崖の下はハチミツの海
「ねぇ、もし私と子供が崖から落ちそうになっていたとして、どちらか1人しか助けることができないならどちらを助ける?」
突然、妻がこんなことを言ってきた。
僕の妻は考えることが大好きらしく、時々こんな難しい質問をしてくる。
「なんだよ、それ。いわゆる究極の選択ってやつか?」
僕は慣れたことながら、妻に悪態をつく。
仮定だとしても、どちらかを失うようなことは考えたくもない。
「そう?答えは決まりきっていると思うけど。」
と、妻は言うものの。
「僕は君を愛しているからな。切に君を助けたいと思う。だが、あの子を捨てることは絶対にできない。それでも、君を失って生きていけるほど僕は強くないんだよ。」
いくら考えても答えは出ない。
子供は自分の何に替えても、守らなければならない存在だ。
でも、妻は僕にとって欠かすことのできない存在だ。
「ふふふ。貴方って本当に私のことを愛しているのね。」
こんなに僕を悩ましているのは妻だというのになんでこんなに嬉しそうなのか。
「あたり前だろ。何年片思いしてたと思ってんだよ、くそ。」
あぁ、なんでこんなに恥ずかしいことを言ってるんだか。
妻とは幼なじみだ。
小さい頃から一緒で、僕はたぶん一目惚れだったんだけど、妻の方は恋多き女というか何と言うか。
とりあえず、美形好きだ。
僕は決してブサイクではないと自負しているが、特筆すべきところがないのは否めない。
そして、妻は美人だ。
性格もおちゃめで飽きさせない。
想像にかたくないと思われるが、今までに付き合った人の数は両手には収まらない。
告白された数なんて数えるだけ時間の無駄だ。
過去の人のうちどれだけ僕が仲を取り持ってやったか。
何故だか、妻は想う人ができると1番に相談してきていた。
頼られるのは嬉しいのだが、好きな人がいるっていうのは切ないし、それを取り持ってやるっていうのもやるせない。
なんだかなぁと思いつつも、助けてやっていた。
まぁ、美人に好かれて落ちない男はいないみたいだからしてやることっていっても高が知れてる。
そんな妻が僕にアプローチしてきたのはいつだったか。
「そろそろ私の魅力に気付いた?」
悪戯な瞳をキラキラさせてこちらを見上げる。
そんなこと聞くまでもなく、僕は最初から君の虜だというのにね。
「私はやっぱり母親だからね、子供を助けてほしいよ。あの子にはこれからたくさんの出逢いがあって、たくさんの未来があの子を待ってるはずだからね。」
なんだか、妻のこの母親としての顔も見慣れてきた気がする。
こんなに慈愛に満ちた顔をするようになるなんて、長く一緒にいるものだね。
でも、子供に嫉妬してしまう心は未だに捨てられない。
だって、妻から新しい表情を引き出したのは間違いなくあの子だから。
「あぁ。君はそう望むだろうな。」
分かってた。
もうあの頃の無邪気な妻ではない。
母は強しって本当なんだよ。
「でも、僕はワガママなんだろうか。」
少し沈んでしまう。
やっぱり、君を捨てるなんて選択を僕はできそうにない。
「そんな泣きそうな顔しないでよ。」
妻は母親とは別の顔で愛しさを露にする。
「ねぇ、ワガママ言ってもいい?」
あぁ、君は変わってしまったけれど全然変わってない。
「あの子を助けたその後は私と一緒に飛び降りて。」
あぁ、もう。
涙が堪えられなくなったじゃないか。
「私はね、君が思うより君のことを愛していて、君を必要としていて、君に依存してるんだよ。」
ずるい。
本当に君はずるいよ。
「私は少なくとも母親だから君が子供を見捨ててしまったら、君を恨まなきゃいけない。でも、そんなことしたくないから。だから、君は子供を助けてよ。」
妻は僕のもとにやってきて、僕の頭を包み込むように抱きしめた。
「でも、でもね。私は1人じゃ死ねないわ。君から離れるなんてできない。君から未来を奪ってしまうと分かっていても子供を残すことになってしても私は君を離したりしない。」
急に痛いくらいに腕に力が込められる。
こんなに迫ってくるように強気なのに、君の腕は震えているから。
僕のことを信じているくせに自分のことを信じられない君だから。
「愛しているよ。」
君の背にそっと腕を回す。
君の鼓動が伝わってくる。
「そうだね。あの子はたくさん苦労して、たくさん傷ついて、たくさん悲しんで、僕等を憎むかもしれない。それでも、僕はあの子に生きてほしいと思う。生きていれば幸せだと思える瞬間が必ずくるはずだから。」
そっと妻の縋るような抱擁を解いて目と目を合わせる。そして、
「やっぱり僕は君なしでは生きていけないよ。君からの誘いがひどく甘美に思えるから、僕は狂ってるのかもしれないね。」
君の目に、切なさの中にも喜びの欠片を見つけて微笑む。
「じゃあ、そのときは一緒にいよう。そして一緒に永久になろう。」
そっと妻の額に口づける。
その次は目尻に。
頬に。
そして、唇に。
「あははは。君にしてはクサイセリフだね。」
よかった。
君が消えてしまいそうな程の孤独感がそっと霧散していった。
そこで僕も少し正気に戻ってきた。
「赤くなってる!かわいいんだから。」
君の方がずっとかわいいだなんて今は言ってやらない。
しばらく僕は妻に笑われ続けた。
「そうだ。今日は何の日だか分かってる?」
唐突にまたそんなことを言う。
そんなところも君らしいと僕は思うのだけれど。
「今日か…?お互いの誕生日でもないし、結婚記念日でもないよな。そして、恋人になった日でもない。」
記念日好きな君の影響か、僕の記憶力がいいのか、そういうことは覚えているはずだ。
それなのに思い当たることはない。
「時間切れ!」
君はまた悪戯な瞳を輝かせる。
「今日は私たちが出逢った日。そして、2人が恋に落ちた日だよ。」
「は!?ちょっと待てよ」
混乱で眩暈がする。
「なんで僕等が出逢った日なんて分かるんだ?」
「実はね、この前実家に帰った時に見つけたの。あの時の写真。ここに日付があるでしょ。」
そうして妻が差し出したのは、色褪せた1枚の写真だった。
確かにそこには今日と同じ日付が刻まれている。
「ほら見て。この写真、君は私を優しく見つめてる。一見、私はそっぽを向いているようだけど手は君の服の裾を強く握ってる。たぶん、あの時からずっと私には君で、君には私だったんだよ。」
妻は嬉しそうに愛おしそうに写真を撫でる。
「それにしては、たくさんの人を好きになったみたいだけど。」
いつもの仕返しだというように僕は妻を責めるようなまなざしで見つめる。
「たくさんの恋を経験したから、私はこんなに魅力的になれたのよ?それに、きみは絶対に私を諦めないって信じてたから。ある意味、君に甘えてたのね。私は君を愛してるんだから。」
妻はあまりに蠱惑的な微笑みを浮かべる。
してやられた。
あぁ、もう。
言葉では勝てないから。
ただ力強く、それでも優しく、ただただ甘い抱擁を君に。