夏の夜の社畜と春
全5話予定です。宜しければお付き合いください。
あと数日で夏至を迎えるとはいえ、すっかり日も落ちた午後8時。取引先との会議を終え、報告書の作成をすべく会社に戻る。今日も残業だ。タイムカードは会談に向かう前に切らされた。違法である。いつか労基に訴える・・・そう思い続けてはや10年。私も、今では立派な社畜となった。
あぁ、このままなんの楽しみもなく、年だけを重ねていくのだろうか・・・。エレベーターを降り、薄暗い廊下を進みながら考える。社会人になり数年のうちは、顔を合わせるたび「良い人はいないのか」と聞いてきた母も、最近は諦めたのだろう、不憫そうな視線を寄こすばかりとなった。
これでも、三十路が近くなった頃などには、同じように焦った友人たちと女性と遊ぶ機会を企画してみたりもした。しかし、そういう時に限って休日出勤や出張が重なり、気づけば自分だけが取り残されてしまった。
「はぁ・・・。」
知らず、ため息を吐く。誰か、春を呼ぶ呪文を教えてくれないか。魔法使いはここにいる。魔法なんて使えないまま、もうかれこれ2年が経ってしまうのだけれども・・・
「えー!?今日のライブ、キングが来るの!!?」
ビクリ。突然響いた声に、驚いて足を止める。なんともなしに声の主を探れば、少し離れた自販機の横、休憩用に設えられた壊れかけのベンチに座り、ケータイを耳に当てた女性と目があった。
ペコリ。誰もいないと思っていたのだろう。大声を聞かれたことが恥ずかしかったのか、空いた手を口元にあて、軽く頭を下げてきた。その様が少し面白く、軽く片手を振って、気にするなとジェスチャーで返す。そうこうするうちに、電話の相手に二言三言返した女性が立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
「垂名先輩、こんばんは。騒がしくしてしまい申し訳ありません。・・・こんな時間まで、残業ですか?お疲れ様です。」
友好的に名前を呼ばれてよく見れば、部署の後輩だった。入社5年目の26歳、まじめで大人しく、積極性にはやや欠けるものの、頼んだ仕事はきちんとこなす。そんなイメージだった彼女だが、いつも団子に丸めている髪を下ろし、目や口元の化粧を変えているせいだろうか、昼間とは別人のように華やかに感じた。
「あぁ、小鳥遊さんか、お疲れ様。ずいぶんと嬉しそうだったね。」
努めて軽い口調でそう返す。役職付きになるための研修会で、「高圧的な態度、口調は使うべからず」と叩き込まれたからだ。
「えへへ、お恥ずかしいです。えぇ、はい、そうなんです。実は・・・」
そこで彼女は一度言葉を切り、少し目線を逸らした。それを見て私は、研修での教え「プライベートは詮索するべからず」を思い出し、会話を切り上げようとしたのだが、その前に彼女が恥ずかしそうに言葉を続ける。
「あまり会社の人には言っていないのですが、私、すごく好きなバンドがあって。そのなかでも、特に大ファンの人が、今からライブで歌うんだそうです。それで、ビックリしちゃって、つい。」
最後にテヘッ、と漫画のように笑ってこちらを見る彼女に、なるほどと頷き笑み返す。
「ははぁ、ライブ。それでいつもと違う格好だったのか。ファンなのに歌うのを知らないとは珍しいが、行く予定のところに好きな歌手が来るとなれば嬉しいのも当然だな。良かったじゃないか。楽しんでこいよ。」
「ん?ふふ、やですよぅ、先輩。私、いつも帰りはこんな格好ですよー?むしろ、日中の方が仕事モードで特別ですし。」
「そうなのか?ふむ・・・女性とは皆、普段から華やかなものなんだな。あ、いや失礼。セクハラで訴えないでくれ、頼む。」
予想外の答えについ、口にした台詞が「女性社員の外見に徒らに口を出すべからず」に抵触すると気づき慌てて誤るが、小鳥遊は怒るどころか笑いだした。
「あはは、なに言ってるんですか。垂名先輩って、意外と面白いんですねー。・・・あ、そうだ、今日ってもうお仕事終わりですか?良かったら、ライブ一緒に行きません?もちろん、興味があれば、ですけども。」
「ん?いや、楽しそうだとは思うが、私はチケットを持っていないからな。残念だが、またの機会に・・・」
「あー、そっか。それで、さっき先輩、行く予定のライブに~とかおっしゃってたんですね。私が好きなバンドは、そんなに有名なのじゃないので、突然に行っても全然問題ないですよ。むしろ、今日はちょっと特別なイベントの日なので、人数多くなったら嬉しいなーって思うくらいです。」
そんな風に、とびきりの笑顔で誘われたら、嬉しくないはずがない。
「ふむ、そうか・・・なら、邪魔させて貰おうか。まだ時間は大丈夫か?少し、荷物を減らしておきたい。」
「はい、構いません!急なお誘いだったのに、ありがとうございます・・・実は、スーツで1人で行くのがちょっと恥ずかしくって。入口で待ってますね!」
イタズラっぽく笑ってそう告白し、軽く頭を下げて歩き出す。その表情と口調と、背中でふわりと揺れる髪を見て思う。
これ、もしかして春が来たんじゃなかろうか。
急いで自分のデスクに向かい、歩きながら脱いだ上着とネクタイを軽くたたんで置く。それから手付かずの報告書を取り出し、きちんと揃えて並べた。
「別に、サボるわけじゃない。」
白紙の書類を睨み、言い訳するように呟く。これを逃したら、私の人生真っ暗だ。ここで春を掴むのだ。それにそう、私は今日、本来なら、とっくに帰宅しているはずの身なのだから。
軽くなった鞄を持ち、私は意気揚々と、エントランスに向かった。




