~憎悪~
突然のことに彼女は少し抵抗したが、俺は力を入れて離さなかった。
あいつの目の前で、しっかり、俺と彼女の仲を見せつけてやらなければ…
『報復だよ。』
俺はあいつの視線を感じながら必死に彼女を押さえつけていた。そしてあいつの
姿が見えなくなるのを待ってからやっと腕の力を抜いた。
「離して‥」
彼女は涙を浮かべながら顔を真っ赤にして俺の頬を叩いた。
潤んだ目で俺をにらんで、涙に声を詰まらせながら「どうしてこんな…」と
呟き外へ出て行った。
「あいつが悪いんだよ、あいつが、あの男が現れたからこうなったんだよ…」
俺はハンドルを力いっぱい揺すりながら心の奥に隠れている感情と葛藤していた。
彼女は外に飛び出して行くとすぐさま自分の車に乗り込んだ。そしてエンジンを
かけると急発進させ、暗い夜道に消えて行った。
俺はすぐにその後を追ったが、彼女は俺を振り切るようにもうスピードを出して
走る為、俺はさすがにこのままでは危険と判断し追いかけるのをやめにした。
その後、いくら彼女に電話をしても彼女は決して応えようとはしなかった。
俺はますますあいつへの憎悪を募らせて、その日はとうとう一睡もすることが
できなかった。
「覚えてろよ…」
一向に眠くなる気配がないまま天井を見上げてそうつぶやいた。
「こんな思いをするのもあいつのせいだ。」
翌朝、膨れ上がった頭と重たい身体を引きずりながらやっと起き上がった。
『許さないからな…』
まだ空気の冷たい洗面所に立って歯を磨きながら、何度も何度も心の中でそう
つぶやいていた。
だが不思議なことに俺は妙に冷静だった。いつものようにコンビニに寄り、
パンとコーヒーを買って職場に向かった。途中何度か赤信号に引っかかったが
いつもなら『ついてないなぁ、今日はあまりいい日じゃないな。』などと
落ち込むところを『まっ、こんな日もあるさ。』と横を向いて受け流すことが
できた。
しばらくして古い住宅がひしめき合う狭い裏道を走っていると、道の端のほうに
何か黒い塊があるのに気づき、よく見てみると、それは猫の死骸だとわかった。
俺は「フン」と鼻で笑い、「自業自得なんだよ。」とつぶやき、流行の歌を
口ずさみながら横を通り過ぎた。
「さて今日も仕事、仕事、」
俺は次々に頭を下げ挨拶をしてくるスタッフに手を上げ、店長室へと向かった。
「はあ、寒いなぁ。」
湿った空気に白く浮かぶ自分の呼気に冬を感じながら、暖房を入れ、カバンを
机の上に置いた。
コンビニの袋からサンドイッチを取り出すとコーヒーで流し込みながら、
携帯電話を手にした。黒い画面を眺めながらフイルムの感触を確かめていた。
「電話してもどうせ出ないだろうな…」
俺は電源を入れ電話の連絡先をつらつらとスクロールし始め、見るともなく
上から順番に目で追っていた。《みほ》突然そんな名前のところで指が止まった。
「みほ、か…」
俺は最後にあった時の、あの、人を小馬鹿にしたようなあの女の顔を思い浮かべ
ていた。
「フン、」俺は失笑するとすぐさま電源をオフにした。
夕方になると一旦店を抜け出し、彼女の会社に向かった。ちゃんと仕事をして
いるか確かめる為に…
車をしばらく走らせ彼女の会社に近づくとコーヒーを買う為にコンビニに寄った。
ラージサイズのを買って店を出ると、子ども連れの夫婦に出くわした。
俺が通るのに邪魔だと思った母親の方が子供に向かって「ほら、通してあげて」と
優しい口調で言った。
『わざとらしい、偽善者が。』
俺は無視して何も言わずにそのまま通り過ぎ車に乗った。エンジンをかけ、
コーヒーをひとくち口にするとおもむろにタバコに火をつけた。
『やっぱりタバコはやめられないよな…』
吸っては吐き、吐いては吸って、窓の外ヘポイっと投げ捨てた。その時ちょうど
先程の子どもを連れた夫婦が出てきて、その様子を目撃した。子供が「あー」と
声を出し俺の方を指差した。
「うるせえな。」
声に出してそう言うと俺はすぐさま車を出した。
彼女の会社に着く頃にはもう辺りは暗くなっており、待つにはちょうど都合が
良かった。俺は定位置に車を停めるといつも通り病院の駐車場から彼女のいる
事務所を眺め始めた。
『いたいた…』
すっかり暗くなった外の景色に、はっきりと浮かび上がる室内は、隠しようがない
くらい丸見えだった。
『今日は1人か…』
彼女の横にあの男の姿は見えず、何も知らない彼女は黙々と仕事をしていた。
俺はコーヒーを飲みながら彼女の様子を見つめていた。
資料に目を通しパソコンに打ち込む姿、時々眠たそうにあくびをし飲み物を
口にしてまた仕事を続ける顔、電話に笑みを見せながら応対する彼女の顔などを
ずっと観察していた。
愛おしくて、寂しくて、胸が苦しかった。
そんな想いを抱えながらじっと見続けていると、ふいに会社の前に男が現れた。
『南だ。』
俺は直感でそう感じ、後ろ姿を目で追った。案の定、男は事務所に入って行き
明るい室内に照らし出されたのはやはり南だった。
俺はコーヒーカップを握りしめ、一挙手一投足を見守った。やつは室内に入ると
彼女に何か声を掛けて、笑いながら椅子に座り、机の上に置いたカバンから
何かを取り出し彼女に差し出した。彼女は一瞬驚いて、やつの顔を見ると
その包みに目をやり、ゆっくりと開け始めた。
「何だよ?」
俺は目を凝らしてよく見ていると、取り出したのはマグカップのようだった。
彼女は“かわいい”という口をしてそれを眺め、南の方に笑顔を見せた。すると
やつはもう一つ包みを取り出して、机の上にそれを置くと中からカップを
取り出してみせた。
『お揃いのカップ⁈…』
彼女はそのカップを手にすると両方を交互に眺めて嬉しそうに笑った。
俺はその光景を見るとふいに涙が溢れてきた。そして同時に何かが俺の中で
プツンと弾けるのを感じた。
『彼女はあいつのことを好きなんじゃないか?お揃いのマグカップなんかを
もらってうれしそうに笑っておかしいじゃないか…この前のブレスレットだって
もしかしたらあいつのプレゼントなんじゃないか?』
俺は次から次ヘと押し寄せてくる疑念に押しつぶされそうになった。
やがて彼女はそのカップを両手に持つと席を立ちどこかへ向かった。
しばらくするとお盆を手に戻ってきて、やつにカップを差し出し、自分の
机の上にもカップを置いた。二人はカップを持ち上げ、合わせると笑いながら
カップを口に運んだ。
“あーおいしい”
彼女の口を読んだ時俺は、自分の中で何かが壊れるのを感じた。
「あああああー」
俺は叫びながらクラクションを鳴らし続け、エンジンをかけると急発進させた。
彼女とあの男の笑い合った姿を思い出しながら狂ったように車を走らせ、必死で
その場から逃げ出した。
「俺の女に、俺の女に…」
俺はその後どうやって帰ったのかは定かではないが、気がつけば店の前に立って
いた。目の前には妖しく光るあの看板が…あの晩行ったあの店。
そう、あの商売女のいる店の前に、俺は立っていた…。




