向日葵の俯く日
今日、昔からよく知る近所のお姉さんが亡くなった。
茹だるような暑さの中、陽炎に揺れる景色の中。向日葵はぐったりと気怠そうな表情で下を向き、相変わらず喧しい蝉達が大合唱を繰り広げる。そんな昼下がり、今では珍しい和風建築の縁側へ飛び込んできた知らせ。実感のわかない言葉はただの音の羅列にしか聞こえてこず、悲しみや驚きが瞬間的に込み上げてくることはなかった。連絡を直接受けてそれを告げた僕の母も、きっと多少の悲しみに包まれてはいたのだろうが、所詮は他人の家の子だ。お気の毒にね、と言いながら箪笥の奥にしまってある喪服を引っ張り出している。
僕はというと、ただ無性に喉が渇いて仕方なくなり、かといって風通しの良い縁側から離れる気にもなれず、風鈴が揺れるのを大の字に寝そべってずっと眺めていた。チリン、チリン。不規則に可愛らしく鳴る風鈴の音色はいつもと変わらない。汗ばんだ半袖のティーシャツが肌に張り付いて、首筋にかかる髪も汗で濡れていた。横で扇風機が首を振っているが、寝そべっている僕にその風は届かない。通り抜ける風は涼しいが、妙に居心地が悪く感じた。
「佑介、アンタも一応小さい頃からお世話になってるんだから、お葬式出なさいよ」
「……ん」
天井の木目が人の目に見える、雑草の揺らぎが人の囁き声のように聞こえる。じっとりと湿った手首をずっと誰かに掴まれているような不気味さ。夏の暑さがやけに近いところにあるように思えて、僕はゆっくりと目を閉じた。瞼を閉じていても分かる強い日差しの赤、じりじりと肌を焦がす感覚。全てがいつも通り感じられていることが、今の僕にとっては違和感そのものに思えた。
お葬式へ出ることはこれが初めてというわけではない。もう三年前になるだろうか、僕が小学五年生の冬、祖父が亡くなり母と父に連れられて人生で初めて「お葬式」というものに参列した。祖父は北海道に住んでおり、東京に住んでいる僕は年に一度くらいしか会う機会がなかった。祖父が電話嫌いということもあってか、僕は祖父と「親戚らしい」打ち解けた関係ではなかった。話す時も何を話せばいいのかよく分からなかったし、例え何か話したとしてもぼそぼそと慣れない丁寧語を使った無難な会話だったと記憶している。
だからだろう、祖父が亡くなったと聞いた時も然程衝撃を受けなかった。葬式の会場に着いてからも同じで、声を押し殺して泣く叔父や叔母の背中をずっと不思議な気持ちで眺めていた。それでもなぜか、祖父の遺骨を見たときにはわけもわからず涙が零れた。唐突に虚しさが込み上げてきて、ボロボロと堪えきれない涙が頬を伝った。悲しい、というよりもただただ虚しく感じた。
確か、あの時僕はあまり悲しみというものを感じなかったのは祖父をよく知らないからだ、と考えた。強く刻まれた思い出がないから、僕という人間に祖父が残した記憶が少ないからだ、と。しかし、今回は違った。近所のお姉さん、僕より八つも年上で今年大学を卒業した佐嶋藤子さん。小さい頃からいつも僕の面倒を見てくれる向かいの家のお姉さん。僕が泣いているときには必ず缶に入った飴を一つくれた、すっとするハッカの味をまだ脳味噌が覚えている。
僕が放課後友達の家へ遊びに行こうと家を出ると、決まってピアノの演奏が聞こえてきた。曲の名前など全くわからなかったが、僕は彼女のピアノが嫌いではなかった。音楽について深い知識があるわけでもないし、鑑賞が得意かと聞かれればむしろ苦手な方に分類されるが、彼女のピアノだけはとても優しい音だ、と言い切れる。根拠などもちろんない。
そして今日、その藤子さんが、藤子姉さんが亡くなった。こんなにもたくさんの思い出が残っているのに、僕はこうして夏の暑さにやられて縁側でぐったりと寝そべっている。未だに悲しさというものは感じられず、妙な居心地の悪さだけが時々刻々と大きく膨らんでいた。
藤子姉さんは今朝早く、バイト先へ向かっていたところを居眠り運転のトラックに撥ねられて病院へ搬送され、そのまま帰らぬ人となったらしい。身体の損傷は大きかったが助からないほどではなく、彼女を死に至らしめた一番の原因は頭部を強くコンクリートに打ったことだったようだ。
