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「ねえもうほんとにどうしちゃったの?」と看護師の後ろで様子を見ていた女の人がこれ
以上は我慢できないという感じで口を挟んだ。
「本木さん、この方本当にご存じないんですか?…」と今度は真面目な顔をして確かめる
ように看護師が尋ねた。
「本木さんあなたは事故に遭われたんですよ、それでこの病院に運ばれて来たんです。
その事は分かりますか?…」
「……」
夜、車を運転していて、スピードを出した時に光が見えて…そこまでは覚えていたが、
その後の事は覚えていなかった。いくら思い出そうとしても、何も、その他には何も
思い出せなかった。
少しの沈黙の後、看護師は「事故に遭われてその時のショックで少し疲れているのかも
知れませんね。もう少し落ち着いてからまたお話ししましょう。」と話を切り替え、
「あのちょっとよろしいですか?」と俺の知人だと思われるその女の人に声を掛け、その
人を病室の外へと促した。
その様子をただ見守るしかなく、後味が悪いまま俺は天井に視線を移した。
『あの女の人は本当に俺の恋人なのか?もしも仮に大切な人だったとしたらそんな簡単に
忘れてしまうだろうか?顔にも声にも覚えがないし…俺は本当にどうしちゃったんだ…』
窓の外に目をやると、さっきまで白かった雲が赤紫に色を変えようとしていた。
ドアをノックする音がして、そろそろとドアが開き、俺の知人と思しき女の人が顔を出
した。その人はゆっくりとドアを閉めるとこっちに向き直って、慎重に俺に近づき
「あなたは覚えてないかも知れないけど、私はあなたの恋人で、もう少しで同棲すると
いう仲だったの。だから怪しい者じゃないから安心して。疲れていると思うから今日は
帰るけどまた今度は子供連れてくるから…」
そう言って俺の手を取った。俺は反射的に手を引っ込めると女の人は驚いた顔をして、
自分を宥めるように少し頷いて「じゃ…」と言って病室から出て行った。
俺は、今触れられた手をまじまじと見て、ため息を吐いた。
『子供?俺には子供がいるのか?』訳が分からず天を仰いだ。
翌朝になると医者が様子を見に来て、昨日何か変わった事はなかったかと尋ねた。
「いえ、別に。」と答えると
「そうですか…本木さんはもう安静にしていなければならないということではないので
体調が良い時に院内を少し歩かれても構いませんよ、気分転換にもなりますしね。」と
言った。
「気分転換…」
医者は優しく笑い掛けると「じゃあ、もし何かあったら遠慮なく言って下さいね。」 と
言って病室を後にした。
『そうだな、何か思い出すかも知れないし…』
俺は午後になると看護師を呼び“先生に言われたように少し歩いてみたい”と告げた。
ひとりで散策する許可をもらい、念の為車イスで院内を巡り始めると、そこには様々な
人がいて、廊下には院内アナウンスが響き、その中を長椅子で大人しく順番を待つ患者
や子供の泣き声があり、また深刻そうな顔で病室の前でためらっている人等々、実に
様々な光景に出くわした。
ふと喉の渇きを覚え、売店の前まで来ると缶コーヒーを開ける音がして思わず振り返っ
た。中年の男性が缶コーヒーを手に、ちょうど今から飲もうとしていたところで、俺は
一瞬その光景に目が釘付けになった。
『缶コーヒーか…』俺はつられるように無性にそれが飲みたくなって思わず
「あっすみません缶コーヒーください。」と店員に言った。
その缶を椅子の端に置き、廊下の先に待合室を見つけると子供のようにすぐさま窓際に
行って、缶のフタを開けた。
「うわー甘いなぁ…」
コーヒーをひとくち飲むと、俺にはどうも甘過ぎて、その缶をまじまじと見ながら
『やっぱブラックの方がいいよな…』と思った。
それでも待合室の小さな窓から見える空は綺麗で、しばらくはその綺麗な水色の空に
心を奪われていた。そうこうしているうちに女の人の賑やかな声が聞こえてきて中年
女性が二人入ってきた。
『そろそろ病室に戻ろうか、』
俺はその二人に追い立てられるように待合室を静かに後にした。
