第2話 「鬱憤」
「明日のことを思い患ってはならない。
明日のことは、明日自身が思い患うだろう。」
マタイによる福音書 第6章 第34節
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僕は妻からの自転車での逃避行の間、ひとつのルールを自分に課した。
それは「神社を見つけたら休む」という事であった。
自転車での運行が続くと当然臀部や足腰が痛くなるが僕はその時怒っていたので、無理してどこまでも走り続けてしまいそうだったのだ。
また、本当に悪いのは僕なのではないか、とか、
これからどうするべきか、という疑問と向き合うためにも静かな場所での休憩は効果的であるように思えた。
僕は大多数の日本人と同じように、特定の宗派を持たず毎年初詣をし、バレンタインとクリスマスに浮かれ、実家にはお仏壇があり、お盆とお彼岸にお墓参りをする。
だから別に神社に対して強い信仰心があるわけではないが、大抵の寺社仏閣は空が広く見えるように出来ていて、静かで、心地良いので好きだ。
僕は自転車を漕ぎ出してから、ものの20分程で最初の神社でお参りをした。
勿論すっからかんなのでお賽銭は出せなかったが、礼をして、ちゃっかり柏手を打った。
そもそもなぜそんなに僕が怒ったかというと日頃の鬱憤が溜まっていたからである。
なぜ鬱憤が溜まっていたかというと、「ギターが弾けないから」である。
僕は34歳のアコースティックギターのショップの販売員で高校生の頃からずっと、ギターを弾いて生きてきた。
しかし2年半前に結婚してから、妻が僕のギターの練習やライブ活動を煙たがり、ろくにギターが弾けないのであった。
子供はまだ授かっていなかった。
僕はろくにギターが弾けなくなったことを、最愛の人に自分の歴史を否定されたように感じて傷付いた。
それでも好き合って結婚したもの同士として僕は妻の意見を尊重しようとした。
ふたりでいる時に僕がギターを弾けば、妻は暇である。
しっかり弾けてない箇所を繰り返し聞かされるのは
耳障りに違いない。
また、例えばライブ前などに僕は集中し、緊張するので普通のふたりの間の空気とは違う、やや緊迫した雰囲気になる。
それがいやだと妻が言っていた事もあった。
しかし、僕はずっとギターと共にあったし、ギターの販売員を生業としている。
ギターが弾けない程度で家出するくらいなら結婚するな、と言われればぐうの音も出ないが、それでも弾きたいのである。
心から。
そんな思いが積み重なっていたときに、妻に喧嘩の末に強烈な嫌味を言われ、風船が破裂するように僕は外へ飛び出した。
ふたりとも、少しだけ生活に倦んでいたのかも知れない。
自転車は人も車もお店も多い青梅街道をぐんぐん進んだ。
次の神社はなかなか現れなかった。