放課後の出来事。
文芸部部誌・題「自由題」より
放課後の美術室は、赤く夕暮れに染まっていた。樹陽菜はパイプ椅子に座って、真ん前でスケッチブックに向かっている神崎智浩を観察するように、まじまじと眺めた。というよりも、それしかすることがなかったのだ。
(いつになったら終わるんだろう…。っていうか、ずっと沈黙って…)
神崎は、スケッチブックに向かって描き出してから、一度も喋らない。元々、樹と神崎は友達でもないし、まして恋人なんかでもない。ただのクラスメートだ。会話を交わしたことだって、事務連絡のようなものだけ。それがどうして神崎の描く絵のモデルになることになったのか。その原因は、三日前に遡る。
三日前。放課後の誰もいない教室で樹はある人物を待っていた。俗に言う「愛の告白」をするために。相手の男の名前は岸口雅人、クラスメートだ。誰よりも早く登校して、彼の下駄箱に手紙を入れた。
〈岸口くんへ 放課後、教室で待っています。あなたに伝えたいことがあるのです。 樹〉
そう言うわけで、樹は待っていた。岸口が訪れるのを、心臓を高鳴らせながら。
どのくらい待った頃だろうか。何とも言えない緊張感と高揚感とで時間感覚が狂ったみたいでよく解らない。教室の時計も六限の途中で狂って壊れてしまっているので確認することもできない。けれど、確実に時間が経っている。その証拠に、すっかり夕暮れで教室は赤く染まっている、と。コツン、コツン。足音が聞こえて、樹のいる教室の前で止まった。
(来た…?)
ガラッと勢いよく扉が開く。そして、やって来たのは……。
『あんたって、阿呆だったんだな』
恥ずかしくてどうしようもない程にうなだれる樹に、かけられたのは呆れきった調子の神崎の言葉だった。
『手紙入れる場所間違えるとか、阿呆だろ? 確認とかしなかったわけ?』
そう言って、樹の机の上に今朝下駄箱に入れた手紙を開いて置いた。可愛らしい花柄の便箋にピンク色のペンで書かれた手紙。この気合の入れぶりが、いっそうのこと恥ずかしさを増長させる。
『……ごめん』
『まあ、本人じゃなくてある意味良かったかもね。こんなの貰ったら普通の人間はドン引きするよ』
もっともな意見だと思った。なんというか、手紙を書いていた時はテンションが異常に高かったのだ。そうでもなかったらピンク色のペンなんて使わないだろう。
『朝っぱらから何の嫌がらせなんだって思った』
『本っ当にごめんなさい! わざとじゃないの!』
樹はひたすらに謝るしかなかった。恥ずかしすぎて顔は真っ赤になっている。
『岸口に渡そうか、とも思ったんだけど』
『な! それだけは、勘弁!』
樹はもう必死だった。一時のテンションに任せて書いたこっぱずかしいラブレターを本人に晒すなんて、嫌すぎる。それに、冷静に考えればあんなのが岸口の手に渡れば確実にフラれてしまう。
『……どうしようかな?』
神崎はニヤリと嫌な笑顔を浮かべた。樹は、今年初めて彼と同じクラスになっただけで、話したことすらろくになく、どんな性格なのかなんて全然知らない。
『お願い! なんでも言うこと聞くから!』
だから、こんな言葉を口走ってしまったのだ。
『そう、なんでも言うこと聞いてくれるんだ』
神崎の満面の笑みが背筋が凍るほどの恐怖を感じたときには、後の祭りだった。
「ねえ、なんで私をモデルにしたの?」
とても集中している神崎を見ていると、声をかけるのが忍びなくずっと黙っていたが、それが三日目となると、自然に緊張感が緩んでくる。
「モデルって面倒だろ?」
神崎は鉛筆を動かす手を止めずに答える。
「うん、暇だし」
「だから」
「だから、って、え? どういう意味?」
「他人にわざわざ頼むのも面倒だし、前に知り合いに頼んだときなんて、ケーキ奢らせられた。だから、タダでしてくれたら、ラク。こっちも気を遣わなくていいし」
