~あの人~
どうして気づかなかったのだろう。初めて平井さんを見た時、何故か不思議と印象に
残ったのはきっとあの人の面影がそこにあったから…平井さんの向こうにあの人を見て
いたから。だから心のどこかで惹かれていたのに違いないと思っていた。
天まで届きそうな大きな木が葉をワサワサと揺らして不気味に歌っていた。
夕方になると太陽は雲の下でうっすらと影を潜め、まるで仮面を被るように秘め事を
隠しているかのようにも見えた。
平井さんのところを訪ねてから一ヵ月余りが過ぎようとしていた。私は予約の日に
“急用ができた”という理由で美容室に行かなかった。平井さんの中に“あの人”を見出して
しまった以上もうそのままではいられないから。顔を見た途端にまた取り乱してしまい
そうで、平然としていられる自信がなかった。
私はその日、家にじっとして居たくなくて、ちょうど開催中だったバラ祭りに出掛けて
みることにした。綺麗な花でも見ればリフレッシュ出来るだろうと思った。
庭園に足を踏み入れると、柔らかでうっとりするような甘い香りがそこここに広がって
いた。中にいるだけで非現実的な世界へと迷い込んでしまったような感じがして、陶酔
していた。しばらくその感覚に浸った後、名残を惜しみながら表へ出た。外の光が眩し
くて一瞬クラッとして目を閉じた。
「何か落ちましたよ。」
そう声がしてゆっくり目を開け、振り返ると、そこにはピンクのウサギが立っていた。
そのウサギの着ぐるみはしきりに愛想を振りまいて私に近づいてきた。私は怖くなって
慌ててその場を離れ、会場の外へ出るとちょうどそこへひかるくんからの着信があり、
藁をもすがる思いで電話に出た。
「あ、橘さん?今大丈夫?」
「、うん…」
「今日少し時間ある?渡したいものがあるんだ。…橘さん?」
「… あ、大丈夫。今日お休みなの。」
「そうなんだ。じゃあ仕事が終わったらそっちへ行ってもいい?それともどこかで…」
「私がそっちに行く、私がそっちに行くから待ってて」
「そう、わかった。じゃあその時に。」
約束の時間に待ち合わせの場所へ行くと、彼は先に来ていた。すぐさま駆け寄ると
彼は車から降りてニコッと笑った。私は何も言わず彼に抱きついた。
「どうしたの?どうしたんだよ?アハッおかしいな。橘さん、ん?」
彼は私の顔を覗き込もうとしたが私はぎゅっとしがみついたままで顔を隠していた。
「んー、よしよし。」
彼は私の頭を撫でながらゆっくりと話し始めた。
「橘さん、俺また音楽始めたから。実は前、バンドで歌ってたんだぁ…橘さんに声を
褒められてまた頑張ってみようと思って、曲書き始めたんだよ。まだ1曲しかできて
ないけど俺の作った歌聞いて欲しい。」
と背中を擦った。
私はその話を聞き終えゆっくり顔を上げると、彼は静かに微笑んだ。
食事を済ませた後、近くにあった公園を手を繋いで歩いた。私から手を繋ぐとひかる
くんはクスッと笑い、握り返してきた。何を話すでもなくただゆっくりと歩いていると
ひかるくんはブランコを見つけ
「あれに乗ろう!」と手を引いて私を座らせた。
最初は脇に立ってチェーンを静かに揺らしてくれていたが、そのうちに我慢しきれなく
なったのか、私の後ろに立って足をブランコにかけると自分も一緒に漕ぎ始めた。
怖がる私を面白がりながらだんだんスピード上げ、やがて気が済むとスピードを抑えて
ブランコから降り、私の前に立った。
私は彼の目の前にポンッと降りるとそのまま、無警戒な彼にキスをした。初めてのキス
だった。
ひかるくんは始め驚いた様子だったが私を抱きしめると徐々にその力は強くなり、気が
つけばお互い理性を失っていた。
私は自分の声に気がついてふと目を開けた。ひかるくんは伸ばし始めたヒゲを私の首に
当てながら私を抱きしめていた。私はまた目を閉じて彼の温もりを感じていると突然
脳裏に昼間見たウサギの着ぐるみが頭に浮かび上がって、思わず彼から身体を離した。
ひかるくんは戸惑った表情をして私を見た。
「…ごめんなさいっ」
「っどうしたの…」
ひかるくんは呼吸を整えながら探るように言った。
「……。」
「…俺が怖い?」
「そんな…怖くなんかないっ」
「じゃぁ、どうして?」
「……」
私は何て説明していいのか分からなかった。明確な理由など本当はなくて、ただ自分の
中にまだあの人の存在が残っているかもしれないという単なる不安が咄嗟にそうさせて
しまったに過ぎなかった。
私は目を伏せてもじもじしていると彼は私の手を引っ張り、ブランコの側に植わって
いた木のところまで連れて行くと身動きが取れなくなる程にキスをした。
そして息を押し殺して
「橘さんを苦しめているものは何?」
と私の顔をまじまじと見てそう尋ねた。
私は彼の怖いくらい真剣な眼差しを見ているうちに、やっと覚悟を決めた。
達矢さんとの出逢いの中で起こった全ての事、最近また彼の存在がチラついて不安に
駆られていること、今日起きた出来事まで話をした。
「私また自分の気持ちが揺らいでしまいそうで、それが怖くて…」
と漏らすと
「それは俺が止めるから。絶対に俺が止めるから、大丈夫だよ。」
と力強く言った。
胸がスーッとした。言いたくても言えなかったことがやっと口に出せた安堵感に包まれ
ていた。
彼の胸の中でいつの間にか、うとうととしていた自分に気がついてパッと目を開けると
彼が穏やかに笑っていた。
「今帰るからね。」
俺はそういった後、しばらく放心状態でいた。久しぶりに聞いた涼子さんの声。
今すぐにでも彼女のところへ帰りたかった。俺は結局、彼女にすがるしかなかった…。
妻は子供を産む覚悟をした。自分の命と引き換えにしてでも「この子を産んでみせる」
と言い張った。俺は何も言えずにいた。こんな一大事にでさえ妻に任せることしか
できなくて、妻を選ぶことも子供を選ぶことも俺にはできなかった。




