~歯車~
突然かかってきた電話は市外に住む私の両親の知人からで、私も幼い頃から
よく知っている近所のおばさんからだった。
「涼子ちゃん、今お父さんから電話があってお母さんが倒れて救急車で運ばれた
って。お父さんはちょっと今、気が動転しちゃってるから涼子ちゃんに知らせた
方がいいと思って、」と言った。
駐車場の冷たく強い風に煽られながら、私は呆然となった。
『こんなことしていられない。帰らなくちゃ…』
私は必死に自分を落ち着かせながら一旦店に入り、清算を済ませ、店を後にした。
急いでエンジンをかけ、姉や姪に電話をし、事の次第を話し、母が搬送された病院
に向かった。
『お母さん、ごめん。大丈夫だよね⁈どうか間に合いますように…』
私は頭が真っ白になるのをどうにか抑えながら、夢中で車を走らせた。
小一時間ほどして、搬送された病院に駆けつけると、受付で母がICUに入っている
ことを聞かされ、案内されたフロアに向かった。ナースセンターの前に差し掛かろ
うとした時、ちょうど父の姿が見え
「ご飯を喉に詰まらせちゃって、指で掻いて出そうと思ったんだけど目を白黒させ
始めたからこれは危ないと思って救急車を呼んだんだよ。」と説明した。
指示された部屋に入ると、母は人工呼吸器をしていて、顔は少し腫れていたが
血色が良く『ああ助かったんだ…』と心配ながらも一瞬、胸を撫で下ろした。
母は風邪を引くことすらめったにない、いわゆる健康体で、寝込んでいる姿など
見たことのない元気印だった為、病院のベッドに横たわっているなんて、ましてや
人工呼吸器をつけているなんて本当に場違いな、大きな違和感を感じた。
当初私たちは“ただ喉に物を詰まらせただけ”と軽い考えていた。詰まっていた物を
取り除けばそれで済むのだと思っていた。
救急車が早く来たこと応急処置が良かったことが幸いして、母は脳にダメージを
負わずに済んだ。であるにもかかわらず、1週間しても10日経っても肺の機能が
上がって来ず、医師は首をかしげた。
そうこうしているうちに母は一般病棟ヘ移され、私たち家族は“ICUから出られた”
というだけでまるで回復したかのような錯覚に陥り、若干気を緩めたようなところ
があった。がしかし病状は決して良くなっていたのではなく、不可解なものを抱え
ながら進行していたのだった。
更には人工呼吸器をつけて2週間が経過していた為、気管を切開しての人工呼吸器
使用に切り替える旨を病院側から説明された。70歳も過ぎた母の体を傷つけるのは
本当に心苦しかったが、それも命の為やむを得なく承諾せざるを得なかった。
母は当初、私たちに心配をかけまいとして時折面白い顔を見せたりして場を和ませ
ていたが、それも日を追うごとに変化を見せていった。
入院して2ヶ月になる頃、私たちは病院側から呼ばれ、病状についての説明を受ける
ことになった。説明によると、病院にいる限りは病名をつけなくてはならず、
肺に入った異物を取り除いたにもかかわらず一向に自発呼吸ができる様にならない
ことも鑑みて、消去法で当てはめていくと、母の病名は国から難病指定されている
【筋萎縮性側索硬化症】に当たるということだった。
酷いことには“ここはあくまで病院であって、治療法のない病気の患者を療養の為に
置いておくベッドはない”とハッキリ言われた。
※【筋萎縮性側索硬化症】…脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動神経細胞が
侵される病気
父は既に定年退職していた為、母を特別な施設へ入れる余裕などはなく『なんとか
このまま病院に置いてもらえないか』と切実に訴えたが、病院側は精神科の医師を
連れてきて、まるで父を“苦しみ悩むうつ病患者”扱いにして、押さえつけるように
説き伏せた。もちろん私も自分の母親の事だから、蓄えがあればそれを差し出す
ことなど容易にできるのだが、如何せん今の私の状況は人を助けることなどできる
筈もなく、私は自分が歯痒かった。
何をどう言っても『ここには置いておけない』の一点張りの病院側の姿勢に私たち
は屈するしかなく、病院側が紹介したソーシャルワーカーと次の受け入れ先を探す
以外、他はなかった。
ソーシャルワーカーは仕事柄、父や私たちの事情を汲んでくれ考慮した挙句、実家
から1時間半くらいかかる、私たちみたいな患者を抱える家族を受け入れてくれる
新たな病院を見つけてきてくれた。
少々遠くはなるが背に腹はかえられず、少しでも負担が軽くなるこの病院に、
私たち家族は母を預けることに決めた。
母は住み慣れた街から出るのを寂しがり、転院することに抵抗を示したが、父も私
もあの手この手で説得し、なんとか理解してもらった。
母が倒れてから今までの生活サイクルが一変してしまい、私は仕事・子育て・週に
2、3度の母上の見舞いがゆるぎないものとなっていた。何をするのにも自然と
優先順位が決められ、いつしか“遊び”なんて悠長な事は自然と頭から離れていった。
ましてやパチンコなど…。
あっという間に時は過ぎていったー
結局、涼子さんとは会えずじまいだった。
録画してある監視カメラの映像をチェックし、彼女が来ていたのだと分かってから
俺はゆかりとの縁を切った。
「お前とはもう会えない、お前はセフレだった。」と告げた。
それからの俺の毎日はガラッと変わってしまった。店に来る女に手当たり次第に
声を掛け店の金で女を囲っていた。飽きると捨てて、また拾って…その繰り返し。
俺が声を掛ける女は何故か不思議と皆、元キャバ嬢だとか元デリ嬢だとか、そんな
女ばかりだった。
中には俺も入れ込んだ女がいたが、その女は俺より見た目の良い男を見つけると
いとも簡単に乗り換え、去っていった。女なんてどいつもこいつも…
俺はもちろん黒田達とも一緒にその手の店にも顔を出し、女遊びを続けていた。
たまたまホテルに呼んだ女が店のスタッフだった、なんてサプライズもあったり
して。まぁ面白おかしく日々を過ごしていた。
涼子さんが店に来なくなってからもうどれくらい経つのだろう?…思い出せない
くらい遠い昔のことのように感じる…。
『今夜行ってみようか?…バカ、もうやめろよ。』
俺は女に酒を注いでもらいながら自分をたしなめていた。
「なぁ、俺の好きな女は全然逢ってくれないんだよ…こんなにも好きなのに…どう
思う?こんなにも優しくて、こんなにも一途な男は他にいないだろう…なあ、」
俺は横にいる女の肩を抱きながら酒をあおった。
「火事だー」
突然、寝静まった街に男の声が響いた。