「……そうか、なるほど」
「まあ、そんなに気を張らなくてもいいよ。喋りたかったらいくらでも喋っていいし。缶ジュース一本くらいなら奢るよ」
「え、いいの」
「うん。せっかくモデル頼んだのに、緊張した顔と、ぶすっとした暇そうな顔ばっかりしてるなら意味ないし」
「そういうもんなの?」
「まあね」
その日の帰り道。駅までの道中、神崎は約束通りにオレンジジュースを奢ってくれた。
*****
「樹ちゃん、こんにちは」
放課後の和室にて。襖をがらりと開けた樹を待っていたのは、書道をする準備をしていた佐渡要だった。
「なんか、久しぶりだよね」
「そうだね」
書道部の活動は週に一回で、先週は中間試験だったので、休みだった。部員は樹と佐渡の二人きりだ。ちなみに、部長は佐渡だ。
「浅見先生が、校内掲示板に作品を展示するから、来週末までに気に入った作品を提出するようにって言ってたよ」
「うん、了解。確か、再来週が文化部発表ウィークだったね」
この高校では年に何回か文化部発表ウィークという、文化部が活動を発表する機会がある。書道部は、毎回校内に作品を展示させてもらっている。
「そう。できれば、大きくて目立つのが良いんだって」
「うあー。大変だなあ」
「頑張らなきゃね」
うなだれる樹に、佐渡は優しい笑顔で柔らかく微笑んでくれた。(ああ、本当にサワくんは癒し系だなあ)
「そういえば、クラスの子が話しているのを聞いたんだけど、樹ちゃん、神崎くんの絵のモデルをしてるんだって?」
「……まあ、ね」
まさか、佐渡に知られているとは思わなかった。
ここ数日、神崎の絵のモデルをしていたが、今日は部活があるので無理だと言ったら、解ったと納得してくれた。
『書道部、頑張れよ』
樹が何の部活に入っているか言う前から、知っていたのには驚いた。樹は神崎が美術部だと言うことすらモデルをすることになって初めて知ったくらいなのに。
「ふう、頑張るか」
準備を終えて、半紙に向かい気合いを入れて集中した。
*****
「それって、水彩絵の具?」
神崎のモデルを初めて一週間くらい経った頃。ずっと、スケッチブックに鉛筆を使っていた神崎が、絵筆を握っていた。
「うん。まあ、だいたいスケッチできたし、そろそろね。絵画展の締め切りまで日がないし」
「そうね。……って、え? もしかして、私がモデルの絵ってそれに出すやつなの?」
「そうだけど?」
大袈裟なくらいの驚きように神崎は怪訝そうな顔で、樹を眺めてくる。
「私、てっきり文化部発表ウィークに出す用の絵だと思ってた」
「ああ、あれか。俺は今回パスしたから」
「え、それってアリなの? 書道部は絶対提出しなきゃいけないのに」
「美術部は緩いから、あんまりどうこう言われないんだ。部員も基本幽霊ばっかりだし」
そう言われてなるほどと思った。美術室で神崎以外の部員を滅多に見ないのだ。彼曰く、美術部で実質活動しているのは部員十八名中、彼含め五人ほどらしい。
「そうなんだ……」
「ま、文化部発表ウィークはあんたの作品見るの、楽しみにしとくよ」
珍しく嫌味のない柔らかい笑みを浮かべた神崎に、思わずドキリとしたのは気のせいか。何故か物凄く照れ臭いような気持ちになってきた。
「期待してなさい!」
馬鹿みたいに大きな声で宣言すると、神崎は、あんたって本当に莫迦だな、と言って大笑いした。
*****
「ねえ、あなたが樹さん?」
放課後。教室掃除を終えて、神崎の絵のモデルをするために美術室へ向かっているとき、見覚えのない女子生徒に話しかけられた。
「はい。樹ですけど」
そう答えると、彼女はほっとしたふうに、間違えてなくて良かった、と言って微笑んだ。
「私、河野です」
「はあ…」
「突然ごめんね。樹さんがどんな人か気になって」
「え、私?」
