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ひかりゆくもの

作者: 神山はる

きらきらしたものなんていらないと思っていた。

青春なんてバカらしいと思っていた。

花は枯れて終わりだと思っていた。

人を好きになることなんてないと思っていた。


――世界がこんなに綺麗だなんて思わなかった。



「宮原……あさきくん?」

 あぁ、またか。

朝紀(ともき)です。先生」

「あ、ごめんなさい。朝紀さんね」

 かん高い声が慌てて修正する。それもわざわざご丁寧に『さん』を強調して。そんなことをしても、男に間違えたことに変わりはないのに。

 進級後、この間違いがある度に朝紀は思う。たいていの担任は朝紀の名前を間違え、性別を間違える。新しいクラスになって早々、名簿だけで判断するのだから仕方ないとも思うけれど、少なくとも座席は名前の順に並んでいるのだ。そこに座っている人間を見れば、男か女かくらいは分かるだろうに、大人ってやっぱり馬鹿。

 はあ、と口から零れた小さなため息は、春の甘い風に混じって外へ消えた。うつむいた拍子に落ちてきた長い髪を耳にかける。生まれつき茶色がかったこの髪が、自分を『派手な子』という部類にカテゴライズする要素になっているのを朝紀は知っていた。けれど、友達や見知らぬ先生にわざわざ説明するつもりはない。朝紀にとって、今の分類は何かと都合がいいからだ。地味で冴えない連中は寄ってこないし、豊富な話題を持った本当の『派手な子』とも仲良くできる。多少の悪事だって多めに見てもらえる。それは、退屈な毎日を過ごすのに朝紀に最低限必要な刺激だった。

 校則だとか、マナーだとかそんなものでガチガチに縛られるのが大嫌いなのはきっと自分だけじゃない。大人たちは「守っているんだ」と言い訳をして狭くて強固な繭で子供を覆う。それが実は子供にからまって、今にも窒息させそうになっているなんて気がつかずに。

朝紀の茶色い髪は通気口だ。息苦しい繭の中で呼吸がしやすいようにつくられた小さな窓。規則のすき間をすりぬけて少しだけ手に入れた自由。朝紀はそのすき間を生まれつき手に入れていたラッキーな人間だ。それでもなお、日々はおそろしく退屈で息苦しい。

新しい担任が今後の心構えを熱く語っている。どれも耳にタコができるほど繰り返し聞かされたものだ。ついさっきだって始業式で校長が言っていた。

「二年生の自覚を持って……勉強を本格的に……自立した精神を……(以下略)」

 あーあ、つまんないなあ。

 机にへばりつくようにして突っ伏し、目線を窓の外に送る。窓際の席の特権は、いつだって空が見られることだ。

 水彩画のような淡い青の空に、薄く流れていく雲。少し金色がかった太陽。雀が二羽、じゃれあいながら飛んでいく。

 空は好きだ。何も急かさないし、答えを求めない。早く県大会に出られるようになれとか、将来の夢は何だとか、テストの成績はどうだったとか、そんな言葉を投げつけたりしない。でも、人はみんなそれを聞くのだ。言われてもどうしようもないことや聞かれても答えのないものを、繰り返し延々と。朝紀はその度に相手をひっぱたきたいと思ってしまう。自分が一番苦しんでいるところを無神経にグサグサと指摘して迫ってくるのが、むかむかして鬱陶しくてたまらない。もちろん、実際にひっぱたいたことはないけれど。

 四月六日、水曜日。晴れ。宮原朝紀はいつもの日常を刻むはずだった。



 午後三時過ぎ。友達に誘われたテニスの自主練習を終えた後、朝紀はひとり大通りを歩いていた。汗でじっとりとぬれたTシャツが嫌で着替えた制服は、やぼったくて逆に暑い。うんざりして、何だかこんなことをしている自分がみじめになってくる。

「ねえ朝紀ぃー、これいらない?」

 ホームルーム後、お昼の菓子パンを食べながらいわゆる『派手な子』の美里(みさと)が手に持った紙をひらひらさせて言った。

「何それ」

「うちのお母さんの知り合いの……何だっけ、とりあえずカメラマンの個展のチケットなんだけどさあ。お母さんに無理矢理渡されたんだよね。正直あたし、こういうの興味ないし、捨てちゃおうと思ったんだけど」

「じゃあ何で今でも持ってんの」

「それがさぁ! うちのお母さん、その人にもうあたしが行くって言っちゃったらしいんだよねー。そしたらそのカメラマン、あたしの名前があるか記名帳でチェックするつもりらしくて。超余計なお世話じゃない? そんで、朝紀にお願いなんだけど」

「私が代わりに行って名前を書いてほしいってわけ?」

「さっすが朝紀。ものわかりが良い!」

 美里がパチンと指を鳴らす。そして、何度も男たちを魅了してきた可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべる。嫌な予感的中。

「ね、お願い! 名前さえ書いてくれたらさっさと帰っていいから」

「えぇー……美里が行けばいいじゃん」

「それが嫌だから朝紀にお願いしてるの。あたし、カメラマンのおっさんの為に割く時間なんてないもん。そんな時間あるなら、とっとと渋谷に買い物に行く。ね、いいでしょ。お礼に来週遊ぶときのお昼ご飯おごるから」

「もう。しょうがないな」

「やったぁ! 朝紀大好きっ! はい、これ」

 喜んだ勢いで抱きついてくる美里にされるがままになりながら、長方形のチケットを受け取る。薄桃色の紙に黒く『佐山義彦(さやまよしひこ)個展・拾い集めた景色』の文字。面倒な気持ちが顔に出ないように気をつけながら、朝紀はその紙をもてあそんだ。

 そんなわけで、嫌なことは早く終わらせてしまうにかぎる。朝紀は美里が書いた簡単な地図を手に目的の場所を探している。守山デザインビル三階、スカイホール。単純な名前のくせに、なかなか見つからない。断らないことで関係の円滑さを保った自分に嫌悪。探し疲れて、さっさと家に帰って別の日に来なかったことを後悔し始めたときだった。

『佐山義彦個展~拾い集めた景色~

 空気までも映しこむ印象派 期待の新鋭写真家初の個展』

 目に入った小さな看板。随分大仰な言葉がおどっているわりに白い板に黒一色の冴えないものだ。名前も知らない、興味もないカメラマンのおっさん。佐山義彦。

「やっとあったよ……」

 今までの苦労に対する憎しみをこめて、朝紀はその看板をにらみつける。見上げた建物は守山デザインビルというだけあってモダンで、一階部分はガラス張りになっていた。

 美里のふりをして、記名帳に名前を書くこと。それさえ済ませればいい。

 絨毯の敷かれた床に、白い壁。そこにかかる無数の額。たどり着いた三階のエレベーター前で、開かれたスカイホールのドアの向こうをちらりと見ながら、受付の女の人にチケットを渡す。差し出された記名帳にできるだけ美里の字に似せて記名する。神永(かみなが)美里、十六歳。

「ほう、十六歳ですか。こんなにうら若い方が写真の魅力を理解してくださるとは、嬉しい限りですな」

 突然の右後ろからのしわがれた声。びくっとして振り向くと、見たこともない白髪の老人が立っていた。朝紀よりも背が低い。記名した文字と朝紀を交互に見て、柔らかい笑顔を浮かべている。

「お嬢さんも佐山氏のファンかね? 彼はあの若さで素晴らしい実力をお持ちですな。そうですか、やっと若い方々にも写真が芸術として認められるようになりましたか。いやあ、実によいことです」

「……はあ」

 本当は名前さえ知らないカメラマンだ。芸術だなんて思ったこともない。かといって個展会場の目の前で否定できるはずもなく、勢いよく話し始めた老人にとりあえず曖昧な返事をする。

「現代はデジカメ? とかで簡単に写真が撮れてしまうものだから、フイルムカメラは見捨てられがちでしてな。あの独特の味わいはやはり手間がかかってこそなのですが」

「…………」

 穏やかそうな顔を紅潮させて、老人は随分と興奮している。よっぽど『佐山氏』のファンなのだろう。一人で勝手に喋ってくれるので、もう返事も必要なさそうだ。

「お嬢さ」

「先生」

 ……先生?