二日後、例のあの女性がやってきた。この前帰り間際に言っていた通り今度は子供も
一緒に連れてきた。その子は男の子で、病室に入ってきた当初こそ母親の後ろに隠れて
はいたが、そのうちに「おじさんどうしたの?」と恥ずかしそうな顔をしながら近寄って
きた。『おじさん⁈…』どうやら俺の子供ではないらしく、俺は何だか少し安心した。
「おじさんケガしたの?それでおじさん、ママの誕生日に来なかったの?」と
今度はもじもじしながらもハッキリとした口調で言った。
「ママの誕生日…」俺が口ごもっているのを見て女性は
「あっおじさんはね、ちょっと具合が悪いから今はごちゃごちゃ言っちゃダメだよ。」
と子供をたしなめた。
男の子はバツが悪そうに今度は向きを変えると、天井についている空調の吹き出し口に
手をかざして遊び始めた。
「ねぇ何か少しは思い出した?例えば私の名前とか…よく一緒に行ったところとか、何か
ひとつぐらいは思い出した?」と俺の顔色を伺うように少し遠慮がちに尋ねた。
俺は戸惑って「いや…特に何も。」と答えると
「そう…なんだ。でもあたしたちほんとに付き合ってたんだからね、ほんとだよ。」と
焦ったように言った。
奇妙な沈黙が流れると、やがてひとり遊びに飽きた男の子が
「ねーママー、もう帰ろうよー」とぼそっと言った。
ちょうどのタイミングで、結果助け舟のような形になったその男の子の一言で女性は
決心したらしく「じゃぁ…また来るね、」と言って子供を促し帰って行った。
自分に記憶がない以上、どう受け止めたらいいのか、あの女性の言っていることを
鵜呑みにするわけにもいかず、でも多分知人なのではないかと思うし、きっと親しいの
だろうな…と思わざるを得なかった。
夜、消灯前に看護師がやってきて「本木さんがここに運ばれて来た時に持っていた物
などを預かっているんですよ。」と言ってビニール袋を差し出した。
目の前にそれをかざして見ると中には携帯電話・財布・免許証などが入っていた。
「あっ携帯…」と思わず声を上げると看護師は
「緊急でしたので一番最後の通話履歴に残っていた方に連絡させていただいたんです
よ。それで、あの何度か見えている女性の方がいらしたんですよね…」と
遮るようにして言った。
「最後の通話履歴…」俺がそのことについて考えを巡らそうとすると看護師は
「じゃ、確かにお返しましたからね。おやすみなさい。」と言って病室を出て行った。
『最後の通話…それがあの女の人なのか?…』
俺は袋から携帯電話を取り出すと早速電源を入れ、通話履歴を確かめてみた。すると
最後の履歴に【ナミ】という名前があった。
『あの女の人、ナミっていう名前なのか…』
そのまま画面をスクロールしてみると確かにそのナミっていう人との通話が多く、親し
かったに違いないということは分かった。
『でも、本当に恋人なのか?…』
俺はそれでも釈然としないまま“他に何か思い出す手立てとなるものはないか”と電話帳の
ところを開いてみた。上から順に追っていくと何人か女の人の名前が入っていて、
『俺はこの人たちとも親しかったのだろうか』と考えながらもまたそのままスクロール
していった。【涼子さん】
『涼子さん…何でこの人だけ“さん付け”なんだろう?』と不思議に思いその文字を見つめ
ていた。
「涼子さん…いや、分からないな…」
何だか頭が疲れてしまい、最後の段までスクロールすると目を閉じた。
ふと、『俺はどんな音楽を聴いていたのだろうか?』と思い、再び携帯電話を手にすると
ダウンロードしていたと思われるプレイリストを開いてみた。
『⁈…涼子さん、』
ここにもまた涼子さんという名前が出てきて、思わずそこをタッチしてみるとジャズ
ナンバーが流れ出した。
「ジャズ…」
俺はぼんやりと少しの間、ただその流れてくる音楽に耳を傾けていた。
「可愛い犬ですね。」
俺がそう声を掛けると
「ええ、ホントにぬいぐるみみたいで、可愛いですね。」と
女の人は白い犬を撫でながら、顔を上げると、俺に微笑んだ。
いつの間にか眠っていた。俺は夢を見ていたのか…