いきなり何を言い出すのだろう、と思った。樹は人の名前を覚えるのが苦手で、同じクラスにでもならなければ他中学出身の人の顔は覚えていない。だから、彼女のことも知らないのだが、どうして彼女は樹のことが気になったのだろう。
「智浩のことよろしくね。あいつ、ぶっきらぼうで無口でそれはそれはとっつきにくい性格してるんだけど、結構いい人だから」
褒めているのだか貶しているのだかよく解らないことを彼女は力説する。
「あの」
「本当によろしくね。もう、智浩に彼女ができるなんて本当に驚いたんだから。あ、今度ダブルデートしようね。私にも彼氏がいてね、夢だったのよ、ダブルデート!」
口を挟もうとしても、できないくらいの高いテンションでマシンガントークをする彼女に、樹は何も言えなかった。彼女が何のことを言っているのだか意味不明なことだらけだが、物凄く勘違いしていることだけは解る。
「あ、ヤバイ! 部活始まっちゃう! 私、サッカー部のマネージャーをしてるの。それじゃ、また今度ゆっくり話そうね、陽菜ちゃん!」
嵐のように唐突にやって来た彼女は、多くの謎を残して走り去ってしまった。なんというか、これは訂正とかした方がいいのだろうか。そして。
「トモヒロって誰だ?」
「…乃絵だな」
休憩時間に、廊下で出会った女子生徒の話を神崎にしてみると、うんざりした様子で彼は名前を呟いた。
「乃絵? えっと、河野、乃絵さん?」
「そう。俺の幼なじみ」
神崎はそう言って、自販機で買った缶コーヒーを口にした。樹も神崎が奢ってくれたミルクココアを口にする。モデルをすることにも、神崎と二人だけの沈黙の空間にもいつの間にか慣れていた。喋ってもいいと言われた最初の頃は本当に沈黙が嫌で絵を描いている神崎に話しかけ続けていたが、この頃は何も話さずにいる時間の方が長かった。そして、神崎が途中で休憩の時間をとるようにしてからは、その時間だけ他愛のないことを話すようになった。
「じゃあ、トモヒロって誰か知ってる?」
ある意味一番気になっていたことだ。彼女はその彼と樹が付き合っていると勘違いしている。一体、どこの誰なのだろうか。神崎は樹の質問にげんなりした顔で溜息をついた。
「……俺だよ。神崎智浩」
神崎にそう言われて絶句した。え、まさか。
「私と神崎くんが付き合ってると思っているわけ?」
「みたいだな」
気恥ずかしくて顔が熱くなってくる。けれど、神崎はどこ吹く風で全く意に介していないように見えるのが悔しいような切ないような。
「あいつは、色々思い込み激しいから。気にしなくていいよ」
神崎はさらっと言い捨てて、これで休憩は終わりとばかりに大きく伸びをした。樹は、何とも言えない気持ちのまま、真剣な表情で絵を描いていく神崎をただ見つめていた。
*****
「はあ…」
一週間に一度だけの書道部の活動日。いつもはわりかしすぐに集中できるはずなのに、今日はまったく集中できない。
「樹ちゃん、大丈夫?」
佐渡は書き終えて筆を置くと、樹を心配そうに見やりながら尋ねてきた。
「大丈夫、じゃないのかな…」
自分の気持ちのはずなのに、自分でもよく解らなかった。心の中が物凄くもやもやとしているのだが、その原因が解らない。この気持ちはなんだろう。
「岸口くんのこと考えてるの?」
「え? どうして岸口くんの名前が出てくるの?」
佐渡の質問に質問で返す。すると、彼は怪訝そうな顔をして、言った。
「だって、樹さんは岸口くんが好きなんだよね?」
*****
昼休み。お弁当を食べ終えた樹は机に突っ伏していた。最近、よく眠れなくて授業もろくに集中できない。神崎は同じクラスなのだが、彼は教室の騒々しさが嫌いらしく昼休みはいつも教室にいない。それに安心している自分の気持ちがよく解らない。
「樹。ちょっといい?」
名前を呼ばれて、のろのろと顔をあげる。すると、そこにいたのは。