 さらに何かを言いだそうとした老人の声をさえぎるように、不意に男の声が響いた。老人が振り向くので声のしたほうを向くと、ひげを生やした浅黒い男が個展の会場からこちらを見ている。年齢は三十代半ばといったところ。

「さっきから入口で声がするんで何かと思ったら、女子高生とお話ですか。僕の為に来てくれたんじゃなかったんですか」

 すねたような口調で男が言う。その台詞に老人は納得したように何度もうなずいた。

「おぉ! そうだった。すっかり話し込んでしまってな」

「その子、突然でびっくりしてるじゃないですか。気をつけてくださいよ、まったく」

 老人は穏やかそうな笑みを深めて、男の肩をたたく。

「恩師に向かってずいぶんと手厳しいじゃないか。プロになったら気も強くなったようですな、佐山氏」

 わざとらしく敬語を使ってそう言うと、老人は朝紀に向かって「さ、遠慮せずにお入りなさい。お嬢さん」と急かした。朝紀は「どうも」とまたも曖昧な返事をして老人に半ば強制的に連行される。そして、先ほどの言葉を頭の中で反芻して驚いた。

「……あ」

 もう一度横に立つ男をまじまじと見る。老人は『佐山氏』と呼んでいた。ということは、この男は個展を開いた佐山義彦本人なのだ。思った以上に平凡であることに違和感を覚える。写真家というくらいだから、もっと気難しそうな人だと思っていた。

 朝紀の視線に気がついたのか、佐山義彦はふっと視線を下げた。目が合う。朝紀が軽く会釈をすると、男は苦笑した。

「すみませんね、先生が迷惑かけて。写真部時代の恩師なんですよ。びっくりしたでしょ」

「はあ、まあそうですね」

 なんとなく話をあわせる。

 老人はいつの間にかいなくなり(勝手に写真を見始めていた)、佐山義彦もしばらくすると「それじゃ楽しんでください」と言って去っていった。来たついでだと思って、何気なく近くにあった写真をながめる。夕暮れの坂道、柔らかく灯る家の明かり、手をつないで歩く影絵のような子供達。少し肌寒い風さえも感じられそうな臨場感。芸術を評価できるような素質はないけれど、すごいのだということだけは感じた。こんなに引き込まれるような写真を見たことがない。

 つられるようにして、順番に写真を見ていく。澄んだ水の中で尾をひるがえす鯉。父親の肩の上で天に風車をのばす少女。草に埋もれるようにして立つ小さな祠。夜明けの空に浮かぶ細い銀の三日月。そして特に目を奪われた、一枚の写真。会場の一番隅に飾られたそれは水中カメラを使ったのか、水の底から水面を見上げたものだ。揺れる水面から差し込む光。粒になってのぼっていく撮影者の息。小さな魚が一匹、水の中を横切っている。影のような体の中で、光を受けた尾ひれだけが鮮やかに色づく。

 綺麗。

 その言葉が何よりも似合うと思った。釘づけになったまま、じっとその写真を見つめ続けていると後ろから佐山義彦の声がした。

「それが気に入ったかい」

「はい。すごく綺麗」

 なぜかとても素直に返事ができた。

「この写真はね、実は僕の甥が撮ったものなんだ。ほら」

「え」

 驚いて佐山義彦が指差す先を見てみる。『たゆたう』という題名の下に確かに『佐山和明(かずあき)』と名前があった。

「甥も高校で写真をやっていてね。僕が個展をやると決まった時に、せっかくだから一枚出してみないかって提案したんだ。個展だと自由がきくからね。そしたら、翌日この写真を持ってきた。驚いたよ。本人はたまたま上手くいったんだと言ってたけどね。僕もこの作品は気に入ってるんだ」

「へえ……」

 変わった題名だ。たゆたう、なんて高校生で使うだろうか。ゆらゆらとゆらめいて定まらないさまのこと。心が揺れること。そんな意味だった気がする。

「そうだ、もしよかったらこの写真のポストカードもらってよ」

 佐山義彦はそう言うと受付から一枚のポストカードを持ってきた。作品を印刷したポストカードはひとつ百円ほどしたはずだ。

「でも、それ売り物じゃ……」

「試しに刷ってみたんだけど、あんまり売れ行きよくなくて。一枚くらい無料にしてもたいしたことないよ。ま、僕の作品よりこっちが売れたりしたら専門家として困るんだけどね」

 おどけて言いながら、朝紀にポストカードを差し出す。

「ありがとうございます」

 お礼を言って受け取った。あらためて見ると、自分と同じくらいの年の人間が撮ったとは思えない。きっとこれを撮った『佐山和明』は自分のように鬱屈してはいないだろう。世界をもっと素直に見ているんだろう。だから、こんなに綺麗な写真が撮れるのだと思った。

 家に帰ってから、ポストカードを机の上の写真立てに入れる。そこだけが静かな海になる。光る水面の向こうに何かを探すように、朝紀は小さな海を眺め続けた。



「ホントありがとねーっ! マジ助かった」

「どういたしまして」

 美里とそんな会話をしてから二ヶ月。梅雨入りが近い。梅雨は嫌いだ。降り続く雨は黒いローファーを濡らし、傘を握る手を冷やす。空気が湿り気を帯びてまとわりつく。街の音が雨にかき消されて孤独になる。

「雨とかヤダ。学校行く気失せる」

「学校に来て、しかも放課後になってから言う台詞じゃないでしょ、それ」

「まあねぇ。学校に来ないと授業が分かんなくなるっていう怖い現実には何者も勝てないでしょ」

 何も考えずに生きていそうな美里からそんな言葉が出てきて、少し驚いた。そして怖くなった。現実なんてコンクリートの冷たい壁だと思っている自分が、なぜだか美里に負けている気がした。

「そういえば、朝紀って百年祭の実行委員だっけ」

「一応ね」

「大変だねー。今日なんか西高まで打ち合わせに行くんでしょ。よくそんなことできるね。あたしには絶対無理」

 この辺りの公立高校は、女子高・男子校が流行った時代に相次いで創られたものらしく、共学の学校はほとんどない。この学校ももともとは女子高で、十五年ほど前に共学になったのだという。そして、創られた時期が同じなら、百年目を迎えるのも同じ時期だ。そこで、ここ二、三年で創立百年になる公立高校四校が共同で百年祭を開催することになったのだ。西高とは(うら)()西高校という男子校で、この学校から自転車で二十分ほどの場所にある。朝紀においては、じゃんけんで負けて押しつけられた実行委員会の仕事のせいで放課後数時間が奪われるという算段だ。

 放課後、他の数人の実行委員とともに自転車で西高に向かった。話し合いは、やる気のある人たちが勝手にすすめてくれるだろう。朝紀は横に突っ立っていればいいのだ。

 雨はもう止んでいる。アスファルトの地面にところどころ空が落ちている。雨上がりの忘れ物。朝紀はそれらをばしゃりと自転車で散らしながら他の実行委員の後ろにつく。しばらく走って見えてきた西高は、雨のせいかいつもよりコンクリートの校舎の色が暗く感じられた。

