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ベッドの上でぼんやりとしていると、不意に部屋のドアにノックがあった。航平かと思って一瞬身を強張らせたが、中川さん、という女の声が聞こえてきた。ナオコだった。
《そうだ、夕食に呼ばれてたんだった!》
達也はあわてて起き上がった。いつの間にか窓の外は暗くなっている。腕時計を見るとすでに七時半を回っていた。
急いでドアを開けると、ナオコのほっとしたような笑顔があった。
「よかった。いないかと思った」
「ごめん。・・なんかうとうとしちゃってて」頭を掻きながら言い訳する。
ナオコの部屋に入ると、白いセンターテーブルの上に置かれたすき焼き鍋が目に入った。
「どうぞ、座ってください。ビールでいいですか?」
「あ、うん」ベージュのローソファーの上に腰を下ろす。
すぐにナオコが缶ビールとビアグラスを持ってきたが、達也は礼を言いながら缶ビールだけ受け取った。
「何か手伝おうか?」
キッチンに戻っていくナオコに声をかけると、彼女は振り向いて笑顔を見せた。
「大丈夫です。あ、中川さん、ベジタリアンとかじゃないですよね?」
「え? ああ、いや、全然」
「よかった」
カウンターの向こうからナオコは微笑み、そして手元に視線を落として何かし始めた。
ビールを飲みながらそれとなく部屋の中を見回してみる。前回ここに来たときは、部屋の様子を窺う余裕などはなかった。ナオコの部屋は達也のとまったく同じ広さだが、すべてがちょうど逆の造りになっているようだ。玄関を入るとすぐキッチンで、右手に洗面所。そして小さなキッチンカウンターの奥に八畳の洋間があり、ガラスの引き戸の向こうは一畳ほどのベランダだ。女の子らしく部屋の中は全体的に薄い紫で統一され、ベッドの上にはかわいらしいクッションやぬいぐるみがのっていた。ベッドの横の壁には達也の部屋のように腰高の窓はないが、代わりに大きなポスターが二枚貼ってある。映画か何かのものだろうか。ひとつは時代劇っぽい格好をした男女何人かが写ったモノクロのもので、もうひとつは有名なフランス近代画家の作品を模したような幻想的な絵だ。
「中川さんて強いんですね」
不意にナオコの声が耳に入り、達也ははっとしながらそちらに視線を移した。すき焼きの具が入った大きな皿を持ったナオコがこちらにやってくる。
「ボクシングか何かやってるんですか?」
「あ、そう。ボクシングやってるんだ。もう五年くらい」
そうなんですか、と言いながらナオコはテーブルの上に皿を置き、そして角を挟んだ達也の左側の座布団の上に膝を崩して座った。
話をしているうちに、このナオコという女が自分より二学年下の二十三歳であること、劇団に所属しながら夜は麻布のクラブで週何回かホステスのバイトをしていること、張ってあるポスターは彼女が脇役で出演した作品のものであること、暴力を振るった男が五才年上の元同じ劇団の俳優で、今はフリーターであること、出身が沖縄の本島であること、父親を子供の頃に亡くし、三才離れた弟とともに小料理屋を営む母親に女手ひとつで育てられたこと、そして彼女の名前は『新垣奈緒子』と書くことなどを知った。
「沖縄かあ。海がきれいだったなあ」
「行ったことあるんですか?」
「ん、新婚旅行でね」
奈緒子が目を丸くしているので、急いで補足した。
「四ヶ月前に離婚したんだ、・・ちょっとその、いろいろあってね」
達也の曖昧な説明に、奈緒子は少し戸惑いげな表情をしたが、そのことについてはそれ以上触れてこなかった。
・・一時間後・・
「あの人ね、・・前はあんなんじゃなかったの」
不意にしんみりとした声音で奈緒子が言ったので、達也は牛肉を口に運びかけていた箸を止め、目を上げて彼女を見た。ビールのせいかすき焼き鍋の湯気のせいか、俯き加減の奈緒子の頬はほんのりと赤く染まっている。
「・・あたし、やっと劇団に入れたのはいいけど、ずっと役がもらえなかった。・・演技は悪くないけど、おまえはでかすぎて他の役者と釣り合いがとれない、ってはっきり演出家の人に言われたこともあった」
奈緒子は自嘲的な笑みを見せながら、あたし百七十二センチもあるの、と付け足した。達也と六センチしか違わないことになる。
「本気で辞めようって思った。・・もうあきらめなきゃって。・・でもあの人、そんなあたしを励ましてくれたの。・・そのうちきっと君に合う役が、君じゃなきゃできない役がめぐってくるはずだからって、・・だからあきらめるなって。・・・その頃あの人はもう準主役級の役者だったから、あたしにとっては憧れ的な存在の人だった。・・だから、すごく嬉しかったの。・・やっぱり頑張っていこうって思った」
達也は箸を小皿の上にそっと置いてから奈央に視線を戻した。
