~予感~
「涼子ちゃんっ」
玄関の方で私を呼ぶ従姉の声が聞こえ、私はハッと我に返った。南さんは黙って
私に頷くとすぐに向き直って
「おはようございます。」
と従姉に挨拶をしながら先に事務所へ出て行った。私は咄嗟にフックに掛けて
あるタオルを持ち、手を拭きながら少し間をおいて給湯室から出て行った。
私はいかにも忙しそうに「おはようございます、」と挨拶をすると
「ああ、涼子ちゃんおはよう。涼子ちゃん今日お弁当持ってきた?」
と従姉は元気な声で私に尋ねた。
「ええ、まぁ持ってきましたけど‥」と答えると
「そっかじゃぁ明日一緒にお昼を食べに行こう。明日はお弁当持ってこないで。」
と笑顔で言った。するとそれを聞いていた南さんはすかさず
「あーいいなぁ、俺も一緒に行きたいなぁ…」
とおどけた様子で言うと
「あら、どうぞ。南さんも一緒に行く?」と返され
「冗談ですよ、たまには女同士で気晴らしでもしてきて下さい」と笑った。
「じゃぁ明日ね涼子ちゃん。それとごめんね今日、これからお歳暮の準備で
出掛けなくちゃならないから、あと頼むね。お願いします。」
と忙しそうに事務所を後にした。
「涼子ちゃん、」
「はい…」
南さんは突然口を開いた。
「映画どんなのが観たいの?」
「あの‥恋愛映画です。今流行ってて…それで友達もみんな観ていてあの、それで
すごく良かったって言ってるから…」
「そう、楽しみだね。」
「はい‥」
「あ、ちょっとごめん」
南さんはポケットから携帯電話を取り出すと画面を確認してから電話に出た。
私は南さんの横顔を見ながら『自分はもしかして引き返すことができなくなるの
ではないか』とふいに不安になった。
南さんは電話を終えるとすぐに営業の仕事へと出掛けて行った。私は気持ちを
切り替えると集中して仕事をするよう努め、何とか午前中を乗り切った。
お弁当の包み開け、のんびりと食べ始めると、ふと南さんの机の上に小さな
カレンダーがあるのに気がついた。
「来週の月曜…」箸を止めて二重丸がしてある日付を見るとその日は私たちが
約束している映画を見に行く日だった。私は思わず頬を緩めてしまうと咳払いを
してからまた箸を動かした。
外出していた南さんは結局、私が終業時刻を迎えるまでには戻って来なかった。
私は少し寂しさを抱えながら帰り支度を済ませると、いつもカバンに忍ばせて
あるチョコレートを南さんの机の上に2つ置いた。私はひとりで納得したように
笑って頷くと、マフラーをしっかりと首に巻いて事務所を後にした。
車に乗り、少しの間エンジンを掛けて携帯電話をチェックしていると、ふいに
窓ガラスを叩く音がして、思わず顔を上げると南さんが立っていた。窓を開けると
「ほら、あったまるからこれ飲みながら帰るといいよ。」
と白い息を吐きながら缶のココアを差し出した。私がそれを受け取ると
「じゃあ‥お疲れ」
と笑顔を見せ、すぐに中へと入って行った。私は両手を温めて、穏やかな気持ちで
いると、突然、着信が入った。
『達矢さん…』
ドキっとして、そっと電話に出ると
「涼子さん仕事終わった?今いい?」
と私を気遣う優しい彼の声がした。
「うん大丈夫。どうしたの?」
「別にたいしたことないけど、俺、来週の月曜日、忘年会なんだ。涼子さんの
ところも忘年会あるの?」
「うん、あるよ。私のところは来週の金曜日。」
「そう…あ、水曜日やっと逢えるね、楽しみにしてるよ。」
「ええ、私も…」
「じゃあ水曜日にね。」
「‥うん、じゃあ。」
私は膝の上に置いたままだったココアの缶をカバンの底の方にしまった。
家に着くと駐車場の近くにある自販機のくずカゴに、もうすっかり冷たくなった
ココアの缶を捨てた。
『飲めるわけなんかない‥』そう思った。
私は週末、子供を実家に連れて行った。父は自分の子供も含めて初めての男の子
である私の子供を大変可愛がり、男の子が喜びそうなところへ連れて行き、母は
母で日々の買い物などで貯めた小銭を子供にプレゼントするのが楽しみで、孫に
会うのを楽しみにしてくれていた。
他人を一切恨んだりしない、ギャンブルなどはもってのほか、遊びなどは一切し
ない真面目なこの両親に育てられ、「どれだけ純粋培養なの⁈」と友達に呆れ
られるほど、真っ直ぐな道を歩いてきた私の人生だった。
私は日頃の子供への罪滅ぼしと、親孝行を無事成し遂げると、禊を終えたような
気持ちで我が家に戻った。
『明日は何を着て行こうかな…スカートにしようかな?』
クローゼットの扉を開けて、南さんと映画を観に行く為の洋服を選び始めた。
私は洋服を決めるとタンスの引き出しを開け、お気に入りの下着を取り出すと
明日の為に用意した。
私はいつもより早めにお風呂に入ると、髪を念入りにトリートメントし、
湯上がりの身体にボディークリームをたっぷりと塗りたくった。
湯気で真っ白になった鏡を手で拭くと、母でもなく、妻でもないひとりの女として
自分がそこに映っていた。
「今日は従姉と帰りに食事するから、ちょっと遅くなるよ。」
私はまだ、ベッドから起きてこない主人に向かってそう伝えると、急いで
家を出た。
子供を保育園に送った帰り、車の中でイヤリングをつけ、足元に香水を振った。
毎週月曜日は従姉がテニスのレッスンを受けに行く日で、事務所にひとりになる
今日は、気兼ねなくいつもとは違う格好ができた。
会社に着くと南さんは出掛けていて、私はコートをハンガーにかけると暖房入れて
机に荷物を置いた。
「あれ?」
机の上には飴が2つ置かれてあって、付箋に【どうぞ】と書かれてあった。
私は思わず声をあげて笑うと、飴をポケットにしまった。
南さんはお昼過ぎに一旦帰ってくると、またすぐに出掛けて行った。12月に入る
とやはり忙しいらしく、何より今日は早くあがる為に奮闘としていたらしかった。
私も集中して仕事をこなし、夕方には一段落ついた。
「早く帰ってこないかな……」
私は時計を見ながら南さんの帰りを待った。退社の時刻が近づき、やきもきして
いると、南さんから連絡が入った。
「あと30分位で終わるから、先に行ってて。」
私たちは外で落ち合うことにして、待ち合わせ場所を決めた。
私は化粧を直し、少しだけ香水をつけると会社を後にした。私たちは映画館の
近くにあるスーパーの駐車場で待ち合わせをしていた。私は少し周りを気に
しながら車を停めるとエンジンをつけたまま大人しくしていた。
10分くらいして南さんが着き、南さんはクラクションで合図をすると私は車を降り
て南さんの車に近づいた。南さんは手を上げ、私の顔を見るとエンジンを止め、
ドアを開けて
「待った?」と言ってゆっくりと外に出てきた。
「じゃあ行こうか…」
南さんは私の手を取ると振り向いて笑って、そして歩き出した。
映画を見ている間中、私たちは手を握りあっていた。
笑ったり、泣いたり、主人公と一緒になって心を動かしている間でさえも、
私たちは繋いだ手を決して離さなかった。
「さて、どこに行こうか…」
南さんは映画館を出ると握った手をポケットに入れて呟いた。
「抱いてください…」
私は南さんの手を握り返してそう言った。