僕が縁側で目を瞑ってから数分後、不意に家のインターホンが鳴った。彼女の両親が訪ねてきたらしく、母が慌ただしい様子で玄関へ向かう足音を聞いていた。嗚咽混じりの声、何を話しているのかは分からなかったが、彼女の両親が泣いているということだけは分かった。一方の僕は未だに悲しい、という感覚のないままだ。閉じていた目をうっすらと開いて数日間雲一つ見ていない青い空を眺めてみても変わらない。
中学二年生、僕の夏はそうして始まった。
お葬式の当日。僕は夏用の学生服に袖を通して玄関に立っていた。正面、藤子さんの住んでいた家の窓はカーテンで閉ざされており、水のあげられた気配のない花壇で、名前も知らない花が萎れていた。母は携帯電話を忘れた、といって家の中へ戻っている。
昨日唐突に舞い込んだ訃報、やはり僕には何の感情も込み上げてこない。相変わらず違和感だけが僕の腹の底をぐるぐると渦巻いており、課題図書を読む気も失せてしまっていた。
そろそろ雨雲の一つや二つきてもいいのではないか、と思うが、空は晴天のまま。道路の隅っこでミミズが乾涸びていたり、あまりの暑さに雑草すら弱々しく萎れていたりする始末。家の外に出てわずか数分しか経っていないのに、僕の半袖ワイシャツの背中は汗でじわりと湿っていた。制服というものは非常に厄介で、夏場も黒いスラックスは陽の光を吸収し、足許はサウナのようになっていた。ローファーの中も蒸れていて気持ちが悪い。
隣で黒いスーツに身を包んだ父が苛立たしげに革靴を鳴らしている。大方なかなか出てこない母に苛ついているのだろう。夏の暑さというものは人間を短気にする。僕も同じだ。
それから少ししてようやく出てきた母と3人、バスに乗って葬儀場へと向かった。バスに乗った瞬間、キンと効いた冷房で体は一気に冷やされた。風邪をひいたようにくしゃみがとまらなくなったのは、きっとそのせいだ。
バスが信号で停車している間、大きなリュックサックを背負って道路を駆けていく小さな子供の姿が見えた。夏休みで祖父母の家にでも遊びに来ているのか、それともこれからどこかへ出掛けるのか。そんなことは知らないが、僕にはその後ろ姿がやけに眩しく輝いて見えていた。窓ガラスにうっすらと映る僕の顔は、どこかぼんやりとしていて気力がないように見えた。
上の空のまま数十分バスに揺られ、ぼーっとしたまま危うく乗り過ごしそうになって慌ててバスを降りる。その間も僕は足下がぐらぐらと揺れているような不気味な心地でいた。母に「しゃんとしなさい」と叱られ、父には無言で髪を掻き乱された。父の手が、いつもより優しいように感じたのはなぜだったのだろうか。
葬儀場に着くと既に多くの人が集まっていた。ご近所さんの数名以外は皆親戚の人達らしく、知らない顔ばかりだった。重苦しい空気が漂う空間に来てようやく、僕の心臓がきゅっと締め付けられるような痛みをもった。モノトーン、穏やかに微笑む彼女の写真の周りに飾られた仏花だけが鮮やかな広い部屋。といってもそこまで盛大なお葬式ではなく、家族葬より少し大袈裟な程度だ。お悔やみの言葉や、哀れみの言葉がひそひそと小さく耳に届く。僕は彼女の写真を見上げた。
白い背景の中、彼女は優しく笑っていた。叔父なのか叔母なのか、もっと遠いのか。隣で集まって話している四十絡みの女性達の会話を聞くに、写真は藤子さんの恋人が撮ったものらしい。旅行に出掛けたときに撮った写真で、彼女が一番良い笑顔で写っている写真。
視線を下ろすと、若い男性が棺の傍でうずくまっていた。背の高い綺麗な顔立ちをした大人しそうな人で、泣いていたのか目元は赤く染まっていた。恐らくあの男性が藤子さんの恋人、なのだろう。パッと見ではいくつか全くわからなかったが、藤子さんよりも少し年上ぐらいに感じた。二人が並んで歩いているところを想像してみると、歯車が噛み合ったようにしっくりとくる。その光景を、どこかで見たことがあるような気がした。
霧がかかったように輪郭のはっきりしない、ぼうっとした意識のままで始まった「お葬式」は、お経はともかく、人の話し声までもが呪文のようだった。すすり泣く音でさえも、呪文のよう。立ち上る線香の煙がゆらりゆらりと左右に振れたかと思いきや、真っ直ぐ天へと登っていく。独特の香りは僕のぼやけた頭の中をさらに暈していった。
