~金木犀~
「どうしたの?」と俺が口火を切ると
「帰らなくちゃ、」と彼女が言った。
「だからどうしたの?」と聞き直すと
表情を曇らせて「あの人のね、お義母さんが倒れて救急車で運ばれたって」
と焦った様子で言った。
「大丈夫?俺も一緒に行きたいけど…」
「大丈夫。ごめんね、帰るね。また電話するから」
彼女はそう言うと踵を返した。
俺は「待って、」と言って彼女の手を掴むと、用意していた物を取り出した。
「誕生日のプレゼント。お守りだから。」そう言って彼女に手渡した。
動揺している彼女の代わりに箱を開けてネックレスを取り出すと
首に掛けてあげた。彼女は首に掛かったネックレスを見て、泣きそうになり
俺の首に抱きついた。
俺は彼女の背中をグッと抱きしめ「いつも一緒にいるから。」と呟いた。
「さあ行って、」俺が背中を離すと彼女はキスをして去って行った。
『神様、助けてください。』
俺は遠ざかって行く彼女の後ろ姿にそう心の中で呟いた。
二日後の夕方、彼女から連絡が入った。
「本木さん?涼子です。一命は取り留めたんだけど、ちょっと大変なの。
しばらくはお店の方にも行けなくなるかも知れない…」と言った。
「付きっきりで看病するとかそういうことなの?」と聞くと
「ううん、付きっきりっていうわけじゃないんだけど、病気が病気だから…」
と言った。
「病気ってどんな感じなの?」と聞くと
「心臓がね、心室細動を起こして、血液がね上手く身体に送れないみたい。」
と答えた。
「そう…で、君は大丈夫なの?涼子さんだって大変でしょ、俺心配だよ。」
と言うと
「ありがとう。でも大丈夫、お守りがあるから。あなたに貰ったプレゼントが
あるから。」
そう言うと電話の向こうからシャラシャラと音がした。
「ああ。出来ることがあったら何でも言って、力になるから。」そう言うと
彼女は「うん、ありがとう。元気が出た。じゃ、また電話するから。
もう切るね、またね。」と言った。
俺は「わかった、気をつけてね。」と言うと電話を切って、ため息をついた。
「金木犀か…」アパートを出て駐車場まで歩く途中、懐かしい香りが鼻を掠めた。
辺りを見回すと近所の庭先にその香りの正体を見つけた。
濃い緑色の葉に、沢山の小さな小さな薄オレンジ色の花が咲いている。
これから彼女と紅葉を見に行ったり、温泉に行ったり、テーマパークに行ったり
いろいろと一緒に出掛けたいと思いを巡らせていた矢先、こんなことに
なってしまって少し落ち込んでいた。
涼子さんから電話があった日からもう今日で5日経っていた。
逢いたくて、声が聞きたくて、意を決して、こちらから電話してみることにした。
俺は昼食を摂りに外出すると、彼女に電話を掛けた。祈るような気持ちで
呼び出し音を聞いていると留守番電話サービスの音声が流れた。
「…もしもし本木です。声が聞きたくて、だから心配して、」そう言い掛けた時
「もしもし?もしもし?本木さん?涼子です。もしもし?…」彼女の声が聞こえた。
「本木さん?明日逢えそうなの。だいぶ回復して、娘さんも来てくれて。
だから私、明日お店の方に行くから…」
彼女の明るい声にホッとして
「本当?大丈夫なの?良かった。そうだね少し生き抜きした方がいいかも
知れないね。外に出た方がいいよ。じゃ明日待ってるから。」と言った。
目の前が急に明るくなって、ここ数日晴れなかった心が少し軽くなった
ような気がした。
『涼子さんに逢える。』そう思っただけで、久しぶりによく眠れた。
窓を開けると金木犀の香りが部屋の中に入ってきた。カーテンが風に揺れて
季節の移り変わりを運んで来た。
