~ハッピーエンド~
あの日から、片付けることなく結局ぶら下げたままにしてあった風鈴が、台風一過の
強い風に煽られて激しく揺れていた。
辛いことも切ない思いも過ぎてみればあっという間。まるで魔法にかけられていた
ように過ぎていった。
これから残りの人生はそれ以上に瞬く間に過ぎていくだろう。考えている暇もない程に
きっと日々に追われて、気がついたら“人生最期の日”なんてことになっているに違いない
と、ふと思った。
「橘さんっ、ビッグニュースがあるんだよ、」
電話に出た途端、堰を切ったようにひかるくんは話し始めた。電話越しに興奮が隠し
切れないといった様子で
「よく聞いてよ、橘さんの映画の音楽、この俺が担当することになったんだ。」と
言った。
プロデューサーの意向で“新進気鋭のミュージシャンにこの音楽は任せる”とは聞いていた
が、まさかひかるくんが抜擢されることになるとは夢にも思わなかったのである。
「え?ひかるくんに決まったの⁈」
まさかこの狭き門をひかるくんが、自分の夫がくぐることになるなんて…こんな偶然が
あるのだろうか、と、驚きと同時に不思議なものを感じていた。
「もしもし?橘さん聞いてる?」
「あ、ああ…うん、聞いてる。すごいね、まさかね。おめでとう。」
「これで映画がヒットすれば、俺も一躍有名になれるな…あはは、あー楽しみ。」
「ねえ気をつけてよ。浮かれて注意が散漫になって、それで、」
「わかってるよ気をつける。じゃあね。」
「あ、ちょっと待ってひかるくん。」
話を切り上げようとしていた彼を呼び止め、急に忙しくなってしまい、新婚旅行も
ままならない私たちに、何かご褒美のようなものが欲しくて
「ねえ私たち、この仕事が一段落したら海にでも行かない?」と誘うと
「海かあ…いいね。たまにはのんびりしたいな。最近まとまった休みもなかったしね。」
と、しみじみ言った。
「これでもっと頑張れるでしょ。」と言うと
「そうだね。」と笑った。
私は電話を切った後『人生って何がきっかけになるのか本当にわからないなぁ』と
心の底からそう思っていた。
臨月に入り、いよいよ出産準備も万全といった頃、待ちに待った私たちの映画が公開の
日を迎えることとなった。原作者である私は特別に試写会に招かれ、自分の描いた世界
が、紡いだ言葉がどんなふうに形になるのか、期待半分怖さ半分で席に座っていた。
キャストはイメージ通りの人で、達矢さんの脆さや純粋さなどを見事に演じ分け、私は
思わず、天国にいる彼のことを思い出さずにはいられず、止まっていた時計の針を
いつの間にか巻き戻していた。目の中にいる彼に心の中で語りかけ、一緒に思い出の中
を旅することのできる幸せに浸っていた。
それと同時に私はもう一度、あの頃の危なっかしく、ふわふわとしていた自分の生き様
を客観視することで、これからの人生、改めて、一生懸命に生きなければならないとの
思いを強くした。
しんみりとしていた時に突然、聞き慣れた声が聞こえてきて、ドキドキしながら耳を
澄ますとやっぱりひかるくんの声だった。
自分の夫のことながら少しハスキーで重た過ぎない、言葉が素直に耳に届くそんな
優しい声に『いい声してるなぁ。』と惚れ直している自分に、密かに照れていた。
私はこれ以上ない幸せに感慨を深くし、これまで出会った人全てに“ありがとう”と心の中
で感謝をしていた。
そして私はこの日、最大のサプライズを目にすることになった。
エンドロールを涙しながら順に追っていると、なんとヘアスタイリストの名前に
【平井 詢】という文字を見つけたからだった。
『平井 詢 ってあの平井さんだよね、だって人づてで海外に修行に行ったって聞いたこと