「ねえ、人って死んだらどうなるの」
確か小学五年生のとき、祖父のお葬式へ出た直後だった。僕はそんな質問を彼女に投げた。両親は祖父の死んだ後のことで親戚の人達と話し合いをする、と家を空けており、その間彼女が面倒を見てくれていた。算数の宿題が思ったより難しく、やる気を失くしていた僕は唐突にそう聞いたのだ。それまで僕になんとかわかりやすいように説明をしてくれていた彼女は驚いたように顔を上げ、次いで困ったように笑った。
「そうね……、どうなるのかしら」
「お化けになるのかな」
「佑くんはお化け、信じてるの」
「……ううん、だって見たことないもん」
「私も、見たことないわ。でも私はお化け、いると思うなあ」
「お化けっているの」
「きっと、いるのよ」
「ふーん、よくわかんないや」
僕が炬燵の中で足をばたつかせると、彼女はまた困ったように笑っていた。いきなり変な質問をしたからなのか、それとも何か別に理由があったのか、今となってはもうわからないが。
「佑くん、人って何でできてるかわかる?」
「えっと……水がたくさんいるって、理科の先生が言ってたから、水と、あと何か」
「うん、そんな感じね。でもね、人を作ってる一番大切なものっていうのは『そこにいるっていう情報』なのよ」
「情報……」
「そう。佑くん、空気って目に見えないでしょう、でもここにある」
「……酸素と、二酸化炭素と、なんだっけ……、フッ素、みたいな名前の」
「窒素、ね。ふふ、面白い間違え。でも佑くん、そのこと学校で習ってなかったらここに空気があるっていわれてもわからないでしょう」
「習ったけど、今でもよくわかんないよ」
「そっか、難しいものね。私も空気があるって言われてもピンとこないわ。でも、そこにある。きっとお化けもそういうものなのよ。誰かがそこにいる、って情報を教えてくれたら、そこにいることがわかるの」
「……難しいや」
彼女は少し変わった人だったように思う。普通、小学生に幽霊はいるか、なんて聞かれて真面目に答える人の方が少ない。多数派を普通とするのならば、彼女は少数派、要するに変わり者ということだ。算数の問題で唸っているような小学生に、人という存在を、そしてそこから導かれるものを説明する。彼女は変わっていた。
甲高い声で単純な言葉ばかり使い、極端な表現しかできないような「イマドキ」の話し方をしなかったのも、彼女が変わっていると思った要因の一つだ。俗に「お姉さん言葉」とかそういった風に呼ばれる、少し古風な口調、どんなときでも穏やかに微笑んだままでいる柔らかさ。彼女の話すことは時折、僕には難しく感じられることもあるが、学校の友達や他の人の話を聞いているよりもずっと楽しかった。
中二病、だとかいわれる変なことを聞いても、彼女はいつだって真剣に答えを教えてくれる。僕の質問を決して莫迦にすることなく、目を見て話をしてくれる。そのことが堪らなく嬉しくて、彼女は僕の中で唯一光を放つ存在だった。恋とかそんなものではなく、純粋な憧れ。こんな人になれたら、という尊敬。僕のこの憧憬の念を理解してくれる人は、今のところ現れていない。皆が皆、この感情へ勝手に「恋」と名付けて去っていく。違うのだ、そんなに単純な話ではない。
「藤子姉、そのお話、僕がもっと大きくなって頭が良くなったら、またしてほしいな」
「勿論よ。じゃあ私も、もっとはっきりわかりやすく伝えられるように勉強しなくちゃね」
小さく頷いて、算数の問題集に視線を戻したときだった。不意にインターホンが鳴った。
両親が帰ってくる、といっていたのは次の日の昼頃だったため、突然鳴った機械音は僕の肩を大きく揺さぶった。そう、確かそのときに訪ねてきた人が、彼女の恋人であるあの男性だったのだ。だから、想像した二人の並ぶ姿に既視感を覚えたのだ。僕が玄関まで出ていくと、その男性は少し戸惑った様子で目を軽く見開いた後、僕へ問いかけた。
「ええと……藤子がここに来ているって聞いたんだけど、キミが佑介くん、でいいのかな」
「うん、藤子姉なら奥にいるけど……、お兄さん誰?」
「僕は久保田裕之、うーんと、藤子のお友達……というか、なんというか、それより近しい関係というか」
