四話
曹操は失望した。人とはなんと脆弱なものか、と。
邪教に魅せられた者は死を厭わない。
彼らは何を見つめ、どこへ向かうのだろう。
袁秀軍駐屯の陳留南西、許昌では評定が開かれ、曹操軍きっての重臣が一同に難しい顔を並べていた。前線の朱霊からは「兵は落ち着きを取り戻しつつある。敵との膠着状態に入った」との連絡が入った。
敵将は楊晏。出自は不明であるが、どうもならず者上がりらしい。眉目秀麗であるらしく、また腕が立つという。目立った軍功がなく、情報が少なかった。何度か夜襲を仕掛けては返り討ちにされたが、それは勢いに乗る軍勢特有のものか。はたまた楊晏の武勇か、それともまた、まだ見ぬ参謀、朱倫の智謀故か。
朱倫とは何者なのか。商家の息子で私塾を開いていたと聞くが――。
主だった名士の中でその名に覚えがある者はいない。
――身分を偽っている?とにかくもって、何もかもが不明なのだった。
どれにしても戦況は芳しくなく、諸将は頭を抱えるばかりだった。
「孟徳」
「うむ、話せ」
「あの鼠野郎……劉備は袁譚の下に逃げ込んだらしいな?だから殺せといったのだ、お前に」
口火を切ったのは夏候淵。曹操の従弟である。曹操軍随一の猛将でもある。
先ほどから目が血走っており、見た目は完全に危ない人と化している。兄の夏候惇が捕縛され、苛立ちは募るばかりである。
不在の下邳では、代わって陳登が指揮を採っていた。陳登は呂布軍の降将であるが、北上する孫策を計略により幾度も打ち払った知将である。
「……左様だ。袁譚など小者、臆する必要などない。臆病者の劉表は孫策に備え荊州から出ては来ぬし、西の李傕には曹洪がおれば十分だろう。目下の敵は袁秀というわけだ。副将の高宮なる妖術遣いは相当の手練れと聞き及ぶ」
孟徳こと、曹操は思案顔だった。
「私は信じられません、丞相。天候を操る、不知の病を癒す、更には死んだ者を蘇らせる、などと……とても人の業とは思えませぬ」
すかさず荀攸が口を挟んだ。「無論、噂に尾ひれがついたのでしょうが」と付け加えるのを忘れなかった。この男も噂には懐疑的であり、至極常識的な人間の一人である。
刹那、于禁は離席したかと思うと、その場に平伏した。
「夏候惇殿が捕らえられ、こうしておめおめと逃げ帰るなど面目次第もござらん。いかような処分も謹んで受ける所存」
「もう良い、于禁。あまり自分を責めるな」
「はっ、申し訳ございません」
「まるで黄巾のようだ……太平道の張角か、懐かしいな。あの頃は何進大将軍も董卓も健在だった」
「い、今は感傷に浸っている場合ではございませんっ!夏候淵将軍や、徐晃将軍、荀彧殿が睨みを聞かせているからこれ以上の侵攻を防げておるのです。許都まで落され、帝を奪われるようなことなどあっては、我々が賊軍とされるのですぞ。ああ、おぞましい。おぞましい」
と、陳羣。頭は切れるが胆力は諸将に劣ると評される。あくまで参謀であって、軍師向きではない、と見られている。
「袁紹はすでに各地に檄文を送っているとか。おそらく次の標的は分断された下邳。北から袁譚と劉備、西から高宮と挟撃する腹づもりでしょう。孫策が万が一懐柔でもされた場合には……」
しばしの沈黙。
「「……」」
「まっ全滅でしょうねー」
飄々とした口調とは裏腹に血の気のない顔。口元は道化のように、綻ばせたまま動かない。
曹操遠征軍次席参謀、郭嘉であった。若手ながら頭角を現し、洛陽にて袁紹軍の高幹に備える筆頭参謀、荀彧の後継と目されていた。
諸将は押し黙るしかなかった。曹操のお気に入りには逆らえない。軽口を叩いているようだが、この男の発言には必ず根拠があり、彼の言は現実に起こるのだ。どこか予言者地味たところがある。
「夏候淵将軍は守りには向いておりませんし、下邳の楽進殿は言わずもがな。目付けの李典殿では抑え切れますまい」
「ではどうすべきだと、郭嘉殿」
曹操の親衛隊長代理、曹休は苛立ちを隠さない。彼は不遜な郭嘉を毛嫌いしている節がある。
「捨てましょう。陳登はもはや亡いですし、何も阻む者はおりますまい」
「なっ何を……今なんと?」
「陳登は楽進に首を刎ねさせました。邪教に毒されておりました故」
言うと、密通の書状を懐から放り投げた。郭嘉は机上に落ちたそれを冷ややかに見つめていた。
「……楽進では長くは持ちますまい。さて、いかが致しますか?丞相」
「勝手をするな、郭嘉」
曹操は名剣、青紅に手を掛ける。獣のような鋭い眼光。
「……死にたいようだな、郭嘉」
郭嘉は意に介さない。背伸びまでしてみせた。全く道化である。
「それも良し……とあえて申しましょう。ですが、私は今為すべきことを為すだけです。それで死すとあらば本望にて」
かっかと笑う郭嘉。
「ふっやはり貴様は小賢しいな。まあ良い、好きにせよ」
「御意に。では速やかに引き上げるよう伝えます」
「わかった」
曹操の唇からはわずかに血が滲み出ていた。
下邳城内は混乱していた。陳登が処刑されたという。
孫策も北上に備え、戦支度を進めているらしい。今のところ袁譚には動きはない。
「引き上げるぞ、李典」
「お断り致します」
「ぶさけるな、李典」
「貴方も民を見捨てるというのですか?丞相による虐殺の傷跡、いまだ癒えぬというのに?我々が支えずして何としますか。それでも丞相は為政者ですか。覇者となるべきお人ですか!」
「命令に背くつもりか、李典。やめておけ。……お前を死なせたくはない」
「楽進。本当に申し訳ない。私はここに残ります。残って賊と戦います。人々の嘆きを救うのは邪教ではない。同じ人なのだと」
李典は剣を抜き、机を両断した。李典は楽進を真っ直ぐに見つめていた。
「家族を……頼みます」