~デジャブ~
風で揺れる白いレースのカーテンの向こうに、新緑が眩しかった。
妻が子供を産んだ。正真正銘俺の子供。こんなにも景色が美しく見えるのは初めての
ことだった。今まではなんてことはなかった空や草花が生き生きとして見え、全ての
人や物事にやたら感謝したくなる衝動に駆られていた。
妻は無事に出産し、子供も五体満足で、これ以上ない幸福感に浸っていた。こんな俺
にも神様はちゃんと味方してくれて、“思ったよりも人生は案外うまくいくものだ”と
浮かれていた。
俺には金がある、美しい妻もいる、そして自分の血を受け継ぐ子供もいる。望むものは
もう全て手に入れた、“まさしく人生の勝ち組”なんだと行き合う人全員に叫んで回りたい
くらいだった。
ところが子供が生まれて間もなくすると妻の容体がおかしくなった。
一か月検診に同行すると、“以前の検査では写っていなかった嫌な影が見える”ということ
で、紹介状をもらい別の大きな病院で精密検査を受けることになった。
「きっとまた大丈夫だよ、」
俺は彼女に一応そう声を掛けると
「そんな気休め言わないでよっ」
と横を向いた。
後日、紹介された病院に行き、ソファーに腰を掛け、担当医師に呼ばれるまでの長い間
俺は判決を受ける犯罪者のような気持ちでそこにいた。
「中にお入りください。」
と看護師に促され診察室に入ると医師は神妙な面持ちで俺を迎え入れた。
そして“10センチの穴を3カ所開ける手術”を行わなければならないことを俺に告げた。
妻は肺がんだった。長い間の喫煙と飲酒が祟ったもので、若い分進行が早く、命の保証
は出来ないと俺の目をしっかり見つめて説明した。
俺は目の前が真っ暗になった。
「で、何て言ったの?先生。何の病気?」
妻はぶっきらぼうに尋ねた。
「何てって…」
俺が口ごもっていると
「ハッキリ言ってよ。どうせ私死ぬんでしょ、そうなんでしょ」
と詰め寄った。俺は何も言うことができなかった。
「アンタのせいだからね。アンタと結婚したからこんなことになったの。私の人生返し
てよー。」
そう言い放つとその場から立ち去った。俺には返す言葉がなかった。
この日は奇しくも結婚記念日で、彼女の為に彼女の好きな赤色の車を用意していた。
俺の子供を産んでくれたことの感謝も込めて、値の張る外車を選んでいた。自宅の庭に
その車を用意させ、リボンをかけて置いておいた。あれから一言も発しない彼女に
「プレゼントしたいものがあるから。」と言って見に行かせると
「こんなもの欲しいなんて誰も頼んでない、嫌味なの⁈」と
彼女は吐き捨てるように言うとそそくさと家の中に入って行った。
「どうすればいいんだ…」
俺は頭を抱えた。
術後、見る見るうちに妻は痩せていった。それまでの容貌は嘘のように衰え、まるで
別人のようになっていった。彼女の連れ子である上の息子は次第に母親の側に寄らなく
なり、俺の後ろに隠れるようになっていった。生まれたばかりの子供の世話も育児休暇
を取って俺がほとんど見ることになり、俺の生活も一変した。
最初のうちはそれも充実感で満たされていたが徐々に義務感に変わり、やがて倦怠感に
変わっていった。
『俺は何の為にこの女に尽くしたのだろう?何の為にこの女を選んだのだろう…』
その疑問で頭がいっぱいになっていった。
そして俺はいつしか妻のことを恨むようになっていた。
『こんなにしてやってるのに…俺の人生の未来をメチャクチャにしやがって、お前に
出会わなかったら俺は…今頃…』
来る日も来る日も代わり映えのしない、何の光も見えない日々を送っていた。
だが妻は一時的に回復し、外泊の許可をもらえるまでになった。
妻と子供を乗せ久しぶりに別荘へ出かけようということになり、俺はもとより家族も皆
楽しそうだった。
久しぶりに見る外の景色に妻の表情も明るくなり、穏やかな時間が過ごせることに
期待感が膨らんでいた。すると上の子が急に
「ワンワンワンワン」と
犬の鳴き真似をし始め、最初は笑っていたが余りにもしつこく繰り返すので
「もうやめなさい。」と
注意すると
「パパ、犬」と
指差した。
白い犬が前方に急に飛び出してくるのが見え、咄嗟にハンドルを切った……。
俺に残っていたのはドーンという音とぶつかった衝撃、そして……涼子さんとの想い出。
俺はこの事故で妻と子供を失った。
そして記憶までも…
完全に何もかも、全てを失っていた。
救急車のサイレンの音で目が覚めた。
隣で寝ていたひかるくんが、私が起き上がったことに気が付き
「どうした?…」と
声を掛けた。
私は焦燥感でいっぱいになり、ひかるくんに抱きつくと
「どうしたんだよ…何か悪い夢でも見たの?」と
ひかるくんは私の背中をさすると抱きしめた。
不安で怖くなり必死で彼にしがみついていた。
「ひとつ聞いてもいい?このネックレスいつもしてるんだね、お気に入りなの?それとも
誰かのプレゼント?」
ひかるくんは私がいつも身に付けているペンダントについて初めて触れた。
「……。ひかるくんにもらったお守りもあるよ…」
私はそれを見せようと身体を起こそうとすると
「それもお守りなの?」と
ペンダントを見てすかさず言った。そして
「橘さんを守るのはこの俺だよ。忘れないで。」と
言うと再び抱き寄せた。
私は少し不安だった。以前もそう感じたように、あの人の身に何か良くないことが
起きたような、そんな気がしていたから。
達矢さんが私を呼んだような気がしたから…
気が付いた時には、全てが終わっていた。
妻と子の葬儀も執り行われ、事故のことも思い出せないまま俺はただ一人ベッドの上で
天井を見つめていた。
俺はなぜここにいるのだろう…
警察の人は言った。「よほどのショックだったのでしょう。何も覚えてないなんて…
奥さんもお子さんも安らかに旅立ちましたよ。」
何のことだかさっぱり分からなかった。
どうして俺は生きているのだろう…