「彼氏なの」
「えっ……うん、まあ、そうだね」
「あら、裕之さん。来るのなら連絡くれればよかったのに」
裕之さんと三人でリビングへ戻ると、僕達は再び炬燵を丸く囲んで座った。裕之さんは彼女と同じ黒い髪の人で、少し垂れ気味の瞳が優しい印象を与える静かな人だった。とても頭のいい人で、彼女よりも五つ年上だという。僕とは一回り以上年が離れているということになる。
それからしばらく、僕は二人に勉強を教えてもらいながら時々ミカンを食べたり、また変な小難しい話をしたりしながら時を過ごした。裕之さんが家へやって来たのは十六時過ぎだったが、気が付けば時計は十八時を指していた。
丁度その日は真冬日だったこともあり、僕達は三人でお鍋を食べたと記憶している。どんな鍋だったかはよく覚えていないが、椎茸がどうしても食べたくなくてむっとしていたことだけは鮮明に覚えている。近所の人といる、というより本当に家族といるような感覚だった。もちろん僕の母や父は彼女達よりずっと年上だ。しかし、あまりにも穏やかに流れる時間が、ひどく心地よかったのだ。
「ねえ、裕兄はお化けって信じてるの」
「お化け……そうだなあ、目には見えないかもしれないけど、いるんじゃないかなって思うよ」
「すごい、藤子姉と同じようなこと言ってる」
「さっき、私がお化けは空気みたいなものだと思うのっていう話をしたのよ。目には見えないから、誰かがそこにいるって教えてくれないとわからないけど、確かにいるものだ、って」
「成程ね、僕は今なんとなくで答えたけど……、確かにそんな感じかもしれないね」
「ねえ、僕も死んだらお化けになるのかな」
「そうだなあ…そうかもしれないね、でも佑介くんがなるよりきっと僕がなる方が先だよ」
「あら、案外裕之さんより私の方が先にお化けになるかもしれないわ」
「いや、藤子は意外としぶとく生きていきそうだなって僕は思うよ」
「そうかしら」
何度か同じような話を繰り返し、僕達は三人でお鍋の後片付けを済ませ、裕之さんがお土産として買ってきてくれていた大福を頬張った。ぱふ、と粉が口の周りについて、机も雪が降ったようにぽつぽつと白くなった。二人は粉が落ちないように上手に食べていたが、僕はどうやっても粉が落ちてしまって上手く食べることができなかった。程よい甘さの餡子が詰まった大福はとても美味しかったが、少し悔しかった。
時計もやがて二十一時を周り、裕之さんも来ているということで彼女は家へ戻ることになった。夜、家に一人でいるなんて経験は今までになかったため不安でなかったというと嘘になるが、僕は強がって大丈夫、と笑ってみせた。またねと手を振って玄関の引戸ががらがら閉まる。途端にしんと静まり返った家の中は、いつも僕が生活している家でないように感じた。
ずっとリビングで過ごしていたせいか自室は冷えきっており、僕は急いで布団を敷いて掛け布団に頭まで潜った。時計の針が進む音、外で北風の吹き荒れる音、猫が通り過ぎる音。何もなければ気にもとめないような日常の音の一つ一つがやけに大きく聞こえ、それは今僕が一人でいるという事実をよりいっそう明らかにしていった。
きっとこの感覚も誰かに教えてもらわなければ気付けない「空気」や「お化け」と同じものなのだろう。誰かと一緒にいて、とても暖かい時間を過ごしたことにより学んだ「寂しい」という感覚。これを、孤独と呼ぶのかもしれない。
なかなか眠りに付けない夜は、とても長く寒いものだった。
隣に座った母に肩を叩かれてはっと我に返ると、周りの人々はお焼香を上げるべく前方へと一人ずつ歩いて進んでいた。母が早く行きなさい、と口の動きだけで僕に語りかける。詳しいやり方を僕はよく覚えていなかったため、仕方なく前の人の真似をすることにした。三回やる人と、一回の人とがおり、迷った僕は間をとって二回おしいただいた。自分の座っていた椅子に戻ったが特に何も言われなかったため、間違ったことはしていなかったのだろう。
少しして、参列者が全員お焼香を終えるとお葬式は閉式を迎えた。次々と人が棺の周りに集まって生花を彼女の周りに並べていく。
「こんなに若いのに……」
「きっと来世で待っていてくれるわ」
