ほたる、こい
雨が降りそうな匂いの中、一生懸命彼の背中を追う。こんな不安定な野道を行くのに手も差し出さないのかと思いつつも、もしそうなった時どんな顔していいかわからない。
どうしてこんな事になっちゃったんだっけ――そうだ、私が3ヶ月前SNSであんな投稿したからだ。友達から誕生日プレゼントに、とLEDライトが光るアロマディフューザーをもらって「蛍みたい、癒される~」と書いた、それを見たマコトからDMが届いたのだ。
「蛍、観た事ある?」
「んー、小さい時に一度だけ」
「今度観に行こう、6月の上旬」
――なによ、今更。
「いいね。じゃあ、近くなったら連絡ちょうだい」
社交辞令でいい、と思った。3ヶ月も先のこと、きっとマコトだって忘れるに違いない、期待なんてしない。しかし、予想に反して5月の下旬にきちんとDMは送られてきた。
「明日から雨が降るみたいなんだけど、そういう時が一番いいらしい」
まとわりつく入梅前の空気に、迂闊にも巻いてしまった髪も台無しだった――やっぱり、心のどこかで期待して……なんかないっ! マコトはただ単純に蛍を観る口実がほしかっただけに違いないんだから。
「男ひとりで蛍観に行くって、すごくイタいだろ?」
「まあ、ちょっとね」
――もう、忘れてるだろうか。高校の時の事……明るくてバスケ部のキャプテンで、人気者のオーラを纏ったマコトがずっと好きだった。マコトも少なからず、私の事を気にかけているように思えて「話があるから」と約束した卒業間近の日、マコトは来なかった。携帯なんて、まだ高校生が持っていなかった時の話だ。
「ごめん、うっかり忘れててさ。アイツらにカラオケ連れて行かれて……で、なんだった、話って?」
次の日悪びれず言い放ったマコトと、結局口をきかないまま卒業。彼が地元に戻って就職したのは知っていたけれど、敢えて接点を持たないようにしていた。SNSで繋がったのも、今年の年末に同窓会があるその連絡の為だった。ずっと8年もの間、あの日の「棘」は私の胸に突き刺さったまま。
今更「会おう」だなんて。マコトだって私の気持ちには気付いていたはずだから、誘えばきっと断らないとでも思ったのだろうか――そうだとしたら悔しいから、お洒落なんてしない。服はシンプルに綿シャツにデニム、そしてデッキシューズ。化粧や髪だって、いつも通り――たまたま早く準備ができて時間が余ったから、ちょっと毛先を巻いただけだってば。
嘘。綺麗になった、と思われたかった。少しくらい後悔させたかった。
それなのに――少し伸びた身長、今もバスケを続けていてがっしりとした肩、引き締まった背中。髪は程よく茶色掛かりシャープな毛先が目元を涼やかに見せる。人懐っこい笑顔はそのままに、余分な肉が削げて「大人の顔」になっていたマコトに、思い出してしまったあの日の怒りが緩む。
みじめだと思った。きっとモテるはずだ、蛍を観に行こうと言えば喜んで手を挙げる女性はたくさんいるだろう。それに引き換え、私は特別にアクティブでもなく、ただ会社と家を往復する日々の中で時々通う弓道が趣味なだけの地味な女。ちょっと化粧に慣れてきたからってなんなのだ。
みじめさに加えて悔しささえ湧き上がってくる。
気まぐれに誘うんじゃないよ、その気もないなら。
前を歩くマコトの背中を、思いっきりドカッと蹴ったら気持ちいいだろうな――そう思ったとたんにマコトが振り返る。ヤバい、念が通じたか。
「もうちょっとだから。大丈夫?」
「う、ん」
不意に見せる優しさに、心の中の威嚇も萎える。いやいや、しっかりしなさいよ。好きだったのはもう8年も前の話。それから2人付き合った、たまたま今フリーだからって簡単に引き戻されちゃ駄目だってば、ますますコイツが思い上がっちゃうじゃない。どうせその体格や人懐っこい笑顔と性格で、大学でもモテたんでしょうよ?