 女子が男子校に乗り込むなんて、狼の群れに羊を放すようなもんでしょ。校門を前にして誰かがそうささやいて笑う。それでもどことなく嬉しそうなのは、やはり恋に飢える年頃だからだ。素敵な出会いがいつどこに落ちているかわからない。だから彼女たちは今の自分を磨くのに必死になる。そんな空気の中では朝紀は異質なのかもしれない。朝紀にとっては、この退屈な日々をいかにやりすごすかが問題であって、色恋沙汰には少しの興味もなかった。

 玄関前には担当らしい実行委員が待っていた。

「こんにちは。ご足労ありがとうございます。実行委員長の新井です」

亜実(つぐみ)高校の加賀です。今日はよろしくお願いします」

 代表者どうしが軽い挨拶を交わす。会議室に通されると、他の二校の生徒も集まっていた。まずは軽く自己紹介から、ということなのだろう。全員が席につくと亜実高から一人ひとり名前を言い始める。朝紀も学年と名前だけを冷たく述べる。西高は実行委員長の新井に続くようにして五人。最後の一人は黒光りするカメラを脇に置いているのが印象的だった。

「二年の佐山です。フォトアート担当責任者です」

 少年らしい澄んだ声。その声で語られた名前と机の上のカメラが、朝紀の記憶の底に電流を流す。

「……え」

 思わず声を上げてしまった。他の生徒たちの視線が集まる。

「すみません。続けてください」

 小さくあやまる。久々に恥ずかしい思いをした。佐山という男子生徒は少し不思議そうな顔をして席についた。

 佐山義彦。僕の甥。高校生。たゆたう。佐山和明。

 記憶の断片が頭の中をめぐる。佐山なんて名字の人間は山ほどいる。あの写真を撮った人だとは限らない。でも、あまりにも共通点が多かった。もう打ち合わせの内容なんて耳に入らない。もともとやる気なんてなかったからいいのだけれど。

「では、今後も四校で協力して百年祭に向けて頑張っていきましょう。終わりにしたいと思います」

 どれくらい我慢すればよいのだろうと思っていた打ち合わせはいつのまにか終わっていた。何を話していたのか全く記憶に残っていない。後で他の人に内容を教えてもらうことになりそうだった。

 生徒が次々に立ちあがって片付けを始める。朝紀も文房具をしまいながら、佐山という少年をそっと見る。穏やかな目をした背の高い人物だ。どことなく佐山義彦に似ている気もする。

 確かめたい。朝紀の中の希少な好奇心がうずく。あの写真を、今でも机の上で光る海を撮った人に会いたい。

 ふ、とカメラをいじっていた佐山が顔を上げる。朝紀と目が合うと、彼は突然カメラを置いて朝紀の場所まで歩いてきた。

「あの、すみません。どこかでお会いしましたか」

「え?」

「いや、名前を言ったときにびっくりされていたから、もしかしたら前に会ったことがあるのかと思って。もしそうだったらすみません、俺、名前を聞いてもどうしても思い出せなくて……」

 佐山は申し訳なさそうに言う。当たり前だ。会ったことなどないのだから。朝紀は小さく首を振った。

「いえ。そうじゃないんです」

「あ、そうなんだ。よかった」

 ほっとしたように笑う。今しかない。そう思った。

「佐山、何て言うんですか」

「はい?」

「下の名前。佐山……」

「あ、和明です。佐山和明といいます」

 あぁ、やっぱり。可能性が真実になった瞬間、感動とも羨望ともつかない感情が朝紀を満たす。この人が、あの写真を撮った佐山和明なのだ。どこまでも透明に世界を見つめている人間なのだ。

「たゆたう、なんて高校生で使いますか。普通」

「えっ!」

 突然核心をついた朝紀に、佐山和明は驚いたように声を上げた。何のことを言っているのかわかったのだ。そのときだった。

「宮原さーん。行くよー」

 同じ学校の女子から声がかかる。「すぐ行きます」とだけ返事をして、朝紀は教科書で満杯の鞄を手に取った。

「あの写真、好きなんです。それじゃ」

「あの……!」

 それだけ言って頭を下げると、朝紀はもう相手の顔も見ずに歩きだした。佐山和明に会えた。あの写真を好きだと言えた。それだけで満足だった。

「ま、待って。待ってください」

 ぐいっと。左手が強く後ろに引かれる。慣性の法則で進みかけた朝紀の体は急ブレーキがかかったように前のめりに止まった。つかまれた部分がしめつけられる。少し痛い。

 何かと思って振り向けば、佐山和明は必死の形相で朝紀の腕をつかんでいる。そしてそんな自分に気がついたのか、慌ててその手を離した。

「あっ、ごめんなさい!」

「大丈夫です……けど」

 何か忘れ物でもしただろうか。そう思って様子をうかがうが、別に何かを持っているふうでもない。佐山和明は穏やかな瞳をまっすぐに朝紀に向けてただ一言、こう言った。

「もっと聞かせて」



 駅前のチェーンのコーヒーショップ。苦いものが苦手な朝紀はとりあえず一番甘そうなクリームだらけのカプチーノを頼む。佐山和明は平然とブラックのブレンドコーヒーだ。

「もっと聞かせて」

 そう言う佐山和明に連れられてやってきたここは、適度に空いている。予定では西高の前で解散し、家に直行するはずだった。今日は部活もないし、少しくらい寄り道をしても大した影響はない。

 角のテーブル席に座ると、佐山和明は眉根を下げて困ったように笑った。

「ごめんね、無理矢理連れてきて」

「いえ、大丈夫です」

「でも俺の友達が嫌な思いさせちゃったし」

 写真の感想をもっと聞かせてほしい。今日時間はあるか。そう朝紀に話しかける佐山和明に、西高の同級生が「ナンパだ」「好みのタイプか」とはやし立てたのだ。

「その気がないのは見れば分かるから」

「正直なところそうだけど。それはそれで君に失礼じゃない?」

「別に。私、恋愛に興味ないし」

「…………」

「……どうかしました?」

「いや。君みたいな……その、派手めな子ってもっと今を謳歌してそうだから驚いて。意外だなと」

「よく言われます。この髪、地毛なんですけどね」

 友達にさえ説明するのが面倒だと思うことをすんなりと話した自分に自分で驚いた。佐山和明が相手だとなぜだか自然に言葉が出てくる。

「そうなんだ。ごめんね」

「いいですよ。それに、私が佐山さんに反応したのだって佐山さん……義彦さんのほうから佐山さんが高校生で写真やってるって聞いたからで、恋愛アンテナに引っ掛かったわけじゃないですから」

