~愚行~
気がつくと踏切の警報音が鳴っていた。
「もう‥たくさんだ…いい加減にしてくれ、もうほっといてくれ…」
俺はそう口にしながら頭を抱えた。“このブレーキペダルを離せば楽になれる。”
“いっそそうした方が…”俺は迫りくる電車の音に急かされながらもぐずぐずと
決めきれずにいた。ピッという後続車のクラクションの音に目を開けてゆっくりと
前を見ると、電車は通り過ぎた後で遮断機すらなかった。
『死ぬことも許されないのか…』俺はブレーキペダルから足を離し、静かに踏切を
渡り切った。
『何が俺をこうしたのだろう…』俺は踏切を渡るとすぐに路肩に車を止め、後続車
を先に行かせた。どれくらいボーっとしていたのだろうか、俺は再び鳴った踏切の
警報の音と電車の通り過ぎる音でハッと目が覚め、仕方なく車を出した。
『これからどこに行けばいいのだろう…』俺には行き場などどこにもなかった。
母は時々【義母さん・は・元気?】と声にならない声で私に尋ねたが、病院のベッド
の上にいる年老いた母に本当のことを言えるはずもなく「うん元気だよ。」とだけ
伝えた。「でも…腰が痛くて動けないみたい…。」と言うと【かわいそう…】と涙
ぐんだ。人は自分が弱い状況にあるとその人のことがまるで自分のことのように
切なく感じるらしく、母は最近ちょっとしたことでも感傷的になっていた。
「でも元気だから大丈夫だよ。病院に行けなくてごめんなさいって言ってたよ。」
と慌てて付け加えると、【だ・い・じょ・う・ぶ】という口をした。
母の喉には人工呼吸器のチューブがつながっていた為、声を発することはできなか
った。チューブから時折漏れる微かな息が、今となっては母の“声”となっていた。
病室に入るとシューシューという人工呼吸器の作動している音がすぐ耳に入り、
この機械を装着した当初はどうもこの音が耳障りで仕方なかったのだが、今はこの
音こそが母の生きている証であった。
病院のスタッフは、呼び出しブザーを押すことでしか術がない母の伝達手段を、
最初は真摯に受け止めてくれていたが、やがてそれも回を重ねるごとに
「またか…」と疎ましく思うようになったのか呼んでもすぐには来ないことが増え
ていった。
人工呼吸器をつけている為にどうしてもチューブに溜まっていく唾液やその他諸々
の異物を取り除かなければならない“生命をつなぐ大切な作業”(細菌が繁殖してしま
うし、詰まって息ができなくなるので)さえも、だんだん日を追う毎にその回数は
減っていった。
スタッフの中には、そんなただおとなしく待っている事しかできない立場の弱い母を
威勢付ける者もいて『なんて理不尽なのだろう…』と憤慨しつつも“ 人質”である患者
を預ける身の家族は、それさえも歯を食いしばって耐えているより他なかった。
まさに“歯がゆい”という言葉がぴったりと当てはまる状況だった。
「お母さん、じゃあそろそろ帰るね。道が混み始めるから…もう行くね、」
私は意を決してそう告げると、母は【ま・だ】と言って首を横に振った。
「でも、また来るからね…」そう言うと【わかっ・た】と言って私の目をじっと
見た。丸椅子を片付けて、洗濯ものが入った手提げ袋を持つと身支度をし、母に
手を振った。「バイバイ」「バイバイ」「バイバイ…」何度も何度も振り返り、
手を振り、後ろ髪を引かれつつもようやく病室を後にすると、戦場に戻る兵士の
ように気持ちを切り替えて階段を降りた。
『いつまで続くのだろう…いや、続いて欲しい。』
母にはとにかく生きていて欲しい。だが、先の見えないこのトンネルをいつまで
走り続ければいいのか…それも確かに漠然とした不安であった。
夕飯の支度をしていると子供が「ママー、赤いくつ っていうお話知ってる?」と
尋ねてきた。「赤い靴…ああアンデルセンの、女の子のね、知ってるよ。」
ー 母をなくして貧しく一人ぼっちの暮らしを強いられた女の子を助け、何不自由
ない暮らしを与えた養母であるおばあさんの看病もせずに、おばあさんがプレゼ
ントしてくれた赤い靴を履いてパーティーに出掛けダンスに興じていると赤い靴
が勝手に動き出し、何日も踊り続けなくてはならなくなり、やがてやっと自分
の家の前まで辿り着くとおばあさんの葬式に遭遇する。女の子は心から嘆き反省
し、神様に許しを請うとやっとその靴は動きを止め、おばあさんを天国に行かせ
ることができた。というお話し ー
「りょうくんも人に優しくしてあげなくちゃだめだよ。自分だけ幸せになんかなれ
ないんだからね。」と言うと「‥うん。」と神妙な顔をして頷いた。
寝る頃になるとどこからともなくまるで赤ん坊のように人恋しそうに、1匹の猫が
まだ春とは言い切れない寒空の下で必死に鳴いていた。
『どこか風除けになるようなところにでも身を隠していればいいのに…』
そんなことをぼんやりと考えていると、急ブレーキをかけるもの凄い音が辺りに響
き渡った。
“達矢さん…”私はふいに自分の中に湧いて出た言葉に戸惑いながら、そのまま耳を
澄ました。なぜか胸騒ぎがして、自分でも何がどうして達矢さんなのか、説明も
つかないまま、ただ動揺していた。そのうちに踏み切りの音がカンカンカン…と
響いてきて、電車が通り過ぎた。
“達矢さん…”私はもう一度、彼の名を心の中で叫んでいた。
俺はあいつが待っているところになど帰りたくはなかった。
「今日は私の誕生日だから早く帰ってきてよ!」と女に言われ、食事に出掛ける
約束をしていた日だった。
人の都合も考えない自分勝手な振る舞いに俺はもううんざりで、人を見下すような
愛想のない態度に限界を感じていた。
「まったく…」
俺はあいつの待っている家とは逆の方向に車を走らせていた。最近できたばかりの
新しい道を高速道路ばりに調子よく飛ばしていた。
市街地を抜けて曲がるとゆったりとしたカーブになっていて、それを走り抜けると
やがて上り坂になり、そしてまたカーブに…
それが何回か繰り返され、夜中に走るとまるでそのまま銀河鉄道さながら宇宙へと
飛び出していってしまうのではないかという錯覚に陥り、自分でも危ないなと思い
つつも、奇妙な快感を覚えていた。
俺は何とはなしにその道を走っていた。“このまま死んでしまってもいい…”
そう思っていたのかも知れない。
すると次の瞬間、暗闇に何か黒い物体が走り去るのが見えた。「⁈…」俺は咄嗟に
ブレーキを踏むと次の瞬間、同時に眩しい光が目の前に広がり、そして何も見えな
くなった。
俺は失くしてしまっていた、“全て”を。全ての…