車を停めた場所から20分は歩いただろうか。道らしい道が途切れ、ごつごつとした石が転がる小川に降りた。蛇行した川の丁度カーブのところに立つと、見る見るうちに薄暗くなり虫の鳴き声が二人を包む。
「穴場なんだ」
「蛍を見るのは初めて」と言う割にさっきからやけに迷いがない。
「前にも来たことあるの?」
「え、いや。初めてだけど、ほら、タウン誌で特集見てさ」
「ふーん……」
観光とは程遠い場所だ、タウン誌に載っていたと言うけれど蛍の鑑賞スポットとしても聞いたことがない。有名なキャンプ場へ行く曲がり角は車を停めた場所より手前だし……もちろん街灯すらない。車が通れないのだから抜け道でもない。ナビもつけずによくすんなり来れたね、と言おうとした時、マコトが私の耳元で小さく囁いた。
「ほら、いた」
薄暗く、その指先さえもあまり見えなかったがその小さな「光」はすぐにわかった。対岸の深い草叢から儚く瞬きながら、ふうっ、と左から右へ飛んでいった。ただ私は、耳から入り込んだマコトの声に小さく身震いしたことを気付かれはしなかったか、そっちの方が気になって生返事をしてしまった。
「あれっ、どこ行ったかな……わかった? ちゃんと見た?」
「見た見た、綺麗だった」
「ははっ、ホントかよ? ……まあいいや、まだまだこれからだから」
蛙や虫の鳴き声が一瞬途切れた。マコトの横顔を盗み見る。
ひとつ、ふたつ、と小さな光が行き交う、目で追う、そして視線を戻すと更に増えている。真っ暗になった対岸の草叢や木々の間に無数の蛍が光る。呼吸をするように、呼び合うように動く光が広がっていく。
何を求めてか、上昇するもの。私たちのすぐそばへ飛んできて、誘ったかと思うと気まぐれに逃げるもの。
声を出すと光が減るような気がして、ただ息を殺してその美しい光を眺めた。飽きもせず、近くを飛ぶ光を目で追い、葉に止まった蛍に顔を近付ける。ゆっくり、ゆっくり……点滅で気持ちを伝えられていいなあ、と思ったけれど、でもそれ以上の事を伝えられないのは切ない。
鳴かぬ蛍が身を焦がす――昔の人はよく言ったものだ。現代人には通じないのかも知れないけれど。スタンプだっていいじゃない? 伝えられなくて恋心募らせるなんて時間の無駄、なんて言われそう。
しゃがみ込んで蛍を見る二人の、肩が触れる。胸に込み上げてくる思いがこの口から零れ落ちないように下唇をぎゅっと噛んだ。
「あの頃、さ」
こんなに近くにいなければ聞こえない位の声で、マコトがつぶやく。
「ん?」
「……好きだった」
「……え?」
「3年の頃……いや、2年の文化祭くらいからかな。ははっ、今更だよな。もう時効」
ずるい。時効ってなに、そりゃそうかもしれないけど……
マコトは吹っ切れたように立ち上がった。それに驚いてか、目の前にいた蛍はふいっと飛んで行ってしまったのに、私は立ち上がれない。
「どうした?」
――私も好きだったよ。そう、言ってやればいいんだろうけど。大体、大人になったからってするりとそんな事言っちゃうなんて、ほんとムカつくわ。
自然の音だけしかしない静寂が、続いた。ああ、もうタイミングを逃してしまった。このまま聞かなかったことに――
「サキは、どうだった?」
聞き流す事を許してくれなかった。
「……私も」
なんて勝手な口だろうか。
「す、好きだったよ、マコトのこと」
言って、しまった――でも、マコトの中では「時効」なんだよ。もうどうにもならない。
「そっか、思い違いじゃなかったか……バカだな、俺達」
「うん」
「ちゃんと言えばよかった」
「……言おうと、したよ」
「……わかってた、何となく……でも、大学離れるってわかってただろ? 辛いんじゃないかって思って、俺が。ガキだったなあ、ってずっと後悔してた」
やめて。もうそれ以上言わないで。
「……」
「あ、いや、別に今がどうとかって話じゃなくて……」