 分かりにくいから和明でいいよ。そう笑った佐山和明は「何か複雑」と少し考え込むしぐさをした。

「俺の写真を気に入ってもらえたのはすごく嬉しいけど、かといって恋愛対象に入れてもらえないのも男としては悲しいな。俺ってそんなにカッコよくない?」

「そういう問題じゃないんです。私は誰だって恋愛対象には入れません。そもそも恋愛しようっていう気がないんですから」

 君って面白いね。思ったままを言った朝紀に、和明は手にしたカップの湯気の向こうで微笑んだ。そして、それじゃ、と話題を変える。

「もう聞いてもいいかな。宮原さんの『たゆたう』の感想」

「感想っていっても特にないんです。上手く言葉にならなくて。ただすごく綺麗で、惹きこまれて、いつまでも見てしまいそうな写真だった。それだけなんです」

「そう言ってもらえると嬉しいな。俺、自分の写真の感想を全く知らない人に聞くの初めてなんだ」

「自分ではたまたまだと思ってるんですよね」

「もちろん。俺がそんなに優秀に見える? あの写真は父と沖縄に行ったときに撮ったんだ。あのタイミングで魚が通るなんて奇跡だよ」

「それでもただ撮っただけじゃあんな写真にならないんじゃないんですか。詳しいことは分からないけど」

「写真に興味あるの」

「正直ないです。個展も友達に頼まれて代わりに行っただけで、佐山さんの名前も知らなかった」

「伯父さんが言ってたんだ。めずらしく女子高生が来たんだ、お前の写真を気に入ってたよって」

「へえ。佐山さんに和明くんの写真のポストカードをいただきました」

「それも言ってた。お前のポストカードを持った女子高生がいたら、それはあの子だろうって。運命の出会いだぞってね」

 『運命の出会い』実現だね、と和明が笑うので朝紀も小さく笑う。自然に笑ったのは随分と久しぶりな気がした。気がゆるんだせいか、思わず敬語を忘れて尋ねる。

「和明くんはどうして写真を始めたの」

「うーん。やっぱり伯父さんの影響かな。伯父さんって自由人だから、小さな頃から遊びに連れていってくれても、何か面白いものを見つけると俺なんかほったらかしで写真撮り始めちゃうんだ。それで、そんなに伯父さんが夢中になるなんてどんなに楽しいものなんだろうって」

 懐かしそうにそう言って、ガキの俺には少しも楽しくなかったけどね、と付け加ええる。

「でも今でも続けてるんでしょ」

「やってるうちにハマった。写真ってすごいよ」

 そう言った途端、和明の目が輝く。純粋すぎる彼の瞳に気後れするように、朝紀はとっさに下を向く。羨ましさと、妬ましさによる少しの不快。言葉を返しそびれて、短い沈黙が生まれる。

「たゆたう、の意味はね」

 突然和明は言った。はっと顔を上げる。自分を落ち着かせるように、ひとくち、カプチーノを飲む。苦い。

「本当はあの写真にはないんだ。水の中であの写真を撮ってる自分のことなんだ。水の中でカメラを抱えて、ただ上を見て浮かんでいるだけの自分。この世界を漂うようにして生きている自分」

 どこか遠くを見るような目をしてそう続ける。海月みたいな人。朝紀は唐突にそう思った。透明で、ふわふわとたゆたう人。

「でも、そんな俺にも世界は優しいよ。写真を撮ってるとそう思う。写真はまるで魔法なんだ。どんな見慣れた景色も輝く可能性があるって教えてくれる。世界は限りなく広くて、まだ見たことのない景色も聞いたことのない音も、どこか知らない場所で光ってるんだ」

 思いがけない言葉。あまりにも平和なそれに朝紀は思わず絶句する。まさかこんなふうに世界を見ている人間がいるなんて。

「すごいと思わない? 俺はそんなすごい場所に生かされてるんだなって思うよ。俺なんてたいしたことのない存在なのに。写真は……そうだな、世界の美しさを結晶する方法かな」

 嘘だ。嘘だ。

 今まで朝紀が生きてきた世界は常に囲われた水槽だった。透明な直方体の中で、右往左往するだけの日々。回避不能の運命。だからもう動く事に意味なんてないと思っていた。それなのに、和明は世界に限りはなくてどこまでも美しいと言う。こういう人だと分かっていたはずなのに、受け入れられない。

「どうしてそんなに透明でいられるの」

「え?」

「写真をやればそんなふうに生きられるの」

 佐山義彦のように。和明のように。

「もしそうなら教えて。私に写真を教えて」

 願わくは、水槽を太平洋に変える魔法を。



 傘を回す。女子高生には似つかわしくない、紺色の無地の傘。柄を握る手はとっくのとうに冷たさを感じなくなっていた。もう片方の手を傘の外へ伸ばしてみる。降り続く雨は容赦なく朝紀の手にぶつかってくる。はなから止むという選択肢などないように。

 こんな場所で、こんな寒い思いをして、自分は何がしたいのだろうと思う。下らない。でも、どこにも行きたいと思えなかった。ただこのまま雨の中に溶けてしまいたかった。

 今日、朝紀が持ち帰った進路懇談会の資料を見て、母は大きくため息をついた。そんなのはいつものことだ。彼女お得意の「子どもの将来が心配で……」という文句を心の中でつぶやいているに違いない。

「朝紀、あなた志望校ちゃんと決まってるの」

一応清(せい)(りつ)女子大」

「一応とは何よ。今から目標を定めておけば高い所も狙えるって、先生言ってたじゃないの。今の成績で行ける所でいいなんて思ってると置いていかれるわよ」

「わかってる」

「本当かしら。朝紀はいつも『わかってる』で片付けるんだから。この間のテニスの試合だって一回戦で負けちゃったし。勉強か、部活か、どれでもいいから真剣に取り組みなさいよ」

「…………」

 朝紀は何も答えずに麦茶を飲み干す。まただ、と思う。母は普段何も気がつかずにぼけっと見ている分、何かきっかけがあるとそれを引き合いにして片っ端から指摘していく人だった。

「まさか、彼氏なんてできたんじゃないでしょうね?」

「……はあ?」

 突然見当違いなことを言われ、思わず聞き返してしまった。いきなり何を言い出すのだろうか。

「この前、駅前のコーヒー屋さんで男の子と一緒だったじゃない」

 和明のことだ。見ていたのか。

「あの人は関係ないよ」

「あら、じゃあどんな人だって言うのよ。どう見ても他の学校の子だったじゃない。制服も違ったわよね」

 答えたくなかった。自分が出会った和明という人間を簡単に母に認識してほしくない。勝手にレッテルを張り付けてカテゴライズしてほしくない。

 母はもう一度ため息をつくと、夕食の準備をしていた手を止めて朝紀の前に立つ。

「恋するのが悪いことだとは言わないけど、将来のこともちゃんと考えてよ。全部中途半端な状態で、今楽しい事だけやっててもしょうがないのよ」

 違う。そうじゃない。

「あなたが一緒だった男の子だって、今は良くても後になって困って……」

 ぱあん!

 思わず手が動いていた。手のひらがじんと痛む。朝紀にたたかれた頬を押さえて、母は目を見開いて固まった。

「違う。お母さんの言ってること、全然違うよ」

「あなた……親に向かって何てことするの!」

 母の目がみるみるうちにつり上がる。わなわなと震える唇が、もう一度動こうとするのを無視して部屋を出る。玄関で傘をつかんで、外へ飛び出した。

 ひどい雨だった。まさに梅雨真っ盛りだ。傘を開いて歩き出す。できるだけ人通りの多い場所を目指して。雨の中でぼんやりと光る店の明かりを横目で見ながら、人ごみに紛れる。時折傘がぶつかる。少しだけ雨が連れてくる孤独を忘れられる気がした。

 初めて、人をひっぱたいてしまった。今まで、心の中で思っていただけだったのに。

 でも、違うのだ。朝紀が何にも真剣になれないのは全てを諦めているからだし、和明はただ透明に世界を見つめている人間でしかない。朝紀と和明をつなぐのは彼の美しい写真一枚きりだ。恋も将来も関係ない。母が自分と和明のことをそんなふうにくくりつけることに耐えられなかった。諦めてしまった自分はともかく、和明のことは。

 写真を教えてほしいという朝紀の依頼を、和明はしばらく考えさせてくれと言って遠ざけた。早く答えを聞きたくても、急がせるのは気が引けるし、第一学校が違う和明に会うこと自体が困難だった。このまま結局うやむやになってしまうのだろうか。そうすれば、やはり自分はこのままだ。どこか麻痺して弱った頭で考える。