優しい言葉だ。僕は後ろに並んでその様子を眺めていた。父にとんと背を押されて前へ進み出てみると、静かに目を閉じたままの彼女がそこに眠っていた。ひどく体を損傷していた、と聞いたが白い着物に身を包んだ彼女はそんな様子は微塵も浮かべておらず、ただ眠っているだけのようにも思える。だが、生きている人とは何かが違う。何が違うのかと聞かれれば特にこれ、といったことはないが、何かが違っている。
顔の横に白い花をそっと添えてみても、彼女は何も言わない。花が好きだといっていた、あの藤子姉が目の前にいるのに、まるで別の人のように感じた。
「佑介くん、久しぶりだね」
「あ……裕兄。うん……」
「まだ僕も信じられないんだ、藤子がもう、喋ってくれない、なんてね……。また、皆で、お鍋食べたかったんだけど」
気丈に振舞っているようだったが、相当苦しいのだろう。言葉が震え、瞳がじわりと淡く濡れる。まるで化粧でもしたように赤い目元が、裕之さんの垂れ目を際立たせている。それなのに未だに涙一つ零れない僕はどこかがおかしいのかもしれない。
「藤子姉は、お化けになったのかな」
「……どうだろう、もしかすると今も僕らの隣にいるのかもしれない」
でも目に見えないのは寂しいね、裕之さんがそういって苦しげに笑う。目に見えないけどそこにいる。そう思えば悲しみが半減する、なんてたまに聞く言葉だけれど、実際は逆だ。目に見えなくなってしまう、なってしまった。そのことを強く感じる度、虚しさが強くなっていく。ここにきて僕はようやく気が付いた、僕は何も感じていないのではなく、虚無感というものに全てが塗り潰されていただけなのだ。悲しみも、苦しさも何もかもが虚無に包まれて、僕は彼女がいなくなったという事実を受け入れられないままこの場に立っていたのだ。
たくさんの人に囲まれて灼熱の中へ消えていく彼女の姿を見送る瞬間、僕の中で虚無感というものがはっきりとした形をもって僕の心臓を切り裂いた。
出棺の時が訪れて、閉まっていく火葬炉の扉、彼女の黒い髪も白い肌も何もかもを焼き尽くす炎があの中で全てを終わらせるのだ。あんな小さな空間で、彼女は燃え尽きていくのだ。心臓の痛みは増すばかりで、心地よい温度の空調もやけに低く寒く感じられる。まるであの真冬日のように。
今玄関先で手を振っているのは彼女と裕之さんではなく、彼女一人。僕と裕之さんが部屋の中から彼女の後ろ姿を見つめている。彼女が「またね」ではなく「じゃあね」といって手を振って、僕達は引き止めたいのに体が石のように固まって動くことができない。僕達は目に見える世界に囚われたままで、彼女だけが見えない世界へと扉を越えて行ってしまう。
「藤子はきっと、ここにいるんだよ。希望をもちたいから話しているわけじゃなくて、きっとそうなんだって、僕の予想、あの日の続き。多分、お化けとかそういうものじゃなくて」
「……そこにいる情報」
「そう、それだ。僕達はここにいる、っていう情報を肉体を用いることでしか示せない。でも藤子にはもう、肉体は必要ない。もっと小さなもの、もしかすると光の粒よりもっと小さいのかもしれない。空気と同じで、そこにあるのに、あまりにも情報量が多いから、あまりにも物体として小さいから、脳がフィルターをかけてカットしてしまう存在」
「見えてるのに、見えない」
「藤子は確かに人としての『生』を閉じてしまったけど、まだ彼女がここにいるって情報は残っているのかもしれない」
「裕兄はいつも『かもしれない』だね」
「僕にはそんなに自信が無いんだよ」
その会話から、僕達はずっと黙ったままでいた。他の人達は軽い食事をとったり、今後のことについて細かい話をしたりしている中、じっとロビーに用意されたソファーに座ったまま。何を考えているわけでもないし、何か一つを見ようと目を凝らしているわけでもない。開いた目が取り入れることのできる最大の情報を受け入れる。その中に、彼女の存在があると信じて。
きっと周りの人からはあまりの悲しみに打ちひしがれているように見えているのだろう。実際、隣に座る裕之さんに関してはそういうところもある。ある、なんて裕之さんでもない僕が言い切っていいのかはよくわからないが。