「自分勝手、自己中」
マコトの言葉を遮る。きっと、驚いてる。ふと目の前の雑草に、舞い戻ってきた蛍が止まりゆっくりと光を放つ。マコトは私の言葉を噛み締め、理解したのだろう。また、しばらく気まずい静寂に包まれた。
あの日、とっぷりと日が暮れてゆく公園で、私がどんな気持ちで待っていたか。ハッピーエンドとバッドエンドがグルグルと頭の中で渦巻き、それでも幾分かは期待を抱いて緊張していたのに、約束の時間を10分、1時間、と過ぎていく中で感じた絶望。家に帰って夕飯も食べずに泣き明かし、次の日学校に行くことをどんなに躊躇ったか。
能天気(そうに見えた)なマコトの言い訳にどんなに傷ついたか。
それでもやっぱり、マコトを好きでいる自分にどんなに腹が立ったか。
忘れようとして、どれだけつまらない男と付き合ったか。
「ご、めん」
「勘違いしないで。私だって今更そんな……ただ、言いたかっただけだから。彼氏いるし」
「えっ……あ、そうだよな、それは……ごめん、本当にその、懐かしくてつい。今日誘ったりして悪かった、彼氏に怒られないか?」
はっ、そりゃそうだ。しまった、浅はかだった。
「……別に。その……」
「懐の、広い人なんだな。俺なんかとは大違い。俺がもしお前の彼氏だったら……高校時代好きだった奴になんか絶対会わせたくないよ」
「……」
「一言聞けばよかったな。お前と連絡取れて舞い上がってた……タイムライン見てても彼氏がいるってわからなくて。鈍いな、俺」
そりゃそうだ、彼氏なんていないんだから。
ゆっくりとした蛙の鳴き声。川のせせらぎ。虫の声が、胸をギリギリと擦っていく。
嘘をつかなければ、マコトは何か違う事を言ったんだろうか。いや、そんなこと。でも「舞い上がった」って……まだ間に合う? 彼氏なんて本当はいない、と言えば何かが変わる?
思い切って言おうとした、その時だった。
「そろそろ、帰ろうか」
マコトのはっきりとした声が暗闇に渡る。温かく大きな手が、肩をポン、と掴むように叩いた。
のろのろと立ち上がる。もう、蛍の光など目に映らなくなっていた。うつむき、ぽとり、ぽとりと落ちていく涙をやりすごすしかなかった。声を上げずに泣くって、苦しい。
隣を歩くマコトと私の手の甲が3度目に触れた時、そのリズムを壊すように私の手が掬い取られた。驚いて、でも振り払う理由もないまま、暗い道を歩く。いつの間にか涙は止まった。マコトの暖かく遠慮がちに握る力加減に、胸の奥から沸く懐かしさとあの頃の甘い後悔。
駐車場に停めてあった車が暗闇にうっすら見えてきた時、懐中電灯を持ったおじさんが近付いてきた。
「ああ、やっぱりあんたか。この車、見覚えがあると思うとった」
「……っ、こんばんは」
マコトが、パッと手を離した。
「この子か、あんたが言うてたんは」
「う、まぁ、はい」
「……え?」
「知っとるか? 嬢ちゃんのためになあ、この子は3回もここ見にきとったんや、はっはっは」
「……」
初めてって言ってなかったっけ……どおりで、ここまで迷いなく来て暗い道をスイスイ……
「や、あの、色々……ありがとうございましたっ、じゃあ」
慌てるように助手席のドアを開けて、私の背中を軽く押し乗るように促す。
「今日は蛍、多かったやろう、よかったな。また、来年も二人でおいで」
車に乗りかけていた私は、ヘコッと頭を下げ愛想笑いをしたマコトを押しのけた。
「はい、また来年、二人で来ます!」
「えっ」
おじさんが、じゃあ気を付けて帰れよ、と歩き始めた。助手席に乗り込み、ドアを閉めるとマコトが慌てて運転席へ乗りエンジンをかける。
「どういう、ことかな」
「……嘘。彼氏、いない」
「はっ!?」
私は今日、今のマコトに恋をした。
でも、それはきっとあの頃のマコトを好きだったからこそ。
「来年も」
「来年は」
二人の声が重なって、顔を見合わせて笑った。




