表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/32

26

四月になり、会社の新年度が始まった。達也はそのまま同じ部署にいる。

小野田が結婚することになった。相手はいつか六本木のバーでナンパした城田美紀子だ。美紀子は妊娠しているらしい。祥子と同じ、いわゆる『できちゃった結婚』だ。結婚式は来月の予定で、達也も式に呼ばれている。

祥子は『島津祥子』となり、実家の祖母の部屋だった一階に夫の島津と住んでいる。島津は父ともうまくやっているらしい。

二週目の金曜日、航平のバーではまた得意客を招いたパーティが開かれ、達也は仕事の帰りにひとりで立ち寄った。


「達也!」

中に足を踏み入れた途端航平の声がし、達也は反射的にそちらに顔を向けた。赤茶のソファ席のほうからベージュっぽいカジュアルスーツを着た航平がやって来る。ジャケットの下は黒い無地のVネックTシャツで、首元にはチェーンのネックレスをはめていた。髪は少しボリュームをつけるようにしてきれいに後ろに流れている。相変わらず惚れ惚れするほど格好いい。だがその顔にいつもの笑みはなかった。どこかあわてているようにも見える。

近づいてきた航平に、よう、と片手を上げてみせたが、彼は少し距離を置いたところで頭をかすかにぐいっと左に動かしたかと思うとさっと方向を変えてそちらに向かった。どうやらついて来いということらしい。航平はトイレに入っていった。

首を捻りながらトイレへのドアを抜け、さらに男性用トイレのドアを開ける。航平はシンクに寄りかかり、難しい顔で腕を組んでいた。怪訝な思いで口を開きかけたとき、彼は達也の言葉をさえぎるように言った。

「ジュリアが来てる、フランクと一緒に」

咄嗟にその意味が理解できず、達也はきょとんとしながら首を傾げる。だがすぐに脳がその名を認識し、途端に身体が強張った。

《・・ジュリア。・・・ここに・・》

「彼女はおまえのこと知ってる。俺が話した」

どう反応すべきかわからず、達也は呆けたようにただ航平の顔を凝視していた。溜息をつき、そして彼は硬い口調のまま続ける。

「でもフランクや由紀さんは俺とジュリアのこと、なんか言うかもしれない」

「・・・縒りを戻せ、とか?」

「まあな。酔いだしたら色々おまえが不愉快になるようなこと言うと思う」

航平は真剣だ。達也のことを気遣っているのだろう。

顔を伏せてふーっと小さく息を吐き、そして航平に目を戻して微笑んだ。

「いいよ、別に。そんなの気にしないよ」

「そうか」硬かった彼の表情がようやくほっとしたように緩む。「ま、一応忠告しておこうと思ったんだ。・・じゃ、俺、先出るよ」

そう言うと航平は達也の頬に軽くキスをしてから出ていった。


カウンターに向かっていると、達也くん! という声が飛んできた。見ると由紀がカウンターの左手奥の黒いソファ席から手を振っていた。七、八人ほどの外国人グループと一緒だ。由紀の隣に髪の長い細身の女性が座っている。達也は途端に緊張した。『ジュリア』に違いない。

「達也くん、ひとりなの? こっちに一緒に座りなさい。ね?」

由紀が中腰になって手招きをしてくる。ちらっとカウンターを見やると、心配そうにこちらを見ていた航平と目が合った。彼に向かって微笑んでみせてから達也は由紀のテーブルに向かった。


近づくにつれ、焦点を合わせていないにも関わらず嫌でもその美しさが見てとれた。テーブルを挟んで由紀の前に立ち、こんばんは、と軽く頭を下げる。

「この人は達也くんていうの。航平のお友達よ」

由紀は彼女にそう説明し、それから達也を見上げてくる。

「達也くん、彼女はジュリアよ。前に話したでしょ?」

気づかれないように唾を吞み込んでから『ジュリア』に目を向けた。その瞬間思わずはっと息を呑んだ。彼女は本当に美しかった。大きくて神秘的な琥珀色の目、すっきりと通った鼻筋に形のよい潤んだ唇。肌は透き通るように白い。真ん中で分けた長い茶色の髪の裾のほうは緩やかなウェーブになっている。目立ったアクセサリーはつけておらず、服装もシンプルなデザインの白っぽいアンサンブルニットだったが、それがかえって彼女の美しさを際立たせていた。

