~まこと~
「最近よくタバコの吸い殻が散乱してるんですよ、まったく誰ですかねえ…」
職場に着くなり、タバコの匂いのするゴミ箱を指して後輩が言った。
「タバコ…」
この前の出来事を思い出していた。
「うん…ちょっとなんか怖いね。」
すると後輩は怒ったように
「迷惑なんですよ…」と口をとんがらせた。
春の嵐のような日だった。
「じゃあ帰るのでお願いします。」
そう言って後輩が出て行った後、手を振って見送り、鍵を閉めると、この前の夜のこと
が再び頭をよぎり『大丈夫、大丈夫。』と自分に暗示をかけて席に戻った。強風の為か
来客は少なかったが、書類の整理や引き出しの片付け、備品の補充など結構やることは
あり、普段できないような雑務をこなすのにちょうど良いとのんびり構えていた。
夕方になってますます風が強くなり客足がまばらになった。外が暗くなるにつれて少し
ずつ心細くなり『今日は何も起こらなければいいな。』と思っていた。
営業時間も残りあと30分になり、そろそろ締めの作業を始めようと引き出しに手をかけ
た時、静かな部屋に電話が鳴り響いた。出てみると上司からの連絡に、ホッと胸を撫で
下ろし、受話器を置いてまた引き続き作業を開始した。
その後も少し緊張しながらの作業だったが結局、心配していたようなことは起こらず、
無事勤務を終えて退室した。いつも通り二重ロックをかけて行こうとした時、突然
「あのー」と背後から声を掛けられた。
「キャー」と叫び身をすくめると両肩を掴まれ、もっと大きな声を出した。目を瞑って
思わずその場にしゃがみこむと
「しー、俺だよ俺っ」と肩を叩かれた。顔を覆っていた手を掴まれ
「俺、よく見て俺だよ、ほら俺だって、」
冷静になると、聞き覚えのあるその声にゆっくりと目を開けた。すると半笑いしている
ひかるくんが目の前にいて、その表情を見た途端、怒りがこみ上げてきた。
「もうだからヤだって言ったでしょ、サプライズは!」
怒った後に何だか涙がこみ上げてきて思わず顔を背けた。
ひかるくんは「ごめんごめん驚かそうと思って、ごめん。」と肩を掴んで
「泣いてるの?あは、ごめん。ホントにごめん。」と顔を覗き込んだ。
その後コーヒーを飲みながら訳を話すと
「なんだそんなことがあったんだ…話してくれればよかったのに。」とひかるくんは
心配そうな声で言った。少し考えて腕組みをした後
「この前のこともあるから何かあったらすぐ連絡した方がいいよ。我慢しないで。」と
付け加えた。
「うん…あれ?ねえ、ひかるくん髪の毛染めたの? 黒く。」
「うん、そう。」
「それに髪型も変わってる」
「うん。」
どうだとばかりに私を見据えて立っていた。そしてよく見てみるとどことなく似て
いた。たまに現れるあの不思議な子、あの子は髭を生やしていたっけ…
「よく似合ってる。今までのもいいけどこっちもいいね。私ホントは黒髪の人の方が
好きなの。男らしいってゆうか、アジアの男の人はやっぱり黒髪の方が似合うと思うし
かっこいい。」と言うと
「えっ本当?そうなんだ黒髪の方が…ふーん」と感心したように頷いていた。そして
「じゃあまた、今日は顔を見に来ただけだから。あっ気をつけて、おかしなことが
あったら連絡して。」と真剣な顔をして言った。
花吹雪が舞い始め、この時季にしては暑過ぎるくらいの天気が続いた。それでも
『今日は爽やかで気持ちがいいなあ。』と朝の風を受けて気分を良くしていると
「こんにちは。」とあの子が現れた。笑顔で挨拶を返すとさすがにもう慣れた様子で
「あの橘さん、絵に興味はないですか?」と唐突に尋ねてきた。
「絵?」
「そう絵。」