 やはり自分は水槽から出られないのだろうか。またいつものように退屈な毎日を引きずられるように生きて、いつか死ぬのだろうか。下らない、意味のない人生だ。

 雨にさらされた足から寒気が這い上がってくる。思わず震えた。同時に、このまま心臓まで凍ってしまえばいいと思った。感覚器官も、心も、全部凍りついて何も感じられなくなればいい。和明を羨ましく思わなくてすむほど、諦めることさえ何とも感じないほど、冷えきった人間になりたい。和明に断られたとしても、傷つかなくてすむだろうから。

 大通りの真ん中で立ち止まる。後ろを歩く人が慌ててよけるのが分かった。傘がぶつかって、半回転する。親をたたくなんて大胆なことをしておきながら、頭が少しも現実を解決しようとしない。停滞している。今日という日の残りをどうすべきなのか、分からない。どうしようもなくて、そのまま座り込んだ。目の奥が焼けるように熱かった。思わず閉じたまぶたのすき間から、熱を帯びたものがこぼれ落ちて、頬の上ですぐに冷えて流れた。たくさんの足音が通り過ぎていく。

 みんな、どこへ行くの。

 みんなには、帰る場所があるの。



 それから何度か百年祭の関係で和明と会った。見る度に和明はカメラか写真を手にしていた。フォトアートの担当者だから当たり前なのだけれど、和明の楽しそうな表情を見るたびにやはり写真が好きなのだろうと思った。一方の朝紀は会計担当なので一日中電卓を叩いていることが多い。手の一部になるんじゃないかと思うほどだ。一体どうして自分がこんなことをしなければならないのだろう。最近熱っぽさがとれない頭で計算をするなんて、地獄の所業だった。

 あの日、深夜まで雨の中をさまよい歩いたせいで、朝紀はしっかり風邪をひいたらしい。翌日から、咳が続き、体がだるい。けれどおそろしいほどの沈黙を貫く母に話しかけることもできず、病院にも行かずにそのままにしていた。おかげで一週間たってもなお体調は最悪だ。

 写真のことはもう諦めた。自分のような人間に写真を教えても和明には迷惑なだけだ。体調とともにあの日の絶望がまだ朝紀の中に居座っていた。

けれど、百年祭本番も近づいたある日、会場に設けられた事務所で書類を整理している朝紀の前に突然和明はやってきた。

「宮原さん」

「……和明くん」

 少し緊張した面持ちで話しかけてきた和明は、大きく息を吸って言った。

「俺、宮原さんに教えられるほど写真の技術ないし、教えられる日も限られると思う。俺にだって学校も部活もあるから」

「……うん」

「でも、それでもいいなら一緒に写真を撮るくらいできるかもしれない」

「いいの?」

「連絡先教えて。空いてる日教えるから」

 信じられなかった。息を飲む。朝紀の絶望が急速に消えていく。

「……ありがとう」

 もっと喜びを伝えようと思ったのに、とっさに出てきたのは平凡な言葉だけだった。自分の言葉のつたなさが嫌になる。

 和明が少しうつむいて言った。

「ねえ、お願いがあるんだけど」

「何?」

「嫌だったら断ってくれて構わないんだけど、あの、呼び方……朝紀でいいかな。そのほうが呼びやすいし、ずっと『宮原さん』なのも他人行儀な気がして」

 男の人に呼び捨てにされるなんて血縁者以外初めてだった。正直戸惑う。でも自分も和明を名前で呼んでいるのに、向こうは名字なんて不平等かもしれないと思った。

「い、いいよ」

「ありがとう。これからよろしく、朝紀」

 やっぱり恥ずかしいな、と笑ってそのまま和明は駆け去った。後には朝紀と和明がくれた淡い希望だけが残った。



「おはよう」

「あ、おはよう。今日はよろしく」

 私服だと誰だか分からないね。後ろから声をかけた朝紀を振り向いてそう言った和明は、カメラをふたつ抱えていた。

 日差しが夏の始まりを伝える七月の最初の週末。朝紀はあの駅前のコーヒーショップで和明と待ち合わせをした。もちろん、写真を教えてもらうためだった。

 歩きやすいほうがいいと和明に言われて、朝紀はかかとの低いブーツにデニムのショートパンツ、トップスはチュニックという格好だ。確かに、制服とは少し雰囲気が違うのかもしれない。

 しかし、そう言う和明だって私服なのは同じだ。カーゴパンツにVネックのTシャツ、半袖のミリタリーブルゾン。

「こっちこそ分からなかったんだけど」

「そう? でも声かけたってことは分かったんでしょ」

「コーヒーショップでふたつもカメラ持ってる人なんて他にいないから」

「あ。確かに」

 本気で今気がついた様子の和明に笑ってしまう。少しずつ自分の心が解けていくのが分かる。

「じゃあ、はい。こっちが朝紀のカメラ」

「……ありがとう」

 不意打ちで自分の名前を呼び捨てにされて、返事をするのが少し遅れた。了解したのは自分なのに、和明に平然と呼ばれるとやはり家族や友達とは違う気がする。

 受け取ったカメラは随分と使い古されていた。どこにぶつけたのか、ところどころ傷がついている。

「和明くんが使ってたの?」

「違うよ。それは伯父さんが若い頃に使ってたやつ。俺、そんなに使い古すほど写真歴長くないから」

「そうなんだ。いつからやってるの?」

「中二くらいかな。伯父さんに教えてもらいながら少しずつね」

 意外だった。もっと幼い頃から和明は写真一筋だと思っていたのだ。和明の言う通りならば、まだ写真を初めて三年半ということになる。

「それじゃ行こうか」

 立ちあがり、アイスコーヒーを飲みほしたグラスを返却用の棚に置いて和明が言う。今日もブラックだったようだ。トレイにミルクと砂糖がそのまま残っている。

 和明の後について自動ドアをくぐる。途端、照りつける太陽が目を刺した。

「場所も決めてあるんだ。ちょっと歩くけどいい?」

 黙ってうなずく。そんな朝紀を見て、和明はすっと歩き始めた。

 十分ほど歩いて到着したのは、比較的大きな公園だった。青々としげる雑木、整備された並木道、広々とした芝生に木製の遊具で遊ぶ子どもたち。

「ここ、広くて被写体も多いからよく来るんだ」

 和明が辺りを見回して言う。

 しかし、カメラを手に歩く朝紀には答える余裕がなかった。慣れないものを持って、落とさないようにするのでせいいっぱいだ。そんな朝紀に気付いた和明はかすかに微笑んで朝紀のカメラを取り上げた。ふっと手が軽くなる。

「あ。いい、自分で持つ」

「駄目、このままだと緊張で転んじゃいそうだから。どこか落ち着いて座ったら返すよ」

 差し出した手からカメラを遠ざけるように手を動かして、ふざけた口調で和明が言う。その何気ない気遣いが逆に重くて、朝紀は手を下ろした。写真を教えることも、こんなふうに気を遣わせてしまったのだろうか。友達と関わることさえ面倒だと思ってしまう自分が唯一自ら関わろうとした相手だからこそ、和明に変な気遣いをさせるのは嫌だった。

