。
そんな彼らの姉で、唯一の姫である私はその日から王妃になることが約束された。
……ただ、それだけのはずだった。
私はいつからか義務として隣にいたはずのエリアス様を好きになっていた。
隣に居てくれるだけで心が温かくなり、部屋へと戻ろうとする彼の服を無意識に引いてしまう時もあった。
そんな時、嫌な顔一つせずに頭を撫でてもらえることに甘えて、初めて芽生えたその恋心に溺れていたのだろう。
そんな私を引き揚げたのは勇者エリアス様の仲間であり、現在私の近衛兵としてよく働いてくれているシリウスだった。
彼は王都にある小さな店へと出入りするようになってからというもの、不審な行動が目につくようになっていた。
目の聡い宰相ですら気づかなかったことを他でもない私が気づいてしまったのは今から思えば何者かに引き寄せられていたのではないかと勘ぐってしまうほどで、その出来事は私の未来を大きく変えた。
私は仕事終わりのシリウスを部屋へと呼び出して何をしているのかと問いただした。宰相にでも話したらきっとひっくり返って驚くか、一日中お説教コースまっしぐらだろう。
だが私にとってシリウスがどんなに怪しい行動を取っていたとしても、愛する人の親友なのだ。そんな彼が国家反逆を目論んでいるなどとは思いたくはなかった。
事実として1時間以上粘ってやっとシリウスから吐かせた言葉は国家反逆なんて大層なものではなかった。
「俺はエリアスの記憶を取り戻して、そしてあいつとアリアが描いた未来に送り出すことにした」
「記憶を取り戻す?」
「姫さん、あなたには悪いがエリアスには結婚の約束をした幼馴染がいる」
「え……」
私相手でも変に構えることのないシリウスが語ったのは国家反逆ではなかったけれど、私にとっては世界が覆る言葉ではあった。
愛なんて、恋なんて知らなかった。
知らなくてもいいと、ずっと思っていた。
姫として産まれたからには勇者と結婚するか、どこかの貴族の家に降嫁するかの二択の未来しかないのだ。
どんなにお父様が、お母様が愛してくれようともそれは義務なのだから抗いようもない。
だったらそんなこと、知らない方がいいのだと目を覆い隠し続けていた。
だからエリアス様を好きなのだと自覚した時、自分がその感情を抱いたことに驚きはしたものの、愛したのが彼であったことにホッとした。
勇者様なら愛してもいいのだ――と。
だがそれは間違いだったのだ。
「エリアス、それは真の情報ですか?」
「ああ。あいつの幼馴染、アリア=リベルタはエリアスが城へと戻ってきてから二度ほど面会に来ている。……どちらもエリアス本人に拒まれたが」
「幼馴染であると証明できるものはありますか?」
「5日前の面会記録にエリアスの母とアリアの兄の名前が記載されている。その時に人員として駆り出された宮廷魔導師のバリス=ルジャンタンに話を聞いたところ、彼を含めた5人がエリアスの供述が嘘ではないことを証明させられたと証言している。……そして2人が何度もアリアという言葉を口に出していたとも。独自に調べた結果、シリウスの家の隣のリベルタ家には次女としてアリアという少女がいるとの証言も複数確認できた」
「そう、ですか……」
「信用できないなら他の騎士を動かしてくれても構わない。だがアリアの存在をなかったことにするというのなら俺は、相手が姫さんだろうと許しはしない」
ここまで証拠という証拠を突きつけられて、その上彼はその言葉の真実味を上乗せするかのように腰に下げた長剣に手をかけている。
もしも私がアリア=リベルタという少女を消してしまってと誰かに命令したのなら、彼は迷いなく私を切り捨てることだろう。
自然と私の身体は恐怖に震えることはなかった。
その代わりに突きつけられた事実の重さに力が抜けてしまい、床へとへたり込んだ。
「シリウス、あなたはエリアス様の記憶を戻す方法を見つけ出すことは出来ると約束できますか?」
「確約は出来ない。なにせ忘れているのはアリア1人のことだけで、ほかの住人のことはおろかアリアの家族のことまでしっかり覚えてやがる。……術者は相当な腕前の持ち主、俺は魔王ではないかと踏んでいる」
「魔王が……。ですが魔王はもう討伐されたはずでは」
「姫さん、魔法は術者が亡くなった後に無効化されるものとそうでないものがある。例えば西大陸に張られた結界なんかは術者が生きていようが死のうが関係なくきっちり100年は持つようになっているが、王族の人間にかけられている防御魔法は術者が亡くなれば解除される。それらは魔法の種類や術者の力によって条件が移ろうものだ」
「なぜ魔王はそんな魔法をかけたのでしょう? こう言っては何ですが死をかけた戦いで記憶を消すなんてそんなこと、するでしょうか?」
「おそらくかけたのは死を悟った時のことだろう。魔王はエリアスにいずれ殺したことを後悔するだろうと残していたからな。エリアスにとってアリアの存在は大きかったんだろう。王都に帰るたびに顔を見せて、最後の決戦の前だって……」
「……それはまるで『呪い』ですね」
