2.アリア=リベルタという少女
それを見かけた日から何日が経った頃だったか、俺には一通の手紙が運ばれてきた。村の、家族からの手紙である。
忙しくてまだ王都に帰ってきたことを知らせる手紙は出せていなかったものの、遠く離れた家族にも俺の帰還が伝わっていたらしい。
いつ帰って来るのかとの手紙かと思い、開くとそこに書かれていたのは『アリア』という名ばかりだった。
またここでも『アリア』という少女は俺の元に現れる。
それもお隣の家の『アリア』というのだからタチが悪い。
村にいる家族が城へと訪れた少女、アリア=リベルタのことなんて知っているはずもないというのに、彼らが指すのはリベルタの家名を持つアリアだった。
なぜこんなにも俺の元へとやって来るのかとその名前から逃げるようにして家族への手紙を書いた。
そんな名前の少女など知らないと。
その少女とグルになってからからかうのはやめてほしいと。
俺が王都に残ることになればまだ幼いリコルが家を継ぐこととなる。そしてそれまでは父さんと母さんには現役で働いてもらわなくてはいけない。俺がそこに帰りさえすればすぐに楽にしてやれるとまではいかないものの、以前のように手伝って、負担を減らすことくらいならできた。
父さんと母さんが俺を恨んで、なんてそんなことするはずもないとわかっていながらも『アリア=リベルタ』の名を目で捉えてしまえばその文字が全ての思考を悪い方へと運んでしまうのだ。
進むにつれて乱雑になりながらも手紙に封蝋を押し付ける。そして最近町の食堂へと昼食を取りに行くのが日課となったシリウスに書き終わった手紙を出してきてくれと頼んだ。
兵士や王家の使用人に頼むことも出来たが、彼らに頼むとどうしても仰々しいものとなってしまう。だからいつも手紙は王都にある郵便窓口で頼んでいた。
だが不思議なことに、この2年何度も手紙を出しに行っていたはずの郵便窓口がどこにあるのかを忘れてしまっているのだ。シリウスに場所を聞いてもあまりピンと来ず、最終的には彼に頼む形となった。
郵便窓口に限ったことではなく、最近ふと思い出せないことが増えた。
試しに宮廷医師に診察を願い出たが、特に頭には異常はないという。
シリウスに至っては「お前は郵便窓口の場所なんて初めから知らなかっただろう」と時たまに嘘をつくようになった。
それはあいつなりに俺を休ませるかなにかの方便なのだろう。
シリウスというのはそういう男なのだ。
それから数ヶ月が経ち、近衛兵でありながら各地の復興作業を手伝うシリウスが度々王都を外すことが多くなった頃、彼らは唐突にやってきた。
母さんとお隣のマイス兄さんである。
取り次がれてすぐに王宮に与えられた俺の部屋へと通すと、2人ともが何やらフツフツと湧き出す怒りを喉元で押さえ込んでいるような、今にも爆発寸前といったような表情を浮かべていた。
「ごめん、村には帰れない。俺は王都に残ることに決めたんだ」
責められるよりも早く直角に腰を降り、頭を下げると2人の怒りはそれによって頂点へと達したようだった。
俺が顔を上げた時には、母さんは嫁入り道具の包丁セットの入った小さな箱に手をかけ、マイス兄さんは腰から下げた工具セットから適当な一つを手に取ろうとしていた。
2人ともがそれを振りかざさなかったのはお茶を運びに来てくれた使用人が「失礼します」とドアを叩いたからに他ならず、それが後1分でも遅ければどちらかが手に持った得物を俺に向けて振りかざしていたことだろう。
ナイスタイミングでの入室を果たした彼女が部屋を去ると2人は息を整えて気を落ち着かせた後でどちらからともなく口を開いた。
「アリアのことはどうするつもりだ」「アリアちゃんとのことはどうなっているの?」
また『アリア』だ。
手紙の中だけでは飽き足らず、こちらへ赴いてもまだなおその名を俺の前へと突きつけるのか。
「アリアって誰なんだよ!」
そして気づいたら久し振りに顔を見せてくれた2人に声を荒げていた。
それが耳に入った時、一番驚いたのは間違いなく俺自身で、なぜこんなにも自分は苛立っているのかと自分自身でも理解が出来なかった。
「……ごめん」
「エリアス、あなた……」
「お前はアリアを捨てるのか」
「捨てるってそんな……」
「知らぬ存ぜぬで突き通そうとしているのかもしれないが結局はそうだろ? お前は今や国を救った英雄だ。ただの村娘になんか構っていられないっていうのも分からなくはない。だがな、俺にとってアリアは大切な妹なんだ」
淡々と語られるその言葉は、アリアという少女を知らない俺の心にグサリと突き刺さる。
マイス兄さんには妹なんていないはずなのに、アリアなんて少女はリベルタ家だけでなく村のどこにもいないはずなのに、なぜこうも彼は静かな怒りを燃やし続けていて、そして俺はなぜこんなにも心を痛めているのだろうか?
