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二話

 朧月夜。寝苦しさを感じ、男は思わず身を起こす。

 汗がまとわりつき、不快極まりない。

 まるでそう――あの時のどす黒い血のように。洗っても洗っても落ちなかったあの鮮血のように。蛇のように絡みつく嫌な汗。悪夢を見た日は決まっていつもそうなのだった。


 気付けば、すぐ隣で寝ていたはずの童女が枕元に正座で眼をぱちくりさせていた。

 

「せんせぇ、おきてるの?」

「はい、起きてますよ」

「だいじょーぶ?」

「心配無用です。君はもう寝なさい。私のことは気にしないで」

「きにするよ、だってせんせぇはだいじだもんねっ」

「そうですか、ありがとうございます。でも本当に大丈夫ですから。おやすみ、小瑤しょうよう

「うん、せんせぇもおやすみっ」

「はい、おやすみなさい」


「一年前のことですかね、もう」


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 すくえばすぐに消えて無くなってしまう――そんな淡い雪が降る冬のことだった。場違いに幻想的な光景に刹那、男は心を奪われた。こんなにも季節は巡っていたのか、と。


 黒旗兵こっきへい。群雄、呂布奉先りょふほうせんが鍛えに鍛え上げた自慢の騎馬隊だ。本来であれば、鮮血に染められた彼の愛馬もここに連ねているはずだったのだが――はもういない。


 男、呂布奉先は得物えもの方天戟ほうてんげきを天に掲げ、馬上から(げき)を飛ばした。


「行くぞ、貴様らァ、開門だァっ!」


 けたたましく銅鑼どらが鳴った。出陣の合図だ。


「開門!開門だァ!」


 すぐさま麾下きかは言葉を繰り返し、繰り返し。言葉は数珠繋ぎのように一つの長い塊となって大きく城内に木霊した。


陳宮ちんきゅう


 戦場からあまりに浮いた、烏帽子えぼしのような兜を被った長身の男に向かい、呂布は語りかける。


「はい」


 そうして一言、彼はこう言って――。


「死ぬな」


 ――城を跡にした。陳宮は言葉に詰まり声がでない。なんとか振り絞ったのか、喉を鳴らして懸命に叫んだ。彼の背中越しに。


「奉先殿、ご武運をっ!」


 陳宮は必死に溢れ出る涙を呑みこんでいた。


「『死ぬな』とは無茶を仰る」


「敵単体で少なく見積もっても8万ほど。加えて日和見の豪族連合の1万と劉備の増援軍5千も間もなく到着する、計9万5千」


「対して我らは2万と少し……臧覇(ぞうは)将軍の5千は敵の別働隊に釘付けにされているのでしたね」


「はい」


 傍らの鎧武者は頷く。


「腹を括るしかないのです、軍師殿」


『軍師殿』と強調して言った。はっきりとわかる。「お前のせいだ」そう言われているような気がして、腹に鈍い痛みが(はし)った。


「数だけで戦は決まりません。ですが――悔しいですが、そのようですね。高順こうじゅん殿」


 高順は陳宮に対し、大きくもう一度頷くと、「では、またいずれ」と言い呂布の別働隊5千を率いて出城した。


「私の選択は間違っていたのでしょうか?今となってはわかりません」


「わからないのです――」


 わずか2千の兵、水攻めにより崩落しかかっている城内。陳宮はこの絶望的な苦境の中で、ひたすら思い悩んでいた。あったかもしれない主君の栄達や死ぬことのなかった仲間を想いながら、「ただ一人でも多くの敵を倒してから死のう」とただそればかりを考え、最期の戦に臨むのであった。


 城内から石を落とし、弓を鋳掛いかけることくらいしかできない自分の無力さ加減にほとほと呆れながら、気分はすでに来世を描いていた。


「生まれ変わったらまた死ぬのでしょうか?」


 人生はやり直しが効かない。全く面倒だ。ここで死んだところで責任が取れるはずもない。死ぬことすら価値がない。


「どのように死ねば正しいのでしょうか?私にはわかりかねます」


 死に取り憑かれた陳宮は人の命を奪うことに何の躊躇いもなかった。思索の海は彼の殺人の手を休めはしないのだ。一人二人と射殺し追い落とす。


丞相じょうしょう……」


 敵はあまりに大きかった。嘗ての主君にして中原の覇者となるべき男。奸雄(かんゆう)、曹操孟徳。

 どこまでやれるのか。陳宮の無謀な挑戦は痛みを強いた。まだ終わらない。


「終われないんですよ」


 せめて呂布奉先だけでも救える方法はないものか、と。知恵者として知られ、自負もある自分。

 白い雪がやがて雨へと変わる。

 陳宮のわずかな虚栄心さえも今、無残に打ち砕かれようとしていた。


 刹那、粉塵とともに爆発音が城内に木霊した。


「攻城兵器のご登場ですか、ね。いよいよですね」


小瑤しょうよう

「はっ、はいっ!」

「一度しか言いませんから、よく聞いてくださいね」

「う、うん……」

「巻き込んでしまって申し訳ありません。君もきっと死ぬでしょう。それは誰のせいでもない。私のせいなのです。君の未来を奪ってしまった。面目ない」

「ううん、いいの。どうせ、ボクなんて誰にも求められてなかったんだから。ボクに生きる意味をくれたのはせんせぇのおかげなんだよ」

「それでも……私は」

「だってついていきたいって言ったのはボクだよ。だったらせんせぇは悪くないんだよ。ねぇ、せんせぇ?」


 小瑤は手招きし、陳宮はかがみ、腰を落とした。すかさず小瑤は頭に手を伸ばし、撫でたのだった。


「よしよし、せんせぇはえらいの、頭良いの。何も悪くないの。悪いのは……世の中なんだよ。せんせぇを追い詰める世の中」


「……」


「生まれ変わったらせんせぇを守れるくらいに強くなるから。安心していいよ、せんせぇ」

「君には勝てないですよ、本当に」


 陳宮は急いで烏帽子を被り直した。


「小瑤」

「はい?」

「一緒に死んでくれますか?」

「はい、よろこんでぇ」


 二人は短刀を手に、わずかな手勢を連れ軍営に向かったのだった。 




 血溜まりの中にいた。腹部からのおびただしい出血は完全に致死量に達してしまっている。もう助からない。どうにもならない。


 小瑤は?

 良かった。すぐ側にいる。温かい。抱かれているのか。


(「どうして泣いているのですか?」)


 声にならない声は誰にも届くことはない。愛する者に対してすら残酷な現実は何一つ変わらない。でもこれで良いのだとも思う。


「せんせぇ……もうすぐ助けがくるから。強い強い奉先様が敵なんかあっさり蹴散らして……きっとすぐ駆けつけるから。だから――」


 遠い。何もかもが遠い。


 空が阻んでいる。邪魔だ。邪魔なんだ。


 聞きたい。声が、聞きたい。


 まだ――聞いていたい。天使の奏でる音色を。私と彼女のうたを。


 そうか。そうだったのか。なるほど、これは傑作だ。


 私は死にたくないのか。 


「無様ですね、最後まで」


 無様な人生。自分らしいと思った。そしてそんな人生も――。


 ――決して悪くはなかったと柄にもなくそう思ってしまった。


「月が――綺麗だな、小瑤」


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