「あたしがやっと端役をもらえたとき、あの人は同じ作品に出演することが決まってたんだけど、・・ある日ちょっとした暴力事件を起こして、・・・それで、警察沙汰になって、・・結果的に劇団を辞めることになったの。・・あたしたちが付き合い始めたのはそのあとだった」
ソファを下りて床の上に胡坐をかいて座り込むと、透かさず奈緒子が横にあった座布団を差しだしてきたので、達也は礼を言いながら受け取り、その上に座りなおした。
「もちろん最初はあの人、落ち込んでたけど、・・やっぱり演技への情熱を捨てきれなくて、しばらくはアルバイトをしながら劇団のオーディション受けたり、ドラマや映画のエキストラをやってたの。・・ふたりとも忙しくて、会える時間が限られてたけど、その頃が一番楽しかった」
奈緒子は口の中を潤そうとするかのようにビールをひと口飲み、それから手元の缶ビールを見つめたまま再び話しだした。
「・・でもそのうちにバイト先の上司と諍いを起こして、そこを首になってからは、・・お酒をたくさん飲むようになった」
「あいつはいつも君に暴力を振るうの?」
達也の問いに、奈緒子は首を振った。
「・・普段は、・・短気なところもあるけど、暴力を振るったりはしない。・・・でも、お酒が入るともっと怒りっぽくなって、・・ときどきすごく、・・乱暴になるの」
最後のほうで彼女は辛そうに眉をしかめた。
「愛してるの? 彼のこと」
達也がさらに問いかけると、両手で挟んだ缶ビールに目を落としたまま奈緒子は寂しげに笑った。
「なんかよくわからなくなった。・・・暴力振るわれて、強引にセックスされて、・・なんか自分がみじめになる。・・自分がかわいそう」
「わかるよ」達也は目を伏せながら深く頷いた。
「え?」
「え?」
顔を上げると、奈緒子が不思議そうな表情を向けていた。
「あ、いや、・・あの、な、なんでもない」
引きつった笑みを見せながらあわてて言った。それから咳払いをひとつしてから缶ビールを手に取り、乾杯するように奈緒子に近づける。
「よし、今夜は付き合うよ。ふたりでとことん飲んで、嫌なこと忘れよう」
・・二時間後・・
「ねえねえ、達也くうん、恋人いるのお?」
間延びしたような口調で奈緒子が訊いてくる。頬はさらに赤く、目はすっかり据わっている。いつの間にか『中川さん』ではなく『達也くん』になっていた。
「あのねえ、俺はさあ、一応君より年上なんだけどなあ」
達也もだいぶ酔っている。瞼が半分落ちているのが自分でもわかっていた。ふたりですでに缶ビールを十本以上空けている。と言ってもそのうちの三分の二は達也が飲んだ分だ。
「まあいいじゃないのお」奈緒子は腕をばしばしと叩いてくる。「細かいこと気にしなあい。あたしのことも奈央って呼んで。・・・でえ、いるのお?」
「いるよ」そっけなく答える。
「ねえねえ、もしかして浮気したのお? それが離婚の原因?」
ぎらぎらした目を向けてくる奈緒子から視線を逸らすようにビールを口に運ぶ。
「わかった!」
突然奈緒子がぱちんと手を叩いたので、達也は釣られて瞬きをした。
「あの人でしょ!」人差し指を達也に向けて振りながら興奮したように言う。「この前一緒にいた、あの男の人!」
その瞬間自分の目と口が同時に大きく開いたのを自覚した。酔いが一瞬にして醒める。
「・・そうなの? やっぱり?」
驚いたように目を丸くしながら奈緒子は両手を口元に当てる。
「え? あ、あ・・」
言葉に詰まっていると、彼女はにんまりと笑った。
「いいって。誰にも言わないからあ」
「・・やっぱり聞こえてたの?」
恐る恐る訊いてみたが、奈緒子は、何があ? ときょとんとする。
「え? あ、いや、・・なんでもない。・・あ、あの・・どうして・・」
「ふたりが一緒にいるところを見たときにねえ、どういうわけか思ったのお、いい雰囲気だわあって。・・あたし自分でも不思議だったあ、男同士なのになんでそんなこと思ったんだろうってえ。・・やっぱりそうだったんだあ。・・へえ・・」
奈緒子はテーブルの上で頬杖を突きながらしげしげといった感じで眺めてくる。達也は思わず彼女から目を逸らした。身体中が熱くなり、頭がぼーっとしてくる。酔いが戻ったようだ。
「でもあの人かっこいいわよねえ。女にもてるでしょう?」
「女だけならいいんだけどね」
溜息と共に無意識に呟くと、奈緒子は頬杖を外して据わった目を近づけてきた。
「あ、いや、なんでもない」
「なんでえ。いいから言っちゃえ。なんでも聞いてあげる! あたしも全部ぶちまけたのよお」
腕を押したり叩いたりしながら絡んでくる。
「やだよ。言わないよ」
「言っちゃえ! ねえ、ねえ、早くう」
「やあだね!」
「じゃあ、もっと飲ませちゃう。どんどん飲ませて言わせちゃうー!」
達也はそのあとのことはよく覚えていなかった。