「絵は描けないけど見るのは好き。私が描いた絵を見たらきっと吹き出しちゃうよ。」
と言うと笑みを見せながら
「実は…俺が描いた絵が展示されるんですよ。」と目を覗き込むようにして言った。
「すごーい。展示会?どこで?」と身を乗り出して聞くと
「えーっと、ここからだと1時間くらいかかっちゃうかな、新しくできたところなんです
よ。図書館と一緒になってる…」
「え?そこ知ってる、行ったことがあるの。」と言うと顔がパッと明るくなり
「本当ですか?」と目を輝かせた。
「ねえよかったら名前を教えてくれない?そうじゃないとあなたの絵がわからないし…」
と言うと少し考えてから決心したように
「まことです。」と真面目な顔で言った。
「平井 詢…まことはごんべんにしゅん、旬のしゅん。」
言われた通りに指でなぞって
「へえ、素敵な名前ですね。」としみじみ言うと照れ臭そうに少し笑った。
「橘さん見に行ってくれますか?いや、見に行ってくれたら嬉しいな。」と
少し緊張気味に言い
「うん、行けると思うよ。私あそこは好きなところだから。」と答えると、ホッとした
ような顔を見せ、ゆっくり数回頷くと
「じゃあ、また。また来ます。」とサッと姿を消した。
『不思議な子、絵かあ…』
その日の夜、ひかるくんに展示会のことを話すと“行く”という返事をもらい、早速、
日にちを決めた。好きなものが一緒っていいな、と嬉しく思った。
約束の日、ひかるくんは何とバイクで現れた。
「ちょっと…」と驚いている私に
「前から乗りたいって言ってたでしょ。」と“どうだ!”とばかりにアクセルを吹かした。
「良かったあスカートじゃなくて…」
渡されたヘルメットを被り、バイクにまたがると
「ちゃんと掴まってて。」と言ってバイクを出した。その衝撃でガクンとなり、慌てて
腰を掴むと、私の手を引っ張って身体に巻き付けさせた。
近くてドキっとした、そしてすぐにホッとした。男の人の背中が好き。すごく安心でき
る。目を閉じてぎゅっと掴まっていると、いろいろ考えていたことが風と一緒に後ろへ
吹き飛ばされて行った。
『良かった。少しずつ夢が叶えられていく…』心地いい風に顔を上げた。
二人とも高めなテンションを抑えて会場に入り、展示会を催しているフロアを探しだし
た。無事に見つけ、「ここだ…」と口を開くとなんとなく少し緊張した。いつもそう。
展示会って独特のオーラを放っているから足を踏み入れるまでは少し勇気がいる。
顔を見合わせ小声で「せーの、」で中へ入ると、そこには非現実的な世界が広がって
いた。絵そのものは現実なのだけれどもやはりそれは写真とは違うし、何より人の想い
や見たものが頭の中に一旦入ってから思い描かれるというワンクッションがあるから、
やっぱり非現実的な感じがする。
時にはため息をつきながら、時には微笑ましく思いながら端から順に見ていくと、
突然、目の前に見たことのある顔が現れた。『見覚えのある顔だなぁ』とぼんやり考え
ていると「橘さん!」とひかるくんが声を掛けた。
「しっ、」と人差し指を口に持っていくとひかるくんは自分の人差し指を私に向けた。
「え?」なんのことか訳が分からずそのまま顔を見ていると今度はその指を目の前の絵
の方に向けた。その指を辿ってもう一度目の前の絵を見ると、“私がいる”ということに
気づいた。どこかで見たことのあるこの顔は、私自身であるということに気づいたの
だった。額の下に貼ってあるキャプションに目を移すと【風】と記してあり、作者名は
平井 詢 とあった。
私はそこにいるもうひとりの自分を目の前にしてしばらくは動くことができなかった。
風。
確かに風が、吹いていた。




