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翌日の昼頃航平にバイクで会社に迎えに来てもらい、ふたりで一緒に祥子が入院している世田谷の産婦人科病院を訪れた。
新生児室の窓から見やると、手前の列の中に祥子の娘がいた。ピンクの毛布に包まれて、ピンクの帽子をかぶっている。よく眠っているようだ。
「かわいいな」隣で航平が溜息を漏らす。
「ん。・・でも小さいよなあ。産まれたばかりの赤ん坊ってあんなに小さいんだな。なんか信じられないよ」
そのとき赤ん坊が目を閉じたまま欠伸をしながら小さな手を一杯に開いた。ふたりは思わず顔を見合わせて微笑む。
「俺もおまえも産まれたときはこんな小さかったんだな」
感動しているような声音で航平が言う。
「そういえば由紀さんが言ってたよ、ちっちゃくて頼りなげで、今にも壊れちゃいそうだったってさ」
「・・俺のこと?」
「ん。おまえ、ニューヨークで生まれたんだってな」
「ああ。・・まあ、俺は覚えてないけどな」
達也は一瞬躊躇してから赤ん坊を見つめるその横顔に問いかけた。
「なあ、おまえ、自分の本当の父親のことって、知ってるのか?」
「え?」航平は驚いたような顔を向けてくる。
「・・メイさんは多分おまえは知らないだろうって言ってたけど、由紀さんは知ってるみたいだったから・・」
「ああ、知ってるよ。会ったこともある」あっさりと航平が言う。「・・俺が十七んとき」
「・・そうか」
何となく拍子抜けした思いで呟いたが、すぐに気を取り直し、達也はふっと彼に笑いかけた。
「由紀さん、おまえは父親にそっくりだって言ってた」
「そうかなあ。俺が会ったのはあの人が死ぬ直前だったからな」
「え?」
「肺癌でさあ、やせ細ってた」
「・・そうだったのか」
呆然としている達也に小さく微笑んでみせ、そして航平は窓の向こう側に目を戻した。
「あの人、自分がもうすぐ死ぬってわかって、俺に会いたいって言って来たんだ、病院のソーシャルワーカーを通してな。・・驚いたよ、自分の父親がアメリカにいたってことも、それからその父親が俺のことを忘れてなかったってこともさ。・・・奥村さん、おまえの好きなようにしろって言った。・・俺には会う気なんてまったくなかったよ。俺と母さんを捨てたやつだからな」
赤ん坊にじっと視線を注ぎながら航平は続ける。
「でも、それから二週間くらいしてからかな、・・なんか不意に会ってみようって思ったんだ。会って、どうして俺たちを捨てたのか、その理由を訊いてみようって。・・だから教えられた病院を訪ねたんだ、フロリダの。・・ひとりで飛行機に乗ってさ。・・・でも遅かった。・・そのときはもう昏睡状態で、まったく話もできなかった」
航平の横顔にふと大きな笑みが浮かんだ。見ると赤ん坊が目を開けていた。祥子に似てくっきりとした二重だ。口を動かしながら何度か瞬きをし、そしてまた瞼を閉じた。
航平は小さな吐息を漏らし、それからその笑みを達也に向けて言った。
「さ、祥子ちゃんに会いに行こうぜ」
「たっちゃん、航平さん、来てくれたのね!」
ベッドの上に起きて斜め向かいのベッドの女性と話をしていた祥子は、ふたりを見るなりぱっと笑みを広げた。四人部屋だが他のふたつのベッドは空いているようだ。祥子は白っぽいネグリジェの上に青いニットのカーディガンを羽織って、三つ編みにした髪を肩の前に垂らしている。
「よう、元気そうだな」
祥子にそう声をかけてから彼女が話をしていた女に軽く会釈をした。女も笑顔で頭を下げてくる。おかっぱ頭で丸顔の小さな目の尻際には深そうな皺が見える。祥子よりかなり年上のようだ。
「アケミさん、あたしの兄で達也っていいます。それから、彼は兄の・・」
航平に目を向け、祥子は一瞬ためらっているような表情をしたがすぐに笑顔に戻って言った。
「兄の友達、航平さん」
アケミという女は急に少し恥らったような笑みになってぎこちなく航平に会釈をした。航平に対する女たちのこういう反応にも達也はすっかり慣れた。
アケミに片手を上げてから祥子に近づき、おめでとう、と言いながら航平は身を屈めて彼女の両頬にキスをした。
「ありがとう、航平さん」祥子は肩をすくめながら恥ずかしそうに笑う。
達也は近くにあったパイプ椅子をふたつベッドの横に引っ張ってきて手前の椅子に座った。航平ももうひとつの椅子に腰を下ろす。
「見た?」幸せそうな笑顔で祥子が訊いてくる。
「ああ、見たよ。小さくてかわいいな」
「祥子ちゃんによく似てるよ。将来はきっと美人になるな、お母さんみたいにさ」
航平が言うと、祥子は照れたようにふふっと笑った。
「もう名前は決めたのか?」
「うん。ナナミ。七つの海で、七海よ」
「七海かあ。いい名前だな」
「ありがとう」
「で、おまえはもう大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。・・でもおっぱいが張っちゃって痛いのよねえ」
そう言いながら祥子は両側から手で胸を内側にぐいっと押した。達也と航平は顔を見合わせる。祥子はまったく気にかけた様子はない。
「しぼるんだけど、なかなか出なくて。さっき看護婦さんにもみ方を教えてもらったんだけど・・」
今にもそのもみ方を実践し始めそうな祥子の様子に、達也は思わず口を挟んだ。
「おまえ、よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるな、俺たちの前で」
「えー、どうして? 別に恥ずかしいことじゃないもの。いいじゃない」
祥子は真面目な顔で言う。隣で航平がくっくっと笑った。
「あ、そうだ、たっちゃん、一日遅れだけど、お誕生日おめでとう」
「あ、ああ、サンキュー」
「あたしこれからは七海の誕生日で忙しくって、きっとたっちゃんの分忘れちゃうと思うから、これからの分も今言っとくね。おめでとう、おめでとう、おめでとう・・・」
祥子は指を折っていく。
「ああ、もういいよ。わかったよ」
うんざりしながら片手をひらひらさせた。
「大丈夫だよ、祥子ちゃん。俺は絶対忘れないからさ、こいつの誕生日」
達也はさっと隣に目をやった。
「俺が祥子ちゃんの分まで祝ってやるよ」航平は温かい笑みを祥子に向けながら言う。「・・これからずっと。だから安心していいよ」
頬が火照ってくるような気がして達也は急いで顔を伏せた。
「あー、たっちゃん、赤くなってるう」
「う、うるせー!」




