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翌週の水曜日の夜、コンビニで買ってきた弁当を食べながらテレビを見ていると、ガラスの割れるような音を聞いた。と同時に男の怒鳴り声が聞こえてくる。何と言ってるかはわからない。どうやら隣の部屋からだ。

胸騒ぎがした。達也はすぐにテレビを消し、壁に耳を近づけた。・・女が叫ぶような声。そして男の怒鳴り声が重なる。それからものが叩きつけられるような音。

「・・やめて!!」

今度ははっきりと女の声が聞こえた。無意識のうちに部屋を飛びだし、達也は女の部屋のドアを叩いていた。

「アラガキさん、大丈夫ですか? アラガキさん!」

いきなり部屋の中がしんと静まり返る。ややあってドアがわずかに開き、隙間から顔が覗いた。茶髪の若い男だった。男は、なんですか、と平静を装って言ったが、その声は明らかに低く震えていた。両目が赤く血走っている。

「アラカキさん?」

男の背後に向かって女の名を呼んだ。

「おまえ、ナオのなんなんだよ」

突然男は表情を豹変させ、唸るように怒鳴りながら達也の肩を小突いた。男を押しのけて中に入ると、床に両手を突いて座り込み、頭を垂れている女が目に入った。ナオコだ。身体が震えている。泣いているらしかった。

「アラカキさん?」

すばやく片膝を突いて座り込み、彼女の肩に手をかけた。ナオコがゆっくりと顔を上げる。その顔を見て達也は息を呑んだ。頬が赤く腫れ、唇と鼻から血が出ている。着ているブラウスは破け、中のブラジャーのフックも外れている。

その虚ろな目が達也に焦点があった途端大きく見開かれた。ナオコは顔を背け、はだけたブラウスを掴んで胸を押さえる。彼女の全身ががくがくと震えていた。

突然肩を鷲掴みにされ、振り向いた瞬間男が拳を振り上げてきた。だが達也はそれを軽く交わし、殴り損なった男が前のめりになった瞬間その腹に拳を打ち込んだ。男は呻き声を上げながらがくんと膝を突き、身を屈めながら両腕で腹を抑える。

「警察を呼びましょう」キッチンカウンターの上にあった電話の受話器を取り上げた。

そのとき呻くようなか細い声が聞こえてきた。

「え?」

声のほうに顔を向けると、胸元を押さえながらナオコが這うように近づいてくる。

「・・だめ、・・おねがい、・・やめて・・」

「でも!」

男が動くのが視界の端に映った。腹に手をやりながらよろよろと立ち上がり、達也を睨みつけてくる。ボクシングの構えをして威嚇すると、男は一瞬怯えたような表情で後ずさりしてから、てめー、覚えてろよ、と吐き捨てるように怒鳴り、そしてドアに向かった。

後を追おうとしたが不意に足を掴まれ、達也はつんのめりそうになりながら立ち止まった。足元に目を向けると、ナオコが必死の形相で見上げていた。


「あっ!」

痛そうにナオコが顔を歪める。達也はびくっとして軟膏を塗っていた手を止めた。

「ご、ごめん。大丈夫?」

ナオコの部屋のローソファに座り、達也は彼女の傷の手当てをしていた。アイスパックがなかったので、氷をビニール袋に入れてそれをナオコに手渡した。

「ごめんなさい、・・なんか迷惑かけちゃって」

手元の氷を見つめたままナオコがしんみりと言う。

「そんなこと気にしなくていいよ。・・それより、ほんとによかったの? あいつ行かせちゃって」

ナオコは悲しげな表情で俯いたまま黙っている。困惑気味に見つめていると、彼女の頬につと涙が一筋流れ落ちた。肩が細かく揺れている。

達也はそれ以上何も言わず、そっとその肩を抱いた。


翌朝、出勤前にナオコの様子を見ようかと彼女の部屋のドアをノックしかけたが、まだ眠っているかもしれないと思い直し、達也はその手を引っ込めた。


その夜は八時近くにマンションに帰りついた。背広のポケットから部屋の鍵を取りだしたとき隣の部屋のドアが開く気配があったので、達也はすばやくそちらに目を向けた。するとドアが少しだけ開き、その隙間からナオコが顔を覗かせた。

「やあ。大丈夫かい?」

そう言いながら近づいていくと、ナオコはドアを開け、顔の半分を手で覆うようにして廊下に出てきた。昨夜よりも目の回りや口元が腫れているようだ。

「あの、・・昨日のお礼が言いたくて。・・本当にありがとうございました」

ナオコはそう言いながら深く頭を下げる。

「いいよ、そんなこと気にしなくて」

「いいえ。また、改めてお礼をさせてもらいます」

もう一度頭を下げてからナオコは部屋の中に戻っていった。


土曜日の朝、ボクシングの支度をしているとノックがあった。ドアを開けると照れたような笑みを浮かべたナオコが立っていた。まだ口角と左目の下が青くなっているが、だいぶ腫れはひいたようだ。

「おはようございます」明るい声で言いながらナオコはぺこりと頭を下げてくる。

「おはよう。だいぶよくなったみたいだね」

「ええ、おかげさまで。本当にご迷惑をおかけしました」

「そんなこと気にしなくていいって言っただろ?」

苦笑しながら達也は手を顔の前で振った。

「あの、・・お礼に、よかったら今夜夕食に来ませんか?」

「え?」

「何か予定ありますか?」

「あ、・・いや、別に」

「じゃあ、七時に」ナオコはほっとしたように微笑んだ。


ナオコが去ってから達也は考えた。そういえば今日は航平がまたこの部屋に来るかもしれないんだった。どうしよう、と思案していると携帯が鳴った。航平からだった。

先週の土曜日以来達也は航平には会っていなかった。日曜も月曜も彼は『レイ』の観光や買いものに付き合っていたからだ。

「なんだよ、もう起きてたのか?」

『ああ。これからボクシングか?』

「ん。今出るとこ。・・・あのさあ、今日なんだけど・・」

『ボクシングのあと、俺んとこ来いよ』

「え? でもおまえの友達は?」

『今日は用事で早くから出かけたんだ。夜まで戻ってこない』

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