魔王は自らが去りゆくこの世界で、敵である勇者が後悔をするためだけにこんな大掛かりな魔法をかけたとしたのなら、それは呪いとしか言いようがない。
そしてその呪いにかかったのは何も彼だけではないのだ。魔王はそれも織り込み済みだったのだろうか。
「シリウス=フラル、命令です。勇者エリアス=バクスタにかけられた魔法を解きなさい」
床にへたり込んだ状態で威厳も何もあったものではないけれど、これは王族として、姫としての命令ではないのだからお父様も咎めはしないだろう。
これは勇者エリアス=バクスタに惚れた、セシリア=ファーレン、一個人としての願いなのだから。
「いいのか?」
「ええ。ですがこのことはエリアス様やお父様を含めた他の者には内密に進めてください。そして魔法が解けると分かった段階で、まず初めに私の元へと連絡に来なさい。私とエリアス様の婚約を破棄します」
「方法はあるのか?」
「お父様の承諾を頂かなければなりませんが、魔法が解けたのなら私は姫を辞めます」
「正気か、姫さん」
「ええ、スキャンダルでも起こせば絶縁せざるを得ないでしょうから。それに私は元々、勇者様の子を産むために今、この場にいます。ですがそれは王家の事情であり、この国を救ってくれた勇者様の未来を曲げてまで実行することではありません」
勇者といえばこの国の英雄だ。彼という婚約者を捨てて、他の男と密会でもしている写真が掲載されれば私の信用はガタ落ちするだろう。
そこでエリアス様が私に愛想を尽かして城を去り、同郷の幼馴染と結婚する。
その時にパイプのある新聞社にデマを混ぜた情報を撒かせればいい。
魔王がかけた呪いならばそれは王族である、姫である私が背負えばいい。
人を愛するという感情を教えてもらっただけで、私の人生は明るく色づいたのだから。
「王家を出てどうするんだ?」
「どうしましょう?」
「決まってないのか……」
「とりあえずは身を隠しますね。私は勇者様とその幼馴染を引き離して、その上彼を捨てた悪者ですから」
「姫さんが悪者ならきっと俺も……」
シリウスは最後にそうボソッと呟くと部屋を後にした。
それからシリウスは私の元へと定期的に報告に来るようになった。
時にはアリアという少女の現状を。
時には遠征で得た情報を。
そして時には材料の援助を申し出た。
その度に私は自身の胸に罪を刻みつけた。
隣で笑っていてくれるエリアス様を見ては、写真でしか見たことのない少女を思い出す。
アリアさんは可愛らしい方で、シリウスの話によると働き者で客や店員からも信頼されているらしい。
彼女のような方こそ彼の隣に相応しい。
そう思うとエリアス様こそ勇者に相応しいのだと示した王家に伝わる導きの水晶をその台座から落としてしまいたい衝動にかられる。
「シリウス、現状はどうなの?」
「あと少し、ってところか……」
「宰相からはそろそろ結婚するようにと急かされているわ」
「なぁ、姫さん。もういっそのことこのままでいいんじゃないか?」
「…………何を言いだすのよ」
「エリアスはこの魔法がかかっている限り、アリアのことを思い出すことはない。そしてアリアはもう、前を向いて歩き出している。なら「ダメよ!」
後ろ向きな発言をこぼし始めたシリウスの手元に手を叩きつける。
いつからこんなに感情的な女になったのだろうと自分でも驚くほどに大きな音が出る。
その音はシリウスの気をひくとともに、私の考えを確たるものへと変えていく。
「あなたがやらないなら私がやるわ。どんな汚名を被ろうとも私はあの人に幸せになってもらうって決めたの」
「幸せ……か。記憶が戻ることがあいつにとっての幸せだとなぜ言い切れる?」
「数年前に国王から押し付けられた私なんかと結婚するよりも、20年ほど寄り添ってきた幼馴染と結婚した方が幸せになれるわ」
「なるほど、根拠は年数か」
「ええ、悪い?」
秘密を共有したからか、シリウスとは家臣と王族というよりは共犯者のような気分だ。
だからこそ宰相が聞いたら怒りだすような、こんな子どもじみた言い方をすることができる。
「いや、20年に勝てるわけがねぇよな、そう、だよな……」
「シリウス?」
「なぁ姫さん。もしも、もしもエリアスの記憶が戻ったら俺と一緒に国を出ないか?」
「私はともかくとして、あなたまで国を出る必要はないでしょう?」
「姫さんがエリアスに惚れているのと同じように、俺はアリアに惚れている」
その言葉はストンと私の心に落ち着いた。薄々そうではないかと気づいてはいたのだ。
シリウスがアリアさんを語るときの表情はいくつかの感情が交錯していて、それでも瞳に宿るのはいつだって愛おしさだった。
「シリウス、あなたはアリアさんではなく私と共に生きる道を選ぶの?」
「アリアはエリアスと歩む……それでいい。まぁ、一発くらいは殴らせてもらいたいが」
「そうしたら私はアリアさんに叩かれるでしょうね」
「アリアはそういうやつじゃないさ」
私達は愛した人とは共に歩めない。
愛してはいけない人を愛してしまったのだから。