「あ、ごめん。俺、何か気に障ること言った?」

「ううん、そうじゃない。むしろ逆。私のために気遣わせてるから」

「何言ってんの? 俺、これでも朝紀に写真教えるの楽しみにしてたんだけど」

 本当に不思議そうな顔で和明は朝紀をのぞきこむ。自分が気を遣ったという自覚さえないようだ。

「そう……ならいいんだ。ごめん」

「いや、いいよ」

 穏やかな和明の笑みの前に朝紀の心配は霧散して消えた。まるで春のようだった。朝紀の中の冷たいものを溶かして、しまいには無くしてしまう。

 和明は木のベンチを見つけると、そこに座った。そして朝紀にも座るように促す。

「はい。じゃあ落ち着いて座ったからカメラ」

 そう言ってレンズキャップを取ったカメラを渡される。今度は朝紀も笑うことができた。

「じゃあまずは持ち方から。肘はしっかり締めて。このグリップを右手で持って、左手は下から支えるように」

 隣で和明がやるのを見ながら、ゆっくりとカメラを持ってみる。

「そうそう。これならレンズのズームやピントも合わせやすくなるんだ」

 そう言って和明はレンズについたリングを指で回してみせた。どういう仕組みになっているのか、朝紀にはまだ理解できない。回そうとしたが、どっちが何のリングなのか分からなかった。

「細かいことは撮る時に言うよ。まずは撮りたいものを見つけよう」

 それからは、公園を歩き回って被写体を探し、その度に和明が少しずつ撮り方を教えてくれた。

 夢中だった。ぎこちなくのぞいたファインダー越しの四角い視界が少しずつ確かになっていくのが、まるで絵画を描いているようだった。時間が早送りの映像のように走り去っていった。気づけば、あっという間に正午を回っていた。

「もう十二時半なんだ」

「ね、写真を取ってると時間が経つのが早いんだ」

 少し誇らしげに和明が笑う。

「私、午後は部活があるから」

「そうなんだ。大丈夫? 疲れてない?」

「平気。私、別にレギュラーじゃないし、試合練習中は見てるだけだから」

 どうせ退屈しのぎに入った部活だ。上達しようとも、何かを得ようとも思わない。それでもこうやって参加するのは『女子高生』として周りが求める自分の殻を繕うためだった。親の知っている自分、友達が思いこんでいる自分のレッテルを上手く利用するだけのこと。形さえ作っておけば後は簡単だ。皆が勝手に完成させてくれる。

 でも、和明ならきっとそんなことはしないのだ。そのことに気がついてしまって、朝紀は劣等感にも似た感情が心を再び冷やしていくのを感じた。

「私、もう帰るね。今日はありがとう」

「駅まで送るよ」

「いいよ。道なら分かるから」

 つい先ほどまで心地よかったはずの和明の優しさが今は刺すように痛い。和明にカメラを返すと、朝紀は早足でその場を去った。



 空を見ていた。何を思うわけでもなく、ただ見ていた。

 百年祭当日。準備のときには現実離れした忙しさだった会計は、当日になってしまえばほとんど仕事もなく一般の生徒とそう変わらない。会場である広大な運動公園の隅で、朝紀はペットボトルを手に一人立っていた。

 当日忙しければよかったのに。そう思う。お祭り騒ぎなんてエネルギーの有り余った連中が勝手にやっていればいい。朝紀はそんな馬鹿げたことに心を傾ける気はなかったし、かと言ってこうして一日会場に留まっているのも退屈で死んでしまいそうだった。

「あー! 朝紀、こんなところにいたのぉ」

 かん高い声が響く。視線を下げると、数メートル先から美里が走ってくるのが見えた。その隣には由梨と紗弥香もいる。どっちがどっちだったかは、よく覚えていない。

「おはよ、美里」

「もうっ! 一緒に回ろうって言ったのにどっか消えちゃうから探したんだよ? こんなところで何してんの」

「別に。ちょっと感慨にふけってた」

「ヤダぁ、朝紀、おばあちゃんみたいなこと言わないでよ」

「そーだよ。うちらまだ高校生じゃん。もっとテンション上げないと老けるよ」

 由梨と紗弥香は口ぐちにそう言って、高校生にふさわしいテンションで笑う。朝紀はいかにも楽しそうに笑い返してみせた。

「あはは、そうだね。まだまだ人生長いもんね」

「そ。楽しいのなんて若いうちだけなんだからさ。ね、まず何見に行く?」

「それより何か食べない? あたしお腹すいた」

「あ、うちも。あっちの方でアイスクリーム売ってたよね」

「じゃあそれにしよ。今日暑いから、早く行かないと売り切れちゃうかもよ」

 美里たちは呼吸を忘れたように早口で会話すると、「ほら、朝紀も早く」と言って走り始めた。朝紀も曖昧にうなずいてゆるゆると走り出す。髪が風になびいて耳元で微かに音を立てる。鳥の羽ばたきに似ていた。

 人ごみに近づくと、途端に音が朝紀を包む。話し声、売り子の呼びかけ、足音、全てが混ざって不規則な騒音を作り出す。ぶつかりそうになりながら、人の間を縫って美里の後を追っていると、先に到着した美里が振り向いて朝紀に声を投げた。

「朝紀ぃ、どの味がいいー?」

「バニラー」

「りょーかい」

 少し遅れて出店の前にたどり着いた朝紀に、美里はカップに入ったバニラアイスを差し出した。

「はい、朝紀の分。二百円だって」

「ありがとう」

 ポケットから取り出した財布から百円玉二枚を渡す。代わりに受け取ったバニラアイスは少し溶け始めていた。突き刺してあったプラスティックのスプーンで、少しだけすくって口に運ぶ。冷たさでごまかした甘ったるい味。

「美里、チョコにしたの? 美味しそう」

「由梨のストロベリー、ちょっとくれるならあげてもいいよ」

「えー……よし、あげる。だからちょうだい」

「はい、どーぞ……って待て! ちょっとじゃないでしょ、それ」

「いっただきまーす」

「あ、ずるい! じゃああたしも」

「ヤダ、美里取りすぎ」

 きゃあっと声を上げて美里たちははしゃぎ始めた。女の子特有の耳に残る高い声。聞いているうちに、その声が朝紀の頭の奥で反響し出した。視界がぐらぐらする。舟に酔ったような気持ち悪さだった。

「……あれ、朝紀。大丈夫? 顔疲れてるよ」

「ちょっと調子悪いかも。ごめん、今日は大人しくしてる」

「マジ? 先生呼んでこようか」

「いいよ。少し休めば直るから」

 適当な言葉を並べて美里たちと別れる。そして、人の少ないところを探して座り込んだ。ゆっくり息をする。視界の揺れはしだいにおさまった。手に持っていたアイスが溶けてしまわないうちに、無理矢理食べる。喉の奥に溜まった甘さでまた気持ちが悪くなりそうになって、ペットボトルのお茶で流し込んだ。

 所詮自分は代替可能な『友達』なのだ。美里たちを思い出しながら思う。いないならそれでも問題が起こらない程度の存在。朝紀たちはみんなそんな薄くて頼りない関係でつながっている。けれど、朝紀にはそれくらいがちょうどよかったし、これ以上の繋がりならば自ら避けるだろう。

 これから何をしよう。座り込んだまま考える。いっそ帰ってしまおうか。でも、終了のときにはクラス単位で出欠確認をするらしいから、そのときにいないわけにもいかない。

 そう思ったとき、ふいに和明のことが思い浮かんだ。今頃どうしているのだろう。そう言えば、和明が担当していたフォトアートがどんなふうに完成したのかまだ見ていない。それくらい見ておいてもいいかもしれないと思った。

 立ちあがって開始時に配られたパンフレットを開く。フォトアートの場所は公園内の文化センターのホールだった。パンフレットの地図に従って歩き始める。いつもの三、四倍の人数の高校生がひしめきあうだけあって、会場の喧騒は容赦がない。朝紀はその音を避けるようにわざわざ遠回りをしてホールへ向かった。

