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翌朝、ゴーゴーという不快な音に起こされた。目をこすって部屋の中を見回すと、ベッドの横に敷いた布団の上で誰かが枕を抱えるように眠りこけていた。昨夜の記憶がぼんやりと蘇ってくる。
《・・そうか。・・小野田・・》
不快な音は小野田の鼾だったのだ。舌打ちしてから達也は起き上がった。
夕べ航平のバーを出たあと、もう一軒行こう、という小野田の誘いを女たちはやんわりと断った。何とか粘って彼はミキコのメールアドレスを聞きだした。
結局ミキコとホテルに行き損ねた小野田は、終電がないから泊まらせろ、と東麻布の達也のワンルームに転がり込んだのだ。
シャワーを浴びて洗面所を出ると、下着姿の小野田が布団の上に身体を起こして、うわーっ、と欠伸をしながら思い切り背伸びをしていた。彼の服はそこらじゅうに脱ぎ散らしてあった。いつもきっちり整えられた髪も今は寝癖でそこらじゅうに飛び跳ねている。思わず眉をしかめながら目を逸らした。
「おはようさん。早いんやなあ」しわがれ声で小野田が言う。
ベッドに足をのせて腰高窓のブラインドを上げ、そして布団をまたいで引き戸のほうのカーテンをさっと開けた。角部屋の八畳間に朝の陽が柔らかく差し込んでくる。十月に入って最初の土曜日は清々しいほどの晴天だった。
「ふわああああ・・」
背後から間の抜けた大欠伸が聞こえてくる。達也は溜息をつき、再び布団をまたいでベッドの足元側にある備え付けの大きなクロゼットを開けた。
「俺これから用があるから、おまえ、もう帰れよな」
「デート?」
にやりとした顔が目に見えるような声音で小野田が訊いてくる。
「ちがう。ボクシング」
スポーツバッグをベッドの上に置いてから、クロゼットに向き直り、たんすの引き出しを開ける。
「ボクシング? おまえ、ボクシングやってるんか?」
「ああ。毎週土曜日にトレーニングしてる。だから・・」
「俺も行く!」
「は?!」達也は面食らい、思わず振り返った。
小野田は布団の上で胡坐をくみ、興奮したような目を向けている。まるでご褒美を待つ犬のようだ。
「一緒に行ってもいいやろ?」
「だ、だめだ」あわてて言い、バッグの中にタオルや着替えを放り込んだ。
《冗談じゃない。誰がおまえなんか連れて行くか!》
「いいやん」
「だめ!!」
いつものように一時間半かけてストレッチに始まりロープやパンチングボール、サンドバッグ、ミット打ちをこなしたあと、最後の三十分スパーリングをした。今日の相手は平林という三十歳くらいの男だった。この平林とは今までに何度かスパーリングをしたことがあった。彼は達也と同じように普段は会社勤めをし、週末にボクシングのトレーニングに通っている。非常に無口な男で、達也が話しかけても、ああ、いや、程度しか返ってこない。全く話が弾まないので、達也はこの男との会話をとうにあきらめていた。
ガラス張りのドアに手をかけたとき、ジムの前に大型バイクが止まった。
《・・航平?》
達也は急いでドアを開けて表に出た。
「よかった、間に合って」
ヘルメットを脱いだ航平が、安堵したように吐息を漏らしながら前髪をかき上げる。
「どうしたんだよ。・・俺のこと迎えに来たのか?」
にやりとしながら言うと、航平はバイクにまたがったまま何とも言えないような表情をした。
「今日おまえんとこ行けないか?」
「え?」
「今友達が来てるんだ」
「友達?」
「ん、ニューヨークから。・・昨日空港まで迎えに行ったんだ。だから夕べバーに遅れてった」
「おまえんとこに泊まってるのか?」
「ああ。・・再来週の土曜まで」
再来週の土曜日というと、丸二週間滞在することになる。
「男?」
思わず口が動いてそう訊いてしまい、ばつが悪くなって達也は目を伏せた。航平が軽く笑う。
「男だよ。大学時代の友達」