手紙を出そう
なんだがとても苛ついていた。
理由は漠然としていて、一つには絞れるようなものではなかったが、とにかく俺は苛ついていた。子供が駄々をこねるように、癇癪を起こすように、わめき散らしてしまいたい衝動に駆られていた。
苛ついていたからといって、実際には何もしていない。ただ心の中で何かが掻き回していったかのように落ち着かない。ぐるぐる、ぐるぐると今もなお混ざっている。
夜に近づいた海辺は、少し肌寒い。夕日も殆ど海に消えて僅かな橙色だけが揺れている。砂浜には誰もいなくて、波の音しか聞こえない。そんな場所で俺は一人、砂浜に座って結構な時間を自分の世界に浸って過ごしていた。
俺は、寂しいのだ。
もう大人になっていかなければならない中学生が、漠然と寂しさを覚え、解決策も見つけられず地団駄を踏む。とてもじゃないが人には見せられない姿だ。見せたところでわかってはもらえないだろう。こんな不透明な気持ちは、何せ俺にもよくわかっていない。
遂にはこんな、ロマンチストみたいな真似までして結果に縋ろうとしている。情けなくて、思わず手の中の冷たく固い感触を強く握った。コンクリートに叩きつけてしまえば呆気なく割れてしまうであろうガラス。それに包まれた俺の悲鳴は、何だか過去の恥ずかしい独り言を聞かされているような羞恥心を含んでいて、もう長い間手放すタイミングを失わせ続けていた。
ボトルメール。名前の通り海や川へ流された手紙のこと。昔、一時期流行して、海の生き物達が間違って飲み込み問題となってすっかり廃れてしまったもの。海への不法投棄は法律違反として罰金を払わなければならないんだけど、一人一人をいちいち取り締まる訳にもいかず、当時は注意を促すことで事をおさめた、らしい。
取り締まりを受けないからといって、やっていいことじゃない。けれど俺は廃れてしまったそれを今、やろうとしている。犯罪をしてまでやることでもないのに、好奇心や期待、不安や寂しさが優ってしまったんだ。今も胸が苦しい。
喜とも哀とも言えない。半々に混ざったこれを、海に放つために今ここにいるのだ。やることは決まっているのに、身体は一向に動かない。ぼうっと海を見つめながら延々と考える。わからない自分のことを。
何時までもこうして見つめているわけにもいかない。やるかやらないか、そもそも成功するかもわからないのに未だ実行出来ていないのは、何故か。きっと俺のプライドが邪魔をしているからだ。投げてしまえば認めることになる。俺が今の環境で満足できていないことを。
それは我が儘だと思う。俺が気づいていないだけで、寂しさを感じる必要が無いことも、なんとなくわかるくらいに恵まれている。尊敬出来る両親も信頼できる先輩も、一緒にいて楽しい友達いる。勉強も嫌いじゃない。恵まれた、充実した生活。既に充分に持っているのだ。
それでも、俺は不満や寂しさを抱いている。俺はきっと……今居るこの場所より遠く離れた世界に俺を連れ出してくれる誰かを探してみたいのだ。
は、と我に返る。思いがけなく浮かんだ考えがストンと胸に落ちた。そうか、俺はもっと広い世界を見てみたいのか。
目が覚めたような感覚を味わった。思わず顔を上げてしまうほど。
俺が寂しく思うのはきっと、世界が広いことを知っていてなお、その世界を体験したことがないから。この世界には知らない人がたくさんいる。知らないものがたくさんある。たくさんあるのに手の中にない。だから寂しい。そして、知りたいのだ。人に関わる全てを。
手に収まっているガラス瓶をじっと見つめる。中には有るべき液体はすでに無く、変わりに入っているのは細く巻かれ質素なリボンで留められた手紙。元々果汁酒が入っていた瓶はそれ程大きくもなく、手紙もまたその大きさに合わせられこじんまりとしたものが入っている。
メールが主流の現代で、わざわざ手書きで、それも筆まで使って、簡潔に内容を書き納めた。お世辞にも綺麗とは言えない字で書いた内容はたった一言と自分の住所。
俺と、友達になってくれませんか。
受け取った人が現れたなら、その人には俺はとんだ夢見がちで世間知らずの純情男子に見えることだろう。それでも一言しか書かなかったのは、何を書けばいいのかわからなかったからだ。
何を書けばこの手紙を受け取った人が友達になってくれるか、いくら考えても結論は出なかった。誰が受け取っても反応を返してくれる文章なんて、賢くもない頭には浮かばなかった。変わりに、精一杯丁寧に書いた。それくらいしか出来なかった。
そんな苦悩の結晶を、砂浜から立ち上がってきちんと瓶の蓋が閉まっていることを確認してから海へ投げ入れる。大した距離は飛ばなかったが、瓶は綺麗に弧をかいて海に着水した。
波に揺られて徐々に遠くなっていくガラス瓶。俺は何をするわけでも思うわけでもなく、ただずっと砂浜に座って揺れる瓶を見ていた。
あの瓶は何処へいくのだろう。誰に届くのだろう。いや、誰にも届かず海へ沈んでいくのかもしれない。そうなったら、次はどうしようか。