「アンケートお願いしまーす」

 ホールの入口で、実行委員らしき女子に笑顔で紙を渡される。ホール内の展示物を評価するアンケートだった。『大変よい』から『悪い』までの五段階評価。全部に『悪い』をつけてやったらどうなるだろう。一瞬、そんな意地汚い感情が働く。

 一歩踏み出して目を上げた瞬間。

 それはあった。

 巨大なフォトアート。天井まで届く一輪の向日葵。白黒写真で描かれたそれは、高校の普段の生活や百年祭の準備風景を集めたものだった。

「うわぁ……」

 思わず声が出た。こんなものを、和明は作っていたのだ。

 真剣な眼差し。はじける笑顔。力強い動き。さまざまな感情と瞬間が濃縮された一輪の花。なんて綺麗で優しいのだろう。朝紀のような人間など、鬱屈した陳腐な心など、この世に存在しないかのような美しさだった。綺麗で優しくて、だから朝紀には痛い。

 和明の見る世界には自分はいないのかもしれない。そう思ってしまう。和明の世界に自分はいてはいけない気がした。そして、それはなぜかとても悲しいのだった。

「あれ、朝紀。こんなところでどうしたの」

 突然名前を呼ばれてびくりとした。こんな気分のときに知り合いに会うなんて最悪だ。同じテンションで話せる自信がない。あきらめて重たい視線を向ける。

そこにいたのは和明だった。

「……和明くん」

「友達とはぐれた? 会場広いからね」

「うん、まあ」

 いつもと同じ穏やかな笑顔を向けられて、朝紀は曖昧に返事をした。和明は先ほどまで朝紀が見ていたフォトアートを見上げて言う。

「このフォトアート、結構上手くいったと思うんだ。責任者としてはホッとしたよ」

「すごいね、これ」

「ありがとう。朝紀に言われると嬉しいよ」

「綺麗すぎて、何だか逃げ出したくなった」

 何それ、と和明は小さく笑った。朝紀はそれに答えるように作り笑いを返す。感じたことをありのままに言うほど素直にはなれない。そんな朝紀の耳元に、和明が「ねえ」と口を寄せた。

「一番下の右端の写真、見て」

 言われるままに巨大なフォトアートの床近くを見てみる。そこには、高校生活でも百年祭準備の光景でもない、一枚の白黒写真。写っているのは鏡のように静まり返った水面の中に立つ、一羽の白い水鳥。それはこの間の週末、朝紀が撮ったものだった。驚いた。

「何で、あの写真があるの」

「計算間違えて、途中で枚数が足りなくなっちゃって。他は余分に撮っていた写真で補ったんだけど、どうしても一枚調達できなかったんだ。それで、週末撮った中から選んで使わせてもらった。勝手にごめん」

「それは別にいいけど、どうして私の写真なの。あのとき、和明くんだって撮ってたのに」

 どう考えても和明が撮った写真のほうがレベルが高いはずだ。わざわざ初心者の朝紀の写真を使う必要はない。

「うーん。もちろん白と黒のバランスの問題もあるんだけど……俺が入れたかったんだ」

 少しうつむいて、和明は続けた。

「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど。俺の思う朝紀って幽霊みたいなんだ。まるで足跡を残さないみたいに、どこにも所属してない気がして、俺、何かすごく悔しくて。だから、あれは俺が無理矢理にでも君の足跡を残そうとした結果」

 ごめん、変なこと言ったね。そう言って困ったような恥ずかしいような顔で笑う。

 朝紀は何も言えずにその言葉を聞いていた。

 和明が残そうとしてくれた自分の跡。何の変哲もない自分の写真で、和明は朝紀の存在を証明しようとしてくれた。和明の言う『幽霊』のような朝紀を。

「私は、いていいの」

「え。何が?」

「私は和明くんの見る世界にいてもいいの?」

 自分のような人間でも、和明の見る美しい世界に生きる資格があるの。

 声にならない問い。本当はつかみかかってでも聞きたい。そんな自分が理解できなくて、余計に苦しい。いつだって、誰かとつながることを避けて退屈な日々をやりすごすことだけを考えてきたのに。

 和明は少し首を傾げて、それからふわりと微笑んだ。

「よく分からないけど、どうぞ。俺は朝紀が俺の世界にいてくれることが嬉しいよ」

 あぁ、知らなかった。言葉がこんなに優しいなんて。

「……和明」

「何?」

「って呼んでもいい?」

「あ、今呼び捨てにされた?」

 そのことに気付かなかった様子の和明は、そっか、今まで『和明くん』だったのか、とよく分からない納得をした。朝紀は思わず苦笑してしまう。

「あ、あの写真、先生には秘密にして。本当は百年祭の参加校の高校生が写ってるものじゃないといけないんだ」

「自分の下手な写真をわざわざ他の人に教えたりしないよ」

「じゃあ秘密ね」

 いたずらを仕組んだ子どものような表情で、和明が声をひそめる。朝紀も小さく人差し指を口元に立てた。

 神様なんて信じていないけれど、もしいるなら、神様、どうか片隅にでもいいから和明の見る世界にいられますように。そして、いつか自分もあんなふうに世界を見られる人間になりますように。



 テニス部の練習がない日に佐山義彦の事務所に行く。それが朝紀の新しい習慣になった。そこには和明が待っていてくれて、毎回ふたりで出歩いては教えてもらいながら写真を撮る。ある程度溜まってきたら、暗室で現像を行う日もある。初めて現像を経験したとき、朝紀はその不可思議さに驚いた。暗闇の中、ゆっくりと現れてくる景色。自分がその瞬間その景色を紙一枚に閉じ込めたのだという実感。何もかもが新鮮だった。

 世界は綺麗だ。そう言いきった和明のようになりたくて、朝紀はカメラの四角い視界をのぞきこんだ。その度に、今まで見てきたありふれた景色の色が変わるのを知った。切り取られた世界は、同じ景色を写しているはずなのに、驚くほど鮮やかに存在を主張する。

 人はどうして写真を撮るのか。うすっぺらい紙に思い出ぶって景色を焼きつけて何が面白いのだろう。朝紀がずっと思ってきたことだ。写真なんて撮るのも撮られるのも好まなかった。でも今は違う。人はきっと思い出を記録しておくためだけに写真を撮るのではない。のぞきこんだ四角い世界で『刹那』を感じるために撮るのだ。二度と戻ってはこない、一瞬の美しい世界を。

