第5話 「代々木公園にて」
「あなたがたのうちに羊を100匹飼っている人がいて
そのうちの1匹が迷子になったら、
その人は99匹を荒野に残して
いなくなった1匹を見つけに出掛けないだろうか」
マタイによる福音書 第18章 第12節
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僕が目指した代々木公園は都内で4番目に大きい公園で、近頃はデング熱のウィルス騒動の発端の場所として有名だが、その頃は全くそんな話は出ていなかった。
普段は公園のそこかしこで楽器の演奏が行われ、晴れた日は何十人という人が芝生にシートを敷きピクニックを楽しむ。
僕は自転車でそこに向かい、園内でギターを演奏し、あわよくばおひねりでも頂いてそれで夕飯を食べようと目論んでいた。
また代々木公園は、今まで僕が行ったことのある神社で一番好きな明治神宮と隣接している。
「神社があったら休憩するルール」に則り詣でようと思っていたが、僕が代々木公園に到着した頃にはすでに18時近く、神宮の閉門時刻が迫っており、お参りは翌日にすることにした。
ちなみに明治神宮の閉開門時間は日照時間に合わせて月毎に異なり、5月の立ち入り可能時間は朝5時から18時10分までであった。
代々木公園の中心部近辺には小さい噴水のある泳げないプールが50メートル程続いていて、その両脇に
白いセラミックのような素材のベンチがプールを挟んで向かい合うように設置されている。
僕は自転車を駐輪場に止め、そのベンチに腰をかけ
ギターを取り出した。
ここで僕はあることに気付いた。
僕は、自転車を運転していても背負えるようにナイロン製の薄手のリュックのようなソフトケースにギターを入れてここまで来ていた。
通常ギターを路上で弾いておひねりをもらう人はお金の受け皿としてハードケースを道に置く。
しかし僕のケースはふにゃふにゃで、それは出来ない。
これではお金を貰いようがない。
仕様がないので僕はただベンチに座って1人コンサートをすることにした。
今までギターが思うように弾けなかった分僕は思うさまクラシックギターを演奏した。
自分が楽譜を見ないで最初から最後まで通して弾けるギターソロの曲は20曲程度だったので、その曲達をローテーションで繰り返した。
僕は楽器販売員で、なまじ毎日ギターに触るので余計に演奏したい欲求が募っていたのだろう、音は次から次へと紡ぎ出された。
人だかり、とまでは行かないまでも、僕の前を通る人が入れ替わり立ち代わり足を止めて聞いてくれた。
日が落ち、すっかり暗くなっても、人通りはなかなか途切れなかった。
ようやく人がまばらになった時、公園の時計で23時になっていることが分かった。
プールの側の上に木も多く、日中より気温がぐっと下がった。
僕は半袖のTシャツとその上に半袖の襟の付いたシャツしか着ておらず強い寒気を感じたので、実家から持ってきたダウンを着こんだが、あまり冷えは和らがなかった。
思えば、僕と妻が出会ったきっかけは代々木公園で僕がギターを友人に教えていたからだった。
そこに妻の友人が声をかけて来てくれたのである。
僕は出発からずっと携帯電話の電源を切っていた。
電源を入れてみると、留守番電話もメールもラインも何件も入っていた。
僕はラインだけ既読にし、また携帯電話の電源を切った。
妻からのラインは最初怒った口調だったが、どんどん詫びる態度になり、心配する言葉に変わっていった。
自分の中でここまで来たら引けない、というところまで来ていた。
僕は妻に返信出来ないまま、少しでも暖かい場所を求めて公園をさまよった。