~覚悟~
「愛人?…」
私はその言葉に狼狽えて、なんて答えたらいいのか分からずそのままでいると
南さんは静かに車を移動させて落ち着けるところに車を停め、そして穏やかな
口調でこう続けた。
「僕は結婚しているけど妻とは上手くいってないんだ。愛情もないしただ一緒に
いるっていうだけ。最初は好きで一緒になったつもりだったけど、それは偽り
だったと悟ったんだよ。でも今更別れることはできない、子供がいるからね。
でもあの子は普通の子じゃないんだよ生まれつきの病気を抱えててね、いい子
なのに可哀想なんだ。あの子がいる限りは別れることができない、いや…
あの子の為に一緒にいるんだよ。」
話しを終えると遠くを見て、淋しそうな思いつめたような沈んだ表情を浮かべた。
私は何を言ったらいいのか、どうしたらいいのか分からずに戸惑っていると
もう一度私の方を見てこう言った。
「好きなんて図々しいかも知れないけど嘘じゃないんだ。
君に側にいて欲しい、君がいるって思うだけで心が強くなれるんだよ。
勝手だよな…でも本当なんだよ、どうしようもないんだ。」
「でも、私は‥」
「僕は君を援助したい。こんなに一生懸命働くってことはつまり、失礼だけど
旦那さん一人じゃ間に合わないからなんでしょ?…僕が援助するから、だから
僕と付き合って欲しい。」
私は何も言えずにうつむいた。
確かに主人の仕事が少なくなってしまい、私が働かなくては生活できなくなって
しまうという現実が存在していた。本当は達矢さんにそのことを打ち明けて
相談に乗ってもらいたいと思っていたのだが、やっぱり彼には迷惑をかけたく
ないし、何より、彼は優しくて真面目な性格だから相談すればきっと「助けたい」
と言ってくれるに違いない、だから余計に言えずにいたのだった。
彼には心配かけたくなかったから…
それでもまだ何も言えずにうつむいている私に向かって南さんは
「そんなに難しく考えなくてもいい。今まで通り君らしくいてくれればそれで
いいんだよ。それだけでいいんだから‥」と言って
私の顔を覗き込んだ。
『達矢さん、私どうすれば…』
やがて南さんは私の頭に優しく手を置くと
「すぐに答えを出さなくてもいいから‥君を困らせるのは嫌だからね。」
と言って髪を撫で
「さあ、もう行こう。帰って社長に報告しなくちゃね。」と言って車を出した。
『私はどうすれば…どうすればいい?達矢さん。』
その後、私は何も話せなくなってしまい、どうすればいいのかずっと考えていた。
自分一人ならどうでもいい、だけど‥りょうくんがいるから。りょうくんの為に
お金が必要なの。皆んなと同じように生活をして欲しいから、何の心配もかけず
あの子を楽しく過ごさせるには…
私は頭の中がいっぱいになってしまい、何も出来なくなってしまっていた。
「涼子ちゃん、ちょっと待ってて」
南さんはそう言うと車を出た。そして間も無く戻ってくると私に何かを差し出し
「ほら、飲んで。」と言った。
ゆっくり顔を上げると目の前にあったのはカフェオレの缶だった。私はそれを
見た途端なぜだか急に涙が溢れて止まらなくなってしまい、南さんを困らせた。
「どうしたの…」
彼は慌てて私の頭を自分の胸に引き寄せた。
私は声を上げてまるで子供のように泣きじゃくり、そしてひとしきり泣くと
覚悟を決めた。
涙を拭ってゆっくりと顔を上げると南さんの目をしっかりと見て
「私、あなたの愛人になります。」と告げた。
彼はゆっくり頷くと
「心配しないで、大切にするから。僕を信じて‥」と言い、
見つめ返すと額にキスをして優しく抱きしめた。
私は彼の背中に手をまわすと、そっと目を閉じた。
「ごめんなさい、ちょっと待っててください。お化粧直して来ますね、これじゃ
皆んなに心配されちゃうから…」
私は南さんにそう言うと、お願いして寄ってもらったスーパーの化粧室に入った。
手を洗うと恐る恐る、鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。すると自分が想像して
いたのとは違い、晴れやかな表情の自分がそこにいた。私は一瞬驚きながらも
化粧道具を取り出すと化粧を直し、口紅をきつく引いた。
「お待たせしましたー。」
私はシートベルトをしっかりと締め、前を見据えた。
「じゃあ行くよ、」
南さんは大きな声で明るく言うとゆっくりと車を出した。
『私は愛人になる。南さんの為に、ううん‥自分の為に愛人になるの。頑張る、
頑張って愛人になる。』
私はそう自分に言って聞かせた。
やがて会社の駐車場に着くと私はすぐさま南さんにこう告げた。
「南さん、さっきは泣いたりしてごめんなさい。私もう泣きませんから、私
笑うことにします。」
南さんは少し心配そうな顔を見せたが、すぐに穏やかな表情になると頷きながら
「大丈夫だよ、泣きたい時はいつだって泣いていいんだよ。」と
笑みを浮かべた。
「ただいま帰りました。」
私が元気良く事務所に入って行くと、社長は私の顔を見るなり
「どうだった?」と身を乗り出して尋ねた。
「ただいま戻りましたぁ。」
後からすぐに入ってきた南さんは早速、一部始終を報告し始めた。
「おお‥それは良かった。やっぱり涼子ちゃんを連れて行った甲斐があったな。」
社長は私たちを交互に見て嬉しそうに笑った。
「それはもう涼子ちゃんのおかげですよ〜」
南さんは私に視線を移すと笑って頷いた。
「今お茶を淹れて来ますね。」
私はバッグを机に置くとそそくさとその場を離れた。
お茶を用意していると二人の声が聞こえてきて、そのトーンや時折紛れてくる
笑い声にホッと胸を撫で下ろした。
『良かった‥喜んでもらえて。』
お盆を抱えて事務所に戻ってくると、待ってましたとばかりに声を上げて
社長が言った。
「二人にご褒美をあげるぞ。明日一緒に昼飯でも食べに行ってくるといいよ、
何か美味しいものでも食べて来なさい。」
「……」
「‥えーいいんですかあ、なあ涼子ちゃん明日美味しいもの食べに行こう。
社長のおごり!」
そう言うと南さんは私を見た。
この小さな空間が今日から色を変える。昨日まではただの仕事仲間だった
この人と、私はこれからいろいろなものを共有していくんだ。
私はふと手を止めて隣りにいる彼に意識を移した。
窓の外を、乾いた風が行ったり来たりしていた。
「あー…」
私は思いっきり伸びをした。
「疲れた?」
南さんは、すかさずそう私に声を掛けた。
「ごめんなさい、つい…」
「いろいろあったから疲れたろ、今日はゆっくり休むといいよ。」
南さんはそう言うと優しく微笑んだ。
「涼子ちゃん、明日美味しいもの食べに行くんだからね。」
少年のような表情で私の顔を覗き込むと、また穏やかな表情を浮かべてから
パソコンに目を向けた。
「はい、じゃあ帰りますね‥」
私は帰り支度を始めながら南さんの横顔を静かに見た。
『私はこの人と…』
つい意識しそうになった自分を抑えて
「南さん、お先に失礼します。」と挨拶すると事務所を出た。
ドアを開けると、妙に明るく光る月を目にして
『これから始まるんだ…』と心の中で呟いた。




