~Story~
花が咲いた。
北風に耐え、時には凍てつく土の下にあっても生きる力を失わずにやっと今、花が開
いた。
しばらくは折に触れ母のことを思い出しては涙する時もあったが、それも忙しい毎日の
お陰で何とか乗り越えることができた。
気を抜くことができない仕事ではあったが、顔見知りもだんだん増え、大変ながらも
充実した毎日を送り、徐々に新しい仕事にも慣れた頃私はある一人の青年と出逢ってい
た。初めて逢った時は“感じのいい人だな”というくらいのごくごく普通の印象しか持って
いなかったが、接する機会が増える度に少しずつ気持ちが変化していった。
アクセルを吹かす突然の大きな音にびっくりして顔を上げると彼がゆっくりと目の前を
通り、再び現れた。
「あ、こんにちは。今日は暖かいですね。」
そう声を掛けると
「そうですね、でもバイクって結構寒いんですよ、風を切るから。今日はこんな普通の
靴で来ちゃったけど。」と履いてきた靴を指差して笑った。
初めて彼を見た時の印象はいわゆる“イマドキのコ”といった風貌に“軽いコ”を想像して
いたが、いざ話をしてみると言葉遣いは丁寧できちんと敬語も使えるし、何より気遣い
ができる人柄に思わず嬉しくなったものだった。
「俺ちょっと今髪の毛伸ばしてるんですよ。ちょっとサラリーマン風にしてみようかな
っと思って…」と照れ臭そうに頭を掻いた。
「えっ、サラリーマン風?どうして?」と私が尋ねると
「俺、外見がチャラいから少しはまともに見えるかなと思って…」と遠慮がちに言った。
彼は髪の毛を少し、いやだいぶ明るめに染めていて、第一印象が確かにちょっと誤解さ
れがちな風貌ではあったがそれは話をしてみればすぐに彼の中身の方が光出し、まっ直
ぐで頭のいい子であることは容易に理解できた。そのことを知っていた私は
「そのままでいいんじゃない、真面目なんだから。大丈夫その髪型すごくよく似合って
ると思うよ。」と言うと
「いやーそうですか?ありがとうございます。」と耳障りの良い声でお礼を言った。
その後も少し世間話をした後、彼はまた派手にアクセルを吹かし帰って行った。
この頃はまさかこんなごくごく平凡でどこにでも転がっているような偶然の出逢いが、
自分の人生に大きな変化をもたらす“きっかけ”になるとは夢にも思わなかったのだった。
私は主人との別居を始めていた。主人がちょうど仕事を探している時にふと思い出して
掛けた友人への電話がきっかけで、それまでの大変だった職探しが嘘のようにとんとん
拍子に仕事が決まり、自宅から通うには少し遠いと言う理由から、会社の用意してくれ
るアパートを借りられることになった。もう私も主人も遠の昔に“別々の道を歩む”という
人生の選択を描いていた為、何の躊躇もなく別々に暮らすことになった。うまくいく時
はこんなにも簡単に道が開かれるものなんだなぁと実感する出来事だった。
子供ももう十分に父親の“癖”のようなものを理解できるようになっていて、特段寂し
がるとか、涙を流すようなこともなかった。友人は“別れようとしている人に優しくする
なんておかしい、すぐにでも離婚しちゃえばいい。”と言ったがこれもどうも性分なのか
困ったもので“仕事や生活に慣れてからでいい。”と来たるべき時が来たら確実に離婚しよ
うと決めていた。
この数日、冬に逆戻りのような日が続いていたが、今日はまさに“お花見日和”といった
日差しの柔らかな、思わず心が軽くなるような日だった。
仕事が休みの今日、いつもより遅く起きて、昼食だか朝食だかわからない食事を済ませ
洗濯物を干し終え、コーヒーを飲みながら窓の外を見ていると、遠くで聞こえる遮断機
の警報の音と、ガタンガタンという電車の通り過ぎる音に『どこかに出掛けてみよう』
と思い立った。
慌ててシャワーを浴びて、洗った髪にドライヤーを当てながら『今度のこのヘアースタ
イル今までで1番好きかも、色も形も。今度サロンに行ったらあの美容師さんにそう言っ
てあげよう。喜ぶかも…』とニンマリしていた。
身支度を終え、いざどこに行こうかと考えていた時ふと、ここからそう遠くない隣接
する市に美術館を併設する図書館がオープンしたことを思い出して、そこに行ってみる
ことにした。
その街には子育ての神様が祀ってあることで有名な寺があり、子供の頃よく父に連れ
られては寺の“住人”であるたくさんの鳩に餌やりをして遊んでいた思い出もあって、
久しぶりに通る街並みに感慨を深くしていた。
いろいろな意味で心をワクワクさせて図書館に着くと、新進気鋭の建設家がデザイン
した建物に感心し魅了され、案内に従って興味のあるフロアに足を運んだ。ちょうど
催されていた展示会に立ち寄り作品を鑑賞してから、活字中毒の私は本の匂いに若干
興奮気味に、二時間余り我を忘れてどっぷり独特な世界に浸っていた。
『また来よう』と心に決め、図書館を出て駐車場まで歩き始めたが、駐車場の手前に
コンビニがあるのを発見するとコーヒーを買ってひと息入れることにした。ふと見上げ
た空に飛行機雲がツーっと白く尾を引いていて、私はまるで子供のように人の目も気に
せず見入っていた。『やっぱり空を見上げちゃうんだよなぁ…なんだろうこの癖。』
私は相変わらずの自分に少し呆れながら飲み終えたカップを捨てると車に乗り込んだ。
若干後ろ髪を引かれながらも表通りに出て少し走ると、行きに通った“子育ての神様の
いる寺”にふと、寄ってみたいという気持ちに駆られた。いつもならあまり衝動的に
予想外の行動に出ることのない私だったが、今度ばかりはもう“行きたい!”と思った次
にはもう、ハンドルを切っていた。
狭い参道を通り、必死に幼い頃の記憶を手繰り寄せながら懐かしんでいるうちに無事、
寺まで辿り着いた。頭の中で目を閉じると、幼い頃に従妹と無邪気に奪い合ってまで鳩
に餌をあげていたあの頃の光景が思い浮かんできた。
遠い昔の記憶が鮮明に色をつけて甦ってきた頃、子供たちのはしゃぐ声に、また今の
自分に引き戻され、境内をゆっくり歩き始めた。若干の様変わりはあったものの、変わ
らない寺独特の雰囲気は私を落ち着かせ、また興奮させた。
売店で餌を買い、あの頃に戻って、遠慮がちに餌を地面にばら蒔いた。どこで見ていた
のか数羽の鳩がひょこひょことやって来ると、次には瞬く間に恐いくらいの数の鳩が
続けざまにやって来た。思わず「キャー」などと小さな声で叫ぶと、
「あれ?もしかして橘さん?…」と声を掛けられた。いたずらが見つかった子供のように
恐る恐る振り返ると、その明るい髪色に見覚えがある男の人が立っていた。
「どうしたんですか?こんなところで…」
「ひかるくんこそどうしたの?こんなところで…」
「いやツーリングの途中で、俺ここ好きなんですよ。急に寄りたくなっちゃって…」
「そうなの、実は私も同じ。新しくできた図書館に寄った帰りに、急に寄りたくなっち
ゃって…」
春の陽だまりに花が優しく揺れていた。




