~最後の望み~
赤く染まった月が意味ありげにまん丸く浮かんでいた。これから起こることも含めて
全てが運命づけられた自分の生きた証であると俺に覚悟を決めさせているようだった。
突き付けられた現実を甘んじて受けよう。今度生まれ変わったら善人として生きよう。
そう誓った。
あの男となら彼女は幸せになれそうだ。きっと彼女を生き生きと輝かせてくれるに違い
ない。あの男になら彼女を任せてもいい…俺は彼女が、橘 涼子 という人間が、この先
ずっと死ぬまで幸せでいることを心から願っていた。
俺はカーテンを閉めるとベッドに腰を掛け、そして用意してあった便箋を取り出すと
涼子さんへの最後の手紙を書き始めた。
橘 涼子様
僕は初めて君に出逢った時、月並みですが一目惚れをしてしまいました。それまでの
僕はプライドだけは人一倍高く、他人に馬鹿にされないよう生きる、つまらない日々
を送っていました。でも君と巡り逢って、不器用でもまっ直ぐに生きる君の、その
生き様に触れ、正直戸惑いながらもだんだん惹かれ、変わっていく自分がいました。
僕は臆病でずる賢い男だけれど人生の最後にやっと他人の役に立つことができます。
君の人生が幸せであることを祈ります。君の人生はこれからが本番です。ありがとう。 達矢
俺はペンを置くと深く息を吸って、カレンダーに目をやった。
『明日、睡眠薬を買いに行こう。』
そう決めると部屋の灯りを消した。
偶然でもいい、どこかでバッタリ、彼女にもう一度、一目だけでも逢えないかな…
俺は睡眠薬を買った帰りに漠然とそう考えていた。
『ああそれにしても外はこんなにも清々しく、行き交う人が皆、愛おしく思える。』
不思議だな、俺はフッと笑った。
名残を惜しむかのようにゆっくりと街中を歩き、社会から隔離された俺の終の住処に
一歩足を踏み入れると、薬の匂いが俺を途端に現実へと引き戻した。
ロビーにごった返す人混みの中を迷いもせずに自分の部屋へと向かった。エレベーター
に乗り、部屋のある階のボタンを押そうとしたが『やはりテラスに寄ってから行こう』
と思い直し、ドアを閉めた。
『ここは唯一、気分転換ができる場所だな…』俺は光を浴びながら通路を歩いた。
『空はこんなにも美しいのに…』俺は隣のビルの屋上に目をやった。初めは置物か何かと
思ったが目を凝らすとどうも白い鳩のようにも見えしばらくの間、目をそらさずにそれを
観察していた。余りにも微動だにしないのでやっぱり生き物では無いと判断しその場から
離れようとすると、それは音もなくサーっと羽ばたいて、すぐさま空に消えていった。
「なんだ、やっぱり本物だったんだ…」
その空間がとても神聖なものに見え、何か物語の世界の中にでも紛れ込んでしまったか
のような錯覚にとらわれた。
清々しい風を受けながら歩き始めると足元に何かが落ちた。よく見てみると綺麗な緑色
の葉っぱで、俺は何気なしにそれを拾い上げまた前へと進んだ。
緩やかなカーブの先の入り口からテラスに出ると揺れる洗濯物の向こうに人の影が見え
隠れし、俺は先客の邪魔にならないように静かに奥へと進んでいくと、視界が広がった
先に、車椅子に乗った人の後ろ姿が現れた。
俺はゆっくりとその人に近づいて、いよいよその人の背後まで来ると恐る恐るその人の
顔を確かめ、そして息を飲んだ。
『…涼子さん…』
俺は心の中で呟いた。
手が震えてそして涙が溢れそうになり、思わず手に提げていた睡眠薬の入った袋を
落としてしまうと
彼女は音に気づいて首を動かし
「誰かいるんですか?」
と尋ねた。
俺は何も言葉を発することができず、ただ彼女の顔を見ていると
「誰ですか?」
ともう一度彼女は慎重に尋ねた。
しばらく沈黙が続くと彼女は突然
「たつやさん…?」
と小さな声で言った。
俺は声を押し殺してたたずんでいると
「たつやさんじゃないですか?」
と彼女は大きな声を出した。
俺は耐え切れなくなって、とうとう
「涼子さん、俺だよっ達矢だよ!」
と言った。
彼女は見る見るうちに顔を紅潮させ、肩を震わせると
「たつやさんっ…」
と泣いた。
俺は崩れ落ちるように跪くと彼女の手を握り
「ごめんね…逢いたかったよ。」
と言った。
彼女は声をあげて泣き出すと
「たつやさん…私、見えないの…見えなくなっちゃった…」
と途切れ途切れに言った。
俺は彼女を抱き寄せると
「心配しないで、もうすぐ見えるようになるから…きっと神様が助けてくれるよ。」
と言うと、彼女はしゃくり上げるようにひとしきり泣いた後で
「たつやさん、ひとりで大丈夫?大丈夫なの?…」
と聞いた。
「何で俺なんだよっ…俺は大丈夫だよ…俺は、俺はもう怖いものなんて何もないんだ
から…」
と言った。
「涼子さんこれ、さっき拾ったんだ。綺麗な緑色の葉っぱ、こんなもんだけどお守り
だよ。」
と言って、通路で拾った葉っぱを彼女の手に握らせた。
すると彼女は感触を確かめるようにそれに触れると頬に当てて
「うん、お守りにする。」
と頷いた。
『これでもう、何も思い残すことはない。』
俺は彼女を病室まで送り届けると
「じゃあ…またね…」
と言って後を向いた。
「たつやさんっ、」
彼女は切迫したように俺の名前を叫んだが、俺は
「すぐにまた、逢えるから…」
と言ってその場から立ち去った。
「可愛い犬ですね。ホントにぬいぐるみみたいで可愛いですね。」
「今日、私の誕生日なんです。」
「この方がもっと良く見えるよ、花火。」
「誕生日のプレゼント。お守りだから。」
「いい匂いだよね、これ。涼子さんみたい。」
「私ね、星を見るのが好きなの。前も言ったでしょ、流星群を見に行ったことが
あるって。」
「誕生日には君が欲しい。」
「俺は彼女を守るわけだけだったんだ…」
「僕たちはまたひとつになる為にあの時きっと離れたんだね。」
「待ってて、いい子にしててよ。」
俺はフッと笑った。
睡眠薬をあおった後、朦朧としていく意識の中で俺は彼女に初めて逢った時から今まで
のことを思い出していた。
「待ってるよ、待ってるから…ありがとう…ごめんね…」
「橘さん、ドナーが見つかりましたっ、見つかったんですよ。」
日付が変わる頃、突然現れた看護師の声で私は目が覚めた。




