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「ひえー、あっちーなあ」
定食屋を出た途端、同僚の佐々木が額に手をかざしながらうんざりしたように言った。
「これからますます外回りが大変になりますよ」
こちらは一緒に昼食をとったもうひとりの同僚で、二年後輩の松浦だ。
「あ、忘れてた」松浦が不意に顔を向けてくる。「そういえば中川さんって、今日誕生日なんですよね。おめでとうございます」
「え? なんでおまえ知ってんの? 俺の誕生日」達也はきょとんとして言った。
「おう、おまえ誕生日なのか」
「今朝同期の経理の子が言ってたんですよ」
「・・俺の誕生日だって?」困惑しながら訊き返す。
「なんでも人事の女の子が中川さんにぞっこんだそうですよ。あ、これ、内緒ですよ。俺が言ったって言わないでくださいね。中川さん、もしかしたら今日、告られるかもしれませんよ」
「はあ、いい男はいいねえ」
佐々木はにやにやしながら肩を叩いてくる。
「おまえ、今夜はデートか?」
「え? あ、・・その・・」
「おう、デートか! 月曜の夜はどこのラブホテルもすいてるぞ」
そのとき携帯が鳴りだし、達也はどきりとした。航平かもしれない。
「ほほう、女からだなあ」
「ちがいますよ。あ、ちょっと先に行っててください」
達也は胸ポケットから携帯を取りだしながら言った。歩道の端によけ、にやけた顔を見せながら去っていくふたりから顔を背ける。ディスプレイを見ると母の携帯からだった。
「何?」我知らず声がそっけなくなる。
『ああ、達也。あのね、祥子が産気づいたのよ』
「え?!」達也は目を丸くした。「だって予定日まだだろ?」
祥子の予定日は八月十五日の終戦記念日のはずだ。
『そうなんだけど、さっき破水してね。今病院にいるの。島津さんももうすぐ来るはずよ』
「・・今日産まれるの?」
『かもしれない。陣痛が起こらなかったら多分陣痛促進剤を打つことになると思うわ。そうなったらあなたと同じ誕生日になるのねえ。・・ああ、そうそう、お誕生日おめでとう。・・産まれたらまた連絡するわ。じゃあね』
午後はまったく仕事に集中できなかった。今にも携帯が鳴りだしそうで、そわそわして落ち着かない。
「中川くん、どうしたの?」
「え?」
顔を上げると、前の席に座っている幸田美智子が不思議そうな表情でこちらを見ていた。美智子は入社十五年のベテランOLで、すでに結婚していて子供がふたりいる。達也はこのさっぱりとした美智子に好感を持っていた。他人のことはあまり干渉しないが、人が困っていると積極的に手を貸してくれる。達也が離婚したときも他の社員たちがいろいろうるさく詮索してくるなか、美智子だけは、いろいろあるわね、と軽く流してくれた。若いOLたちとは違って仕事もきっちりと完璧にこなすので頼りになる。
「なんか顔が青いわよ」
達也が口を開きかけたとき、やっぱりそう思いますよね、と隣から聞こえてきた。
「あたしも中川さん、なんか様子が変だなって思ってたんです。おなかの具合でも悪いんですか? 下痢止めの薬ありますけど」
真面目な顔で藤井由佳が訊いてくる。
「え? ち、ちがうよ」思わずむきになって否定した。
営業部署はペア制になっていて、営業マンひとりずつに事務処理や秘書的な業務を行うアシスタントの女子社員がついている。達也は今年からこの藤井由佳とペアになった。入社二年目の由佳は小柄なショートボブで、高校生のようにも見える。美智子の指導のおかげで仕事はまあまあ慣れてきたようだが、ときどき今みたいに的外れなことや、ときにはきわどいことを口走るので反応に困ることもある。
「なんだおまえ、デート断られたのか」
今度は先ほどまで電話で話し込んでいた佐々木が美智子の隣から話しに入ってくる。
「デートですか?」と由佳の元気な声。
「こいつ今日誕生日なんだってさ。昼飯のあと彼女から電話きてたもんなあ」
「だから彼女じゃないですって」
「へえ、中川さん、今日お誕生日なんですか」
「かわいそうになあ、ホテルに行き損ねたんだろ。おい藤井、おまえ今夜慰めてやれ」
「はい。中川さんとだったら喜んでホテルにお供します」
「おう、おまえは素直でよろしい。俺ともどうだ?」
「えー、佐々木さん、それってセクハラですう」
酒も入っていないのによくこういう話ができるものだ、達也は内心溜息をつく。
「佐々木さん、いい加減にしてください。由佳ちゃんもよ」
たしなめるように美智子が言うと、由佳は、そうですよねえ、としおらしく頷いた。
「傷心の中川さんがかわいそうですよ、佐々木さん」
「だから違うって」由佳に言い、佐々木と美智子のほうに顔を向けて説明する。「さっきの電話は母からだったんです。妹が破水して、入院したって知らせだったんですよ」
「へえ、中川くん、伯父さんになるのね。しかも同じ誕生日になるかもしれないんだ。すごい偶然ね」
運命ですねえ、という大真面目な由佳の声が横から聞こえてくる。
「最初の子供は産まれるまでに結構時間がかかるわよ。あたしのときは十時間だったわ」
何でもないことのように美智子が言う。
「十時間?!」達也と由佳は同時に声を上げた。
「そう。十時間もの長い間陣痛に苦しんだの。もうのた打ち回るって感じだったあ」
祥子が気の毒になってきた。
《・・あいつ、大丈夫かな。・・今頃苦しんでるんだろうか・・》
つい身体に力が入り、手に持っていたボールペンを折りそうになった。
「そういやあ、うちの坊主んときもそんくらいだったなあ」
佐々木は頭の後ろで手を組み、椅子の上で背を仰け反らせながら言う。たしか佐々木にも低学年くらいの子供がふたりいたはずだ。
「かみさん、大変だったみたいでさあ、もう絶対子供はいらないって言ってのに、一年もしないうちにふたり目が欲しいって言いだしたんだ。あんなに苦しんだのになあ」
「一旦産まれちゃうと出産の痛みや苦しみなんか忘れちゃうものよ。子供の顔見るとね、ああ、この子のためならもっと辛いことでも耐えられるって思えるの」
とても信じがたい話だったが美智子が顔を向けてきたので、そんなもんなんですか、ととりあえず言った。
「そんなもんなのよ」
美智子は大きく頷いた。
それまで忘れていたが、松浦が言ったとおり帰り際に女子社員に待ち伏せされ、プレゼントとともに、好きです、と告白された。以前同期の連中と飲みに行ったとき偶然来ていた同じ会社の女子社員グループと合流したのだが、彼女はその中のひとりだった。そのあと社内で顔を合わせるとお互い会釈を交わしていたが、立ち止まって話をするようなことはなかった。正直達也は彼女の名前も覚えていなかった。
好きなやつがいるから付き合えない、と正直に言うと、彼女はその小作りに整った顔を悲しげに歪めて俯いたが、やがて目を上げて、わかりました、と小さく微笑んだ。
「あ、でもプレゼントは受け取ってくださいね。一生懸命選んだから」
そう言うと彼女はくるりと背を向け、小走りに去っていった。