「岸口くん…」
樹の憧れの、好きな人。話しかけられるなんて初めてのことで、どう反応したらいいのか解らない。
「この前は、乃絵が色々勘違いして迷惑かけたみたいで、ごめんね」
彼は申し訳なさそうに謝って来た。あれ。頭の中に疑問符が浮かぶ。そして、驚くほどすんなりと答えが出てきた。
「河野さんの彼氏って、岸口くんだったんだね」
樹がそう言うと、岸口は少し照れくさそうに笑って、まあね、と肯定した。そして、彼は自分の席へ戻っていく。
(ああ、失恋しちゃったんだ)
ぼんやりと心の中で呟いてみる。失恋すると、この世が終わったみたいな悲しい気持ちになるのかと思っていたが、意外とそうでもなかった。
なんだ、失恋ってこんなものなのか。
「あ、神崎。やっと戻って来た!」
神崎の名前が出てきてはっとした。声のした方に目線を遣るとそこには彼がいて、声をかけたクラスメートと話している。彼は、クラスでは静かで自分から話したりするようなタイプではないが、いつみても周りには誰かしら人がいる。
「本当に。神崎くんっていつもどこに行ってるの?」
彼の周りにいる人の中には女の子もいて、彼女の問いかけにも言葉少なながらもきちんと答えている。
「神崎って謎なキャラだよな」
「なんだよ、謎って」
「言葉通りだよ」
「失礼な奴だな。次の時間の数学の課題見せてやらんぞ」
「うげえ、ごめん、ごめん! 謝るよ。だから、ノートを」
「どうしようかな」
「本当にごめんって! 神崎、頼むよ!」
楽しそうな言い合いに、その会話の中にいなかったクラスメートたちも、笑っている。だけど、樹は笑えなかった。
樹は、かなりの人見知りでクラスでも親しく話せるような人はあまりいない。友達も片手でたりる程しかいないし、それに対して特に不満に思うこともなかった。一人で過ごすことは苦ではなかったし、むしろ楽だった。樹は人に執着しない人間だったから。だから、周りが楽しそうにしている様子を見ても別にどうでもいいと思っていたし、その輪の中に入りたいなんて思ったことがなかった。それなのに、今感じているこの気持ちはなんなのだろう。
「今まで、ありがとう」
放課後、神崎と過ごすことがいつものことのように感じるようになってきた頃。美術室へ行くと、いきなり礼を言われた。
「え、何?」
「絵が完成したんだ」
その言葉を聞いて、ついにやって来たか、と思った。
「昨日、少し調整して完成した」
樹は昨日、書道部の方へ行っていた。
「よかったね」
そう言うと、神崎は嬉しそうな顔をして笑みを浮かべた。樹は、彼がいかに真剣に絵に取り組んでいたのかをずっと近くで見てきた。だから、一番に喜ぶべきだと思う。けれど、絵がいつまでも完成しなければいいのにと思っている自分がいた。
「絵ってどこに置いてあるの?」
神崎が描いている絵を、樹はまだ一瞬も見たことがなかった。彼が真剣に取り組んできた成果がどんなものか、物凄く興味がある。
「内緒」
「どうして? 私に、見せてくれないの?」
神崎の返答に、樹は首を傾げる。
「今は、まだね」
何か含みのあるような物言いで。樹の頭の中には疑問符が次々浮かび上がる。
「いつかは見せてくれるの?」
「時が来たらね。ま、期待してなさい! みたいな、ね」
神崎はいつかの樹のセリフをモノマネして言う。うわあ、性格悪いな。だけど、こんな風に砕けた調子で喋る彼が珍しくて、自然と笑顔になっていた。
「じゃあ、期待してるから!」
*****
〈今日の放課後。美術室へ来るように。 神崎〉
朝、登校してきて下駄箱を見ると、折りたたんだ水色の紙が入っていた。神崎の絵が完成して三ヵ月。出会えば、挨拶くらいはしたが、美術室で二人きりでいたときのように親しく話すこともなく、時間は過ぎていた。
(一体、何だろう?)