『今日は涼子さんに逢える。』そう心を躍らせながら出勤した。
今迄こんなことしたこともないのに、出がけに金木犀の枝を手折って
デスクの上に飾った。
『この俺がこんなことをするなんて…』自分で自分の行動が可笑しくなって
クスリと笑った。
「店長お願いします。」
そうドア越しに声を掛けられ、また仕事用の自分に戻った。
足取りも軽くホールに出ると開店と同時に続々と人が入って来た。
この流れの中に『今日は彼女も入るんだな』そうしみじみと思って見ていた。
10:30過ぎ頃彼女はやって来た。俺は嬉しくなり、彼女が席に着くのを見届けると
すかさずメールした。
《今日は何時まで居られるの?》
《16:00くらいまでかな》
《じゃあ、13:00くらいに切り上げてお昼を一緒に食べよう‼︎》
《OK!!!》
この広いホールの中で二人だけの秘密のやり取り。久しぶりに見る彼女の横顔が
嬉しかった。
13:00になり、遊技をやめると俺たちは店の外で落ち合った。スーパーの駐車場で
一台の車に乗り換えて、久しぶりに彼女と二人きりになった。彼女は助手席に
滑り込むと俺の方をジッと見つめた。俺も彼女の顔をしみじみと見て、頭の中に
あった彼女の顔と照らし合わせていた。
彼女は少し目を潤ませると「久しぶり。」と言った。俺は彼女の頬を撫でると
彼女は目を閉じ安心した表情を見せた。
「行こうか。」そう声を掛け、彼女の手を握った。彼女は俺の顔を見上げると
「うん。」と微笑んだ。
俺たちはずっと手を繋いだままでいた。カーブに差し掛かると「もう、危ない!」
と言って彼女は手を離そうとしたが、俺はすかさず握り締め、離さなかった。
昼間だったこともあり、店から40〜50分先の市外にあるレストランに向かった。
誰にも邪魔されることなく二人だけの時間を過ごしたかった…。
そうしてレストランに着くと楽しく食事をし、久しぶりに心から笑った。
束の間のデートを楽しんだ俺たちはとんぼ返りで、落ち合った駐車場に向かった。
食事を終え、車に乗ると彼女は「ほら見て。」と言って胸元からネックレスを
取り出した。
「あっ、」俺が彼女の誕生日にプレゼントした品物だった。
「よく似合ってるよ。」と言うと、彼女はネックレスを揺らし
「お守り。」と呟いた。
俺は彼女の額にキスをして「じゃあ行こうか…」と言った。
すると彼女は俺の手を取って、甲にキスをし「うん。」と言った。
彼女は指を絡ませて俺の指をギュッと握ると、もう片方の手で俺の手を包んだ。
そしてその手を自分の膝の上に乗せ、うつむいた。
俺は彼女の顔を上げると唇にキスをして車を出した。彼女は前を見たまま俺の手を
ギュッと握り締めていた。
来る時とは打って変わって、帰りは二人とも押し黙っていた。
ただ手の温もりだけがしっかりと伝わって会話していた。
いたずらに時が過ぎ、スーパーの駐車場まで着くと彼女は、ゆっくりと
絡ませていた指を外した。そして確かめるようにシートベルトを緩めると
目を伏せたまま「じゃあ行くね。」と言って外に出ようとした。
俺はすかさず彼女の手を掴んで、彼女の目をしっかり見て「また逢おうね。」
と言った。彼女は頷いた。
彼女は自分の車を見つけると足早に乗り込んだ。俺がピッと
クラクションを鳴らすと俺の方を見て手を振った。
『今度はいつ逢えるのだろう…』今離れたそばからもう、彼女に逢いたくなった。
彼女が駐車場から出るのを見届けると、俺は後から出発した。急に無気力になり
タバコを一本取り出すとおもむろに火をつけた。
ただ苦いだけで少しも美味しく感じなかった。