があったもん。きっとあの平井さんだよね。あの 詢 の字はなかなか使わないもん。』
私だって平井さんのことは気にかけていた。あんな風に一方的に、ただ迷惑をかけて、
本当に悪いと思っていた。
私はこれで全ての肩の荷が下り、スッキリとして前を向いて歩いて行ける安堵感に包ま
れていた。
家に帰り、ひかるくんに平井さんのことを話すと
「それは良かったね。でもそれより、俺の歌の方はどうだった?」と
前のめりに尋ねてきて
「え?あ、良かったよ。」と言うと
「それだけ?それだけかよ、」と
少しすねたように横を向いた。私は慌てて
「お腹の子が蹴って、ノリノリで喜んでたよ。」とフォローすると
「あはは〜あーやっぱりね、わかるんだね、パパの凄さが。」とすぐさま
近寄ってきてお腹を擦った。
「単純なところがまたいいところなんだよね。」と小さな声で言うと
「何か言った?」と顔を上げた。
『こんな瞬間を迎えられるなんて思ってもみなかった。もう一度誰かを好きになる
なんて…そして自分の夢をまた追いかけることができるようになるなんて…』
私は夕陽を眺めながらひかるくんと手を繋いで砂浜を散歩していた。
「ねえ、風が気持ちいいね。この海の匂いずっと嗅ぎたかったの。あー次はどんな
ストーリーを描こうかな…」
私は風に巻き上げられる髪を必死に手で押さえながら、ひかるくんの顔を覗き込んだ。
ひかるくんは少し考えた後で
「橘さんならどんなことだって上手に描けるよ。たとえどんなことがあったとしても
最後にはみんなを幸せにできる最高のハッピーエンドのストーリーを描くことができる
と思うよ。」とゆっくりとした口調で言って、こっちを見て微笑んだ。
「あ、ねえ何かお腹空かない?」
「えー?それがこんないいこと言ってる時に言うセリフかよ〜」
ひかるくんは呆れ顔で言った。
「だってお腹空いちゃったんだもん。」
「まったく…」
「だって、こんなこと言えるのだってひかるくんだから、なんだよ。」
私はそう言って彼の手を引っ張り、顔を覗き込むと
彼はしょうがないなぁといった風で
「わかったよ。」と笑った。
前の夫との子供りょうくんは、県外の大学へ進学し一人暮らしを始めた。私とひかる
くんは結局、海の近くに住居を構えた。以前から私が大好きだった土地。山もあって、
海もある。歴史が空気として感じられる街。
大きな窓からは外の景色がよく見えて、部屋の中央には暖炉がある。本棚もあって、
ふいに書きたいと思った時にもすぐ書けるようにと机も用意した。
執筆中でも気が向いたらすぐに空を眺められるようにとひかるくんが提案してくれた
ものだった。
庭先で子供と遊んでいるひかるくんをのんびり見ていると、遠くでバイクの音が聞こえ
て、懐かしさに思わず
「ねえ久しぶりにバイクに乗りたいな。乗せてくれない?」と言うと
「そうだなぁ… しばらく乗ってないし久しぶりに乗ってみるか…うん、いいよ。今度
用意しとく。」と子供みたいな顔で言った。
数日後、子供を知人に預け、私たちは夫婦水入らずで久しぶりのデートに出掛けた。
私はヘルメットを被るとバイクの後ろにまたがり、彼の腰に手をまわすと、ふと二人が
出逢った頃のことが蘇ってきて、束の間、思い出に浸っていた。
最初はあんなに明るく染めていた髪も今ではすっかり落ち着いて、お父さんになって
いるなんてまさか思いもよらなかった。私はクスッと笑いながらまわしていた手に
ぎゅっと力を込めると
「ん?気をつけるから大丈夫だよ。」とひかるくんは優しく言った。
もしもあの時、彼と出逢っていなければ今の私は存在していないだろう。縁は不思議な
ものだな。いったい誰が引き合わせてくれたんだろうとぼんやり考えていた。