遂に放ってしまった達成感と不安から、深く思考に浸ることが出来ない。もしかしたら期待しているからかもしれない。そんな自分を、どうしようもなく笑い飛ばしたくなった。
重い腰を上げて背伸びをする。足を翻してその場からゆっくり離れた。例え今日の行動が何の結果にもならなかったとしても、明日は変わらない。ただ密やかに、誰かに届いてくれるよう願って歩く。返してくれなくてもいいから、誰かに届きますようにと。当初の目的から変化した願いが、誰かの明日と繋がってくれますようにと。
夢見る少年は寂しげに、砂をかき分けてその地を後にした。
あの、海へ手紙を投げ入れた日から約一年。
俺は特に日常が変わるわけでもなく、ひたすら過ごしていた。手紙を投げ入れる前となんら変わらない日々を穏やかに。
あれから手紙に返事がくることはなかった。それは、誰にも届かなかったのか、途中で海に沈んでしまったのか、ゴミとして拾われ捨てられてしまったのか。餌と間違えて魚が食べてしまったなら申し訳ない。後でまた砂浜へごみ拾いに行こうと思う。
手紙に返事はこなかったが、それでもいいように今は思う。
寧ろからかい混じりに返事を出されたり、住所を悪用されたりしなくて済んだことを喜んでおくべきだ。後悔はしていないが、やるなら安全性を求めて住所ではなく無料メールアドレスでも書いておくべきだったのだから。
けれど、それではあの時の俺の心は晴れなかっただろう。きっとまた同じことを繰り返していた。晴れない心に沈んでいただろう。
だから、あれで良かった。結果がこれでも不満はない。
これで良かったのだ。
「あんた、届け物が来てるわよ」
家に届いた郵便物を分けていた母親が、俺に一枚の封筒を差し出す。
受け取った封筒の差出人に見覚えはない。それどころか封筒に書かれた文字は日本語でもなかった。封筒もエアメールでよく見る赤と青の縞模様で縁取られている。これは、一体誰が。
ちょうどあの日のことを思い出していたからか、僅かに心が期待で揺れた。外国人の知り合いのいない俺に心当たりは一つしかない。どくり、と身体中から音がする。目は封筒に釘付けで、自然と思考は止まっていた。
いつの間にか手が勝手に封筒をあけていて、中にあった紙を広げていた。その最初に書かれた、一言目。
「Thank you for giving a letter.」
理解した瞬間、頭にガッと熱が集まる。瞬く間に目から涙があふれだした。
ああ、ああ。
よかった。
ぼろぼろと泣きながら、手紙を濡らさないように抱えて自室に向けて駆け出した。流石に人前で泣くのは恥ずかしい。母親もいたし、見られたくない。ふらふらと覚束ない足を叱咤して走る。今の俺に周りの様子を伺う余裕なんてない。我武者羅に自室に駆け込んで、何も考えず机に縋り付いた。
椅子に座るまでもなく、上半身だけを机に預けて、ひたすら溢れる涙と呼吸を宥める。ああ、本当によかった。
何に対してよかったのか、自分でも上手く説明できない。ただひたすら、よかったと心が囁くように泣き続けた。目元が熱い。目元だけじゃなくて、顔も頭も。もしかしたら身体中が、と思うほどに熱に浮かされた。
とても熱い。嫌になる熱さじゃなくて、心地よい熱。そう感じるのはきっと、この身体を支配している熱が俺にとって好ましく優しいから。
あの日、手紙を送ってよかった。送ってくれてありがとうと、言ってくれる人に届いてよかった。
痙攣する肺を押さえつけて、どうにか手紙の続きを読む。
拾った人はフィリピン共和国の端に住む人で、海辺でゴミ拾いをしていたらしい。何気なく中の手紙を出して見たけど日本語がわからなくて、気まぐれにネットで聞いた。写真付きで。そうしたら親切な人が翻訳してくれて、なんてピュアな日本人なんだ!と盛り上がり。一から日本語を学ぶのは大変だから、代わりに英文で書いて送ってくれたそうだ。
なんてことだ。俺の手紙が、ネットに公開されているだって? やめてくれ。俺は晒し者になるためにやったんじゃないんだ。確かにやったことはロマンチックで純情な感じだが、ちゃんと俺にも羞恥心はある!
いつの間にか顔は泣き笑いに変わり、心にも余裕が戻ってきた。きちんと椅子に座って手紙を何度も読み直す。読んでも読んでも終わりはこなかった。
そのうちに涙も止まっていて、胸に裂けそうなほどたくさんの気持ちが宿っていた。
明日、英語の先生に相談しに行こう。そしてフィリピン語も勉強して、フィリピン語で手紙を書けるようになろう。なんて返事をしようか。とりあえずネットにアップロードした手紙の画像は消して貰おう。なんだか、一秒先の未来すら待ち遠しいくらいに心が逸っていた。冷静さを失うくらいに気分がいい。
あの日、手紙を出してよかった。
俺は机の上にノートを開き、手紙に書きたいことを思いつくままに力強く書き出し始めた。
(完)
思春期とフィクション故です。真似しないでください。
奴はこの後香り付き便箋とガラスペンを購入して、内容もしっかり順序立てて書き、したり顔で手紙を送るでしょう。
ロマンチストですからね。