「俺たちの見ているこの世界はもう帰ってはこないけれど、だからこそ世界はいつだって美しいんだと俺は思うよ」

 いつだったか、和明がそんなことを言っていた。心底この世界が愛しいというように。朝紀にはまだそう思えるほどの力はない。

 今日もまた朝紀は佐山義彦の仕事場へ向かっていた。親は最近外出の回数が多いと不審に思っているようだけれど無視する。いちいち行き場所を親に告げるほど子供ではない。

 古めのエレベーターが大きな音を立てて、二階への到着を教える。短い廊下を経て、冷たいドアノブに手をかけたときだった。中から誰かが話す声が聞こえた。一人は和明だ。

「反対はされた……でも……ってみたいんだ……」

「わかって……つまり覚悟……だな」

「うん」

 なんの話だろうか。そっとドアを開ける。話していた佐山義彦と和明が振り返る。軽く頭を下げると、佐山義彦は真剣だった表情を和らげた。

「あぁ、朝紀ちゃん。いらっしゃい」

「おはよう、朝紀」

 和明も声をかけてくる。その顔が一瞬苦しそうにゆがんだように見えた。しかし、すぐにいつもの笑顔を浮かべて外を指差す。

「じゃあ早速外に出ようか。今日は天気もいいし」

 和明に言われるまま外に出る。いつもより少し歩くのが速い和明を追いかけながら、朝紀は尋ねた。

「今日はどの辺りにいくの」

「…………」

 返事がない。心配になって顔をのぞきこもうとすると、突然和明が歩みを止めた。

「和明?」

「ごめん。朝紀」

「何? 突然どうしたの」

 和明が振り向く。その表情に朝紀は息を飲んだ。和明が悲しそうな、今にも泣きそうな顔をしていたから。その口が震える言葉を紡ぐ。

「ごめん。俺、北海道に行くことにした。伯父さんがしばらく北海道で仕事することになったんだ。親には反対されたんだけど、説得した。伯父さんの仕事を間近で見て学びたいんだ。伯父さん、普段は街中にあるものを撮るのが多くて、撮影のために引っ越すなんて珍しいから、すごいチャンスなんだ。向こうで伯父さんの手伝いをしながら勉強しようと思う」

 頭が真っ白になった。何も思えない。現実を直視できない。代わりに、そういえばいつか佐山義彦のようなカメラマンになりたいって言ってたなとか、北海道ってここからどれくらい遠いんだろうとか関係のないことばかり浮かんでくる。

「そんな話、いつから」

 沈黙を消そうとやっと口を開いて言えたのは、そんなつまらない質問だった。

「一か月くらい前からずっと考えて、迷ってた。でも、俺自身が後悔したくないんだ。俺の人生を選んで生きていけるのは俺だけだから」

 正論がナイフのように喉元に突きつけられる。その通りだった。朝紀には何もできない。社交辞令のように、感情を乗せ忘れた声で聞く。

「いつ、行くの」

「九月までには……だから朝紀に写真教えられるのもこの夏の間だけだ」

 頭をガツンと殴られたような気がした。言葉がこんなに痛いものだと知らなかった。今までで一番世界が残酷になった瞬間だった。

「そう……そっか」

 まともに返事もできなかった。そして気がついた。

 そうか、和明が好きなんだ。



 冷たい水の中に差し込む、温かい陽の光。水面のきらめき。その中で泳ぐ魚は幸せなのだろうか、それとも悲しい?

 写真立ての木枠の中で静止する魚に問いかける。無論答えはない。

 この海を見たときからきっと、好きだったのだ。こんな写真を撮れる人に焦がれていた。失ってから気付くなんて言葉を残したのは誰だろう。今さら気がついてどうするのだ。遅すぎる。

 世界の美しさを教えてくれたのは和明だ。

 世界の刹那さを教えてくれたのも和明だ。

 なのに、朝紀からは何も返せていない。受け取ってばかりだ。だったら、せめて自分の中に生まれたこの気持ちだけでも渡していいだろうか。好きだと伝えても許されるだろうか。

 今この刹那も二度と戻ってはこないなら、二人の刹那を失くしてしまう前に伝えたい。

 魚は幸せなのだと信じたい。



 朝日を撮ろう。

 そう提案したのは朝紀のほうだった。二人で写真を撮れる最後の日には、とびっきり綺麗な朝日を撮りにいこうよ、と。和明はそれなら良い場所があるよ、と日にちと場所を決定した。自転車で四十分の、大河川の上を横切る橋。

「おはよう」

「いくらおはようでも早すぎるよね」

 そう言って和明は小さくあくびをした。

 和明の指摘通り、朝の四時は確かに早すぎる。睡眠時間を確保するために、昨日は九時には寝なければならなかった。まだ頭が冴えない。

「コンビニで買い物していこう」

 自転車にまたがったまま、和明が数百メートル先のコンビニを指差す。

「うん。私も朝ごはん食べてない」

 コンビニにこんな時間に来るなんて初めてだ。店員しかいない空っぽのコンビニで食料を調達する。人工的な明かりが暗さに慣れた目に痛かった。

 コンビニを出ると、自転車をこぎ出す。ふたりの最後の刹那に向かって。

 風が髪をさらっていく。自分にとってはいつも少しばかりの自由だった茶色の髪。でも、そんな世界を変えてくれたのは和明だった。世界はこの髪を自由にしなければいけないような場所ではないと。もっと限りなく広々として美しいと。

 目の前で自転車をこぐ和明の背中。明後日の今頃には、彼はもうここにはいないのだ。それがどんなに怖いことなのか、まだ想像がつかない。でも、もう生き生きとした瞳も穏やかな笑顔も見ることはない。そう思うだけで息が止まりそうだった。

「見て、朝紀。綺麗だね」

 自転車を走らせながら和明が空を見上げる。朝紀も視線を上げる。そこにあったのはうっすらと白んできた空の中で光るたくさんの星。何座の何という星なのだろう。それとも、星座にもならない名もない星なのだろうか。

「うん。綺麗だね」

「空がよく晴れてる証拠。きっと朝日が上手く撮れるよ」

「そうだといいな」

「最後の写真だから、ね。俺も朝紀に綺麗な写真を撮ってほしい」

「……うん」

 『最後』という言葉が引っ掛かって、すぐに返事を返せなかった。その言葉だけで、今この瞬間がとてつもなく儚くなるように思えた。

 それからはただ無言で自転車をこいだ。朝の澄んだ空気をひたすら吸って吐く。やがて、目の前に大きな川が現れた。水の音と匂い。

「着いたね」

「うん」

 橋の真ん中で自転車をこぐ足を止める。川の行く先を見つめる。街には存在しない濃い闇と広い空間。

 夏だというのに夜明け前の橋は寒かった。デニムのハーフパンツからのびる足が肌寒い。それでも動かずに、朝紀は朝日が昇るはずの場所をじっと見つめていた。隣では和明がカメラをいじっている。

 少しずつ空の色が薄くなり始める。やがて、赤みを帯びた地平線から光がこぼれ出した。目を突きさす朱色の光。世界に始まりを告げる色。

「うわぁ……」

 その強さに圧倒されながら、一度だけシャッターを切る。横では何度も場所を変えては和明が撮り続けている。まるで世界に魅入られたように。さらさらと流れていく時間をすくいあげるように。

 日が昇り切ると、やっと和明はカメラから手を離した。そして小さくひとつ息をつく。朝紀はそれに合わせるように深呼吸をした。

「ねえ、和明」

「何?」

「和明が教えてくれたんだよ。世界は、私が思っているよりもっともっと綺麗だって。世界は水槽なんかじゃないって。そして、それを知ったとき人は世界を愛しく思えるんだってことを。私が最初に見つけた綺麗な世界は君だったよ、和明」

「……それは俺が恋愛アンテナに引っ掛かったってことかな」

「残念だね、私が面白い人じゃなくなって。でも自分のせいだよ」

「ちっとも残念じゃないよ」

 死ぬほど嬉しいよ。そう言って和明はカメラを構えた。てっきりもう一度景色を撮るのだと思っていたら、突然レンズがこちらを向いた。カシャ。よける間もなくシャッターが切られる。不意のことに呆然としていると、照れたように笑って和明が言った。


「今までで一番綺麗な世界が撮れた」



きらきらしたものなんていらないと思っていた。

青春なんてバカらしいと思っていた。

花は枯れて終わりだと思っていた。

人を好きになることなんてないと思っていた。


 ――でも、そんな全てを集めた世界を私は愛する。


高校生の頃に書いた、一番長い作品。ほぼ改稿せずアップしました。

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