僕が包まれている虚無感は、どこから来たのだろう。裕之さんにも虚無感はあるのだろうか。いや、あるに違いない。全てを塗り潰した虚無感を悲しみが食い破ってしまった、そんな感じだろう。僕の中でもいつか、悲しみが虚無感に牙を突き立てるのだろう。
黒くピカピカに磨かれた床に、座ったまま前屈みに膝を抱きしめた僕の顔が映っている、バスの中で見たうっすらとした顔と同じぐらいぼんやりとしている。けれど、今は「そういう顔」をしているのだとわかる。この顔は虚無感そのものなのだ。
裕之さんの顔をちらりと伺おうとしたが、組んだ手を額に押し当てているその表情はよく見えなかった。意図的にそうしているらしい彼は、今人にあまり表情を見せたくないのだろう。そんなことをしていなくても僕達の方へ視線を向けている人は誰一人としていないが、それでも見られたくないという意思が強くあるのだ。例えば「悲しみ」とか、そういう類のもの。
「佑くんも中学生ね、時間が経つのって早いのね」
「まあね。藤子姉は今、何してるの」
「私はまだ大学生だもの、お勉強よ。あとは、バイト……とかかしら」
「バイトって何してるの」
「古ーいカフェで働いているのよ」
「あの駅の横にあるお店の」
「そう、そう」
ふと一瞬、そんな古い記憶──といっても一年前のもだが──が蘇って、僕は閉じかけていた瞳をはっと開いた。彼女に呼ばれたような気がして顔を上げてみると、丁度火葬が終了したところだった。再び人が集まり始めており、裕之さんも涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔をゆっくりと上げた。
両親に手招きされて、僕は裕之さんの手を引き人集りの方へと向かった。ぴしっと黒いスーツに身を包んだ裕之さんがやけに幼く思えて、また僕の心臓の痛みが増した。
人集りを掻き分けて輪の中へ入ると、火葬炉から出てきた彼女がそこにいた。真っ白で、細くて、もうそこに彼女の面影など微塵も残っていない。側に立っていた葬儀屋の女性が一箇所ずつ骨の部位を説明していくのを、遠くで聞いた。距離としては本当にすぐ横からしているはずの声が、ずっと遠くから響いているようだ。
一言で言い表せと言われても、今の僕の気持ちに当てはまる言葉は見つからない。虚無感とも少し違っている。事故のせいで何箇所も骨が折れてしまっているらしく、元は綺麗な形をしていたらしい彼女の骨は多くが粉々になってしまっていた。この後血縁の近い者から順に彼女の骨を骨壷に納めていくことを「骨上げ」というらしい。僕は彼女と血縁関係はないから、ずっと最後の方だ。
彼女がこんなにも小さくなってしまった。骨になってしまったという意味でも、僕達の目に見えない存在になってしまったという意味でも、小さくなってしまった。もう話しかけても答えは返ってこない、あの笑顔もいずれ僕の記憶の中で薄れて消えていってしまう。
一時は止んでいた誰かのすすり泣きが再び大きくなって、葬儀屋の女性の合掌という淡々とした言葉が掻き消されてしまいそうだった。
彼女の父から順に骨を骨壷に納め始める、僕はそれをじっと見つめている。彼女の笑顔がだんだんと記憶の中から薄れて、靄がかかる。あんなに小さな火葬炉で焼かれ、あんなに小さな骨壷に納められる。彼女、藤子という僕の最大の憧れの存在が、どんどん小さくなっていく。彼女の言葉が、閉ざされて、聞こえなくなっていく。
そこにいるのかもしれない、答えだって本当は聞こえているのかもしれない。この意識の中に見えずとも、聞こえずとも。
それでも、風に流されるように「藤子姉」は遠退いていく。誰かがそこにいると教えてくれなければ、僕には、僕たちにはわからない。教えてくれなければ、「そこ」とはどこなのかすらわからない。どんなに嫌だと首を振っても、記憶は記憶に埋もれて霞んでしまう、新しく積み重ねなければ、薄れてしまう。
けれど、それでいいのだと僕は思った。知らずとも、「どこかにいる」のならば、いいと思った。
小さくなっていく彼女を思いながら、いつの間にか視界は滲んでいた。
冠婚葬祭、私はまだお葬式しか言ったことがないなと気付きました。そう遠くないうちに友人の結婚式に呼ばれる日が来たらいいなと思います。