「知らない、本当に知らないんだ……。教えてくれ、アリアって誰なんだよ……」
そして俺は2人に懇願した。
こんなにも容易く俺の感情を揺さぶるアリア=リベルタという少女が誰なのかを説明してほしいと。
気づけば頬には涙が伝っていた。
それを目の当たりにした2人はやがて怒りを鎮めると、代わりに困惑の光をその目に宿した。
「どこか打ち付けて、一時的に記憶が飛んでいるんじゃないの? 時間が経てば思い出したり……」
「でも俺たちのことは覚えている。アリアのことだけ忘れるなんていくらなんでも無理があるだろう?」
「そう、よね。エリアス、やっぱり我が息子とはいえ許すわけにはいかないわ」
「アリアを泣かせた罪は重い。エリアス、兄さんを止めてきただけ感謝をしてくれてもいいぞ?」
思い直してしまったらしい2人は改めて己の道具へと手を伸ばす。
覚えのない罪を断罪するために母さんは息子を、そしてマイス兄さんは幼馴染を傷つけようとしているのだ。
「2人とも待ってくれ! 本当に知らないんだ!」
命の危険さえも感じた俺は魔物よりも厄介な2人から数歩ほど遠ざかると学のない頭をフル回転に働かせた。
「宮廷魔導師に心理変化を視覚に捉えられる者がいるらしい。だからその人に協力してもらって、俺が嘘をついていないことを証明する!」
そのような研究をしている人が宮廷魔導師にいることはいつだったかは忘れたがシリウスから聞いたことがあった。
宮廷魔導師は変わり者が多いからなと笑っていた記憶の中のシリウスに礼を言いながら、俺はすぐに部屋から駆け出した。
「バリス=ルジャンタンはいるか!」
「俺ですけど?」
「俺の無実を協力してくれ!」
「はぁ……」
見た目といい返事といい気の抜けたようなその青年の手を引き、再びあの部屋へと戻ると、部屋へと残していた2人は物騒な話し合いをしながらも俺の帰りを待っていた。
「2人とも、こちらがさっき話したバリスさんだ」
「なるほど共犯者というわけか」
すでにいくつもの工具がひしめき合う右手でいつでも猟る準備は出来ているのだと脅すようにして見せたマイス兄さんに、連れてこられた理由さえもよくわかっていないバリスは「……っ」と声にならない何かを発していた。
彼の兄、リンデル兄さんを一度だけ怒らせたことのある俺からしてみればその恐怖は失神しかけるほどではないものの、魔王と対峙した時以上の恐怖をヒシヒシと肌で感じている。
なぜ怒られたのか今となっては理由さえも覚えてはいないものの、彼の顔を思い出せば魔王なんて恐るるに足らなかった。身近な、奥さんにベタ惚れでとろけた様な表情をいつも浮かべているリンデル兄さんが怒った時の方が俺にとっては何十倍と怖いのだ。
「彼とは初対面だ」
「はっ、はい! つい先ほど勇者様とはお会いしたばかりで、何をするかの説明も受けておりません!」
「……わかったわ。他に何人か証人として連れて来ることで納得しましょう。マイスと私がそれぞれ事情の知らなさそうな宮廷魔導師とかいう人と、いざって時にエリアスの頭を調べてくれるお医者さんを1人ずつ選んで連れてきましょう」
それから城の内部のことなど知らないはずの2人が宮廷魔導師と宮廷医師をそれぞれ2人ずつ揃えるまでそう時間はかからなかった。
そうして合計5人となった証人の前で俺の言葉が真実であることは証明されたのだった。
そのことに酷く落ち込み、涙さえ浮かべ、悔しそうに下唇を噛んでいた2人だったがアリア=リベルタという少女が存在するのだという証言を頑なに曲げようとはしなかった。
「忘れてしまったなんて……」
証人5人を用意して尋問した2人と、2人が連れてきた医師が下した判断は俺がアリア=リベルタという少女のことだけをスッポリと記憶から抜け落としてしまっているという、俺としてはあまり納得の出来ない結果だった。
だがその代わり、それで納得したらしい家族が再びアリア=リベルタの名を口にすることはなくなった。