そう思いながらも、心が弾んでいた。この気持ちを何と表せばいいのだろう。
「おはよう。樹ちゃん」
後ろから声をかけられて振り返る。そこにいたのは佐渡だった。
「おはよう!」
挨拶を返すと、佐渡は驚いたような顔をして、すぐに柔らかく微笑んだ。
「よかった」
「え、何が?」
「この頃、沈んだ顔をしてたから。よく解らないけれど、元気出たみたいでよかった」
「サワくん…」
彼は樹が思っていた以上に鋭いみたいだ。神崎とあまり話せなくなって少し落ち込んでいたのも、普段通りにしていたつもりだったのだけれど、佐渡にはまるわかりだったのかもしれない。
「ありがとう」
樹がそう言うと、別に何もしてないよ、と照れたように苦笑していた。
放課後。美術室へ行くと、神崎はまだ来ていなかった。今日、樹は掃除当番に当たっていない日だが、彼は確か第二会議室の掃除に当たっていた。
通学鞄を机の上に置いて、窓際の方へ行き窓を開けた。緩い風が入ってきて、樹の肩まである髪がゆらゆらとなびく。ここからはグランドが一望でき、運動部の掛け声も風に乗って聞こえてくる。
(あ、河野さん)
グランドの端にある手洗い場の近くに見覚えのある、可愛らしい女の子が見える。そして、彼女は気付いていないようだが後ろには岸口がいて。彼が彼女の肩を叩いて、何かしら話すと、彼女はとても嬉しそうに笑っていた。
(ああ、ああいうのがお似合いっていうのかな…)
岸口が好きだったはずなのに、二人が仲良くしている姿を見ても悲しいとも、悔しいとも思わなかった。
「泣いたりはしないんだね?」
あまりに集中していたせいか、後ろから近付く気配にはまったく気付かなかった。
「……神崎くん」
「岸口が、好きなんだろ」
その声はどこか不機嫌そうで、一体どうしたんだろうと、樹は思う。
「たぶん、好きだけど。そんなに好きじゃなかった」
ずっと自分の気持ちが解らなかった。岸口が好きだと思ったし、告白までしようとしていた。だけど、彼に彼女がいることを知っても、自分で驚くくらい悲しくも辛くもなかった。
「きっと、恋じゃなかった」
考えてでた結論がこれだった。
「岸口くんは明るくて爽やかで、部活しているところとかすっごくカッコ良かったし。たぶん、私の理想像そのままだった」
神崎は口を挟まずに、樹の言葉を真剣に聞いているようだった。その顔に、樹の心臓はトクンと音を立てる。
「でも、それだけだった。遠くから見ているだけでも楽しかったし、変なテンションでラブレターまで出そうとしたり、告白しようとしたりなんてしてたけど、そんなことしなくても十分だったの。別に、恋人になりたかったわけじゃないって今なら解る」
言いきって、笑顔をつくって見せた。すると、神崎は樹の頭の上に手を乗せて髪をぐしゃぐしゃにして撫でる。
「何?」
彼が何をしたいのかが解らない。そして、彼に触れられて速くなる自分の心音がもっと解らない。
「嬉しくて」
「へ?」
ますます、頭がこんがらがる。樹が本当は岸口が好きじゃないと知って嬉しいなんて、まるで。
「こっち来て」
神崎に手を握られて、今度は心臓どころか頬まで熱くなってくる。手を引かれて、美術準備室へ入る。そこには、色々なものがごちゃごちゃに置いてあった。そして、その中にある一つの水彩画に目がいった。淡い色遣いで、優しくて繊細なタッチの絵。
「これが、神崎くんの描いた絵?」
全体的に水色が使われた、海の中にいるみたいな背景の中に、微笑む樹がいる。自分でも見たことないくらいの優しい表情を向けていて。
「あれ、でも絵画展の締め切りって……」
絵を描いている時に聞いた締め切りはもうとっくに過ぎているのではないだろうか。
「あの時、描いてたのとは別のやつだよ。夏休み、ずっとこの絵を描いてた。あんたに、渡したくて」
彼の意外な答えに樹は訳が解らなくなった。
「…私のために描いてくれたの? どうして?」
「あんた、鈍いね」
「鈍い? 私が?」
一体なんのことを言っているんだろう。
「せっかくあんたの真似して、朝早く来て手紙入れて、放課後に呼び出したりしたのに。気付かないとは、ね」
神崎は呆れ顔で、そんなことを言う。樹は彼の言葉を聞いて、考える。けれど、脳内に思い浮かぶのは自分にとって都合のいいことすぎて、彼に言ったら嫌がられそうなことばかりだ。
(神崎くんが私のこと、好きなんて……)
「今、頭の中に浮かんだこと、言え」
脳内を盗み見られたようなタイミングでそう言われて、樹は戸惑うし、焦る。どうしよう。
「ほら、さっさと言えよ」
目線を合わせたくないのに、神崎に強く肩を掴まれて見つめられれば、逃げることはできなかった。だから、蚊の鳴くような声で彼への想いを告げた。
神崎は嬉しそうに微笑んで、樹の耳元に言葉を紡いだ。
「俺も、ずっと好きだった」
それは、夏の暑さがまだ残る、放課後の出来事。