~母性~
「遅くなってすみません、」
保育園の門をくぐり、早足で子供を迎えに行った。
「りょうくんママが来たよー。」
担当の保育士さんが、教室の中で遊んでいる子供を呼びに行った。
子供は私の顔を見つけると照れたように笑いながら飛び出してきて
靴を履き始めた。
「りょうくん良かったね〜。はい、あ、く、しゅ。」
保育士さんは両手で子供と握手をして私の元へと送り出した。
「お世話様でしたぁ。さあ帰ろう、」
私は子供と手を繋いで保育園を後にした。
『この子の為に私は強くなるんだ。』
小さな手を握りしめながら、私は心の中でぽつりと呟いた。
家に帰ると主人は、電気もつけない部屋の中でパソコンに夢中になっていた。
「ただいまー。」
子供がリビングに駆けて行くと主人は
「イホーオカエリー、サムイネ。」
と言ってふざけ始めた。
お酒さえ飲まなければ、その辺の日本人よりもずっと道徳心があって
優しくていい人なのに、お酒が入ると別人のようになってしまう。
私はそのギャップにずっと悩まされてきた。
「今日カレーでいい?」
「カレー?…」
いい返事をしない主人を無視して、黙々と夕飯の準備に取り掛かった。
私は料理をしながらぼんやりと考えていた。
“自分は何の為に生きているのか、誰の為に存在しているのか?”
明確な答えなんて出せる筈も無いのに、それを分かっていながらも
自分に向かって問いかけていた。
「ママーこれ食べていい?」
お菓子を手にしながら子供が走ってきた。
「いいけど手を洗ってからだよ。」
「はーい。」
よくこんないい子が生まれてきてくれたなと感謝した。
夕飯を食べていると主人に電話が入った。
耳を澄ましていると話の様子がどうも芳しくない。「何?」と尋ねると
「アシタシゴトナイ」
と言って、そそくさと携帯電話をしまい食事を続けた。
私はため息をつくと何も言わず黙々と食べ進め『早くお風呂に入って寝よう』と
気持ちを切り替えた。
一通り家事を済ませ、皆んなが寝静まった頃、私はようやくお風呂に入った。
髪をほどき裸になると、湯気に煙った脱衣所の鏡に自分を映してみた。
お風呂場の橙色の灯りが私を妙に色っぽく映し出して『私も女なんだ。』と
再認識させてくれた。
新しく入れた入浴剤をつま先でかき混ぜながら、漂ってきた香りに癒され
ドプンと湯船に滑り込んだ。白濁したお湯を手の平でゆっくり胸元にかけると
イヤなことなんてもうどうでもいいやと、一瞬どこかに追いやれたような気が
してホッとした。
目をつむると今日一日の出来事が思い出されて
「君がいるって思うだけで心が強くなれるんだ。」と言われたこと、南さんの
胸で泣きじゃくったこと、「愛人になります。」と告げた自分の声、そして
「今日はゆっくり休むといいよ。」と言ってくれた時の南さんの優しい声や顔が
ふっと頭をよぎった。
お風呂から上がると珍しくお酒が飲みたくなって、以前、香りに惹かれて
買った桂花酒を炭酸で割って、乾いた喉を潤した。
『さて、明日は美味しいものを食べるぞ。』
濡れた髪を乾かし、程なく襲ってきた眠気に押されてベッドへ向かった。
目覚ましに起こされて仕方なくカーテンを開けると久しぶりの雨模様だった。
傘や靴に防水スプレーをして玄関に用意しておくと、出掛ける頃にはもう殆んど
止んで、子供と一緒に上着のフードを被って出掛けた。
あちらこちらで朝の挨拶が聞こえる中を、私たちも元気良く入って行った。
「じゃあね、」と子供に声を掛けて行こうとすると「ママー、目」と呼び止め
られた。私は意味がわからずキョトンとしていると「お顔こっち、」と言って
神妙な顔をした。
『ああそういうことか…いつも“お話しする時は目を見て”と言っているから』
思わず笑みがこぼれると子供もニコッと笑い返した。
日々は同じことの繰り返し、でもそこにこそ幸せがあるんだな。とふいに思った。
『そうだ、今日は外に美味しいものを食べに行くんだっけ‥でも何食べに行く
のかな?楽しみ。』
私はふと昨日のことを思い出し、足取りも軽く車に乗り込んだ。
「あれ?」
駐車場に入って行くと遠くに南さんの姿が見えた。
「よーし驚かせちゃお。」
私は静かに車を停めると素早く車から降りて、南さんに気付かれないように
後を追った。
「南さん‼︎」
私は大きな声を出して背中から呼び止めた。
「おおーびっくりした。おはよう。今日はお弁当持って来なかったよねー」
「もちろん。楽しみにして来ましたよ〜」
「あはは、何か食べたいものある?」
「‥うーん、でも何でもいいかな美味しいものなら‥じゃあ南さんは?」
「俺?あるよ」
「何ですか?」
「それはね、君‥」
「え?」
南さんは私の顔を指差してそして声を出さずに笑うとくるっと向きを変えて
足早に事務所に入って行った。
「今、きみって言った?」
私は首をかしげながら後に続いた。
「涼子ちゃんごめん、ちょっと美味しいコーヒーが飲みたいなあ」
南さんは珍しく自分から催促をした。
今日事務所で仕事しているのは南さんと私だけで、二人ともいつもよりは少し
気持ちが楽になっていた。
「はい、どうぞ。」
南さんの机にそっとコーヒーを置くと
「あーありがとう。コーヒーの匂いってほんといいよね、ヤル気が出て来るよ。」
と嬉しそうにカップを口に運んだ。美味しそうに飲んでいる横顔を見ながら私は
何だか安らぎを感じ、母親になったような気持ちで見守っていた。
「ん⁈」
そんな私の視線を察知したかのように南さんはふいに無防備な顔で私を見た。
それが余りにもあどけない表情だったので、思わず笑ってしまうと
「大人をからかうんじゃないよ。」と
恥ずかしそうに言うとまた仕事を始めた。
そうこうしているうちにお昼になり、南さんの一言で仕事を切り上げると
私たちはいよいよ食事に出掛けた。
何も聞かされず連れて行かれた先は懐石レストランで、駐車場から入り口までの
奥行きが広く、木々に囲まれていてしっとりとした趣きのところだった。
「素敵なお店ですね…」
私は辺りを見回しながら呟いた。
「いいだろ‥さあ中に入ろう。」
南さんは私を促した。
扉を開いて店に一歩踏み入れると完全に大人の雰囲気で、少し緊張しながら
中へと進んで行った。
「こちらへどうぞ。」と案内された先は、一段上がったところにある奥の個室で
より一層、緊張感が高まった。
店の人が下がって二人きりになると私は沈黙を恐れてすぐに話し掛けた。
「ここ本当に素敵なお店ですね、雰囲気が良くて落ち着けていいですね。」
「うん、そうだね。こういうの好き?」
「好きです。」
南さんは黙って頷いた。すると程なく料理が運ばれてきて、目の前は色彩豊かな
日本の世界になった。
「さあ食べよう。とその前に乾杯、」
「えっ、でもまだ仕事が‥」
「いいんだよ、一杯くらい。午後も頑張るぞ。」
「‥はい」
私は少し戸惑いながらも用意された冷酒を口にした。