「どうしたのよ、達也くん。みとれっちゃってる?」

由紀の声で我に返る。

「かわいいでしょ? この子」

ジュリアがふふっと上品に笑った。そして淀みのない日本語で言う。

「よろしく、タツヤ。ジュリアです」

柔らかく落ち着いた声だった。

「あ、ああ、・・よろしく」

『彼女はおまえのこと知ってる』

不意に航平の言葉が頭をよぎり、改めて緊張する。

「まあ座りなさいよ。ね?」

達也は曖昧に目を逸らしながら由紀の前のスツールに腰かけた。

「ジュリアはねえ、今大学の休みをとってこっちに来てるの。フランクの五十歳の誕生パーティがあさってあるのよ。それでね」

「・・はあ」自分でも情けなくなるような間の抜けた声で言う。

「そうそう、彼がフランクよ。ジュリアの父親」

由紀は達也の隣の肘掛け椅子に座っている白人の男を手で指した。達也はそちらに顔を向けてぎこちなく会釈をする。

ヨロシク、と彼が右手を差しだしてきたので、身体を少し彼のほうに向けてその手を握りながらまた頭を下げた。短めの金髪をオールバックにしたフランクは精悍で体格がよく、ダークブラウンのスーツの上からでもその胸板の厚さが窺える。瞳のその青さが印象的だ。

彼はジャケットの内ポケットから名刺入れを出し、一枚抜いて差しだしてきた。

「フランク ミルズ といいます」

「あ、中川達也です」あわてて同じように自分の名刺を取りだして渡した。

彼の名刺には日本語で『ミルズ経営コンサルティング』、その下に『代表取締役 フランク ミルズ』と書かれている。オフィスは青山にあるようだ。

「ほう、損害保険会社にお勤めですか」フランクは達也の名刺に目を落としながら言う。「・・法人営業のお仕事を」英語訛りはあるが、なかなか流暢な日本語だった。漢字も読めるらしい。

「コーヘイとはどういう友達ですか?」

そう言いながら彼はテーブルの上に置かれたウィスキーのボトルを手に取った。

「え?」

そしてそれを空いていたグラスに注いで達也の前に置く。ブランデーグラスだ。ということはウィスキーではなくこれはブランデーなのだ。

「どういうふうに知り合いましたか?」

「ああ、・・えっと、俺、大学の頃画家の人に絵を教わってたんですけど、その人に連れて行ってもらった奥村さんのパーティで。・・俺たちが二十歳のときでした」

ジュリアの目を気にしながら達也は早口に言った。それからブランデーをがっと喉に流しこむ。胃の中がかあっと熱くなり、思わず咳き込みそうになった。

「あら、そうだったの」独りごとのように由紀が横から言う。「あんたたちそんな昔から知り合いだったのね」

「絵はまだ描いてますか?」

「あ、いえ、今はもう」

「ほう。それはどうしてですか?」

「え? どうしてって・・」

口ごもる達也の返事を待つように、フランクはその青い目で見据えてくる。

「タツヤ、ボクシングしてるんですってね」

不意にジュリアが話しかけてきたので、達也はさっとそちらに顔を向けた。

「航平が言ってたわ」

「え? あ、ああ。そう」

由紀がフランクに英語で何か言い、フランクはそちらに向き直った。ふたりはテーブル越しに何やら英語で話し始める。

「もう長いの?」

「えっと、六年、かな」

「そう。・・私の友達にプロのボクサーがいてね、私ときどき試合を見に行くの」

由紀たちの会話に彼らの向こう側の連中も加わって大声になってくる。

「へえ、そうなんだ。えっと・・フィラデルフィアで?」

「ええ。・・あなたは試合をするの?」

「あ、いや、俺はやらない。トレーニングのときにスパーリングをやるだけなんだ」

「そうなの」

そこでふと会話が途切れる。ジュリアは口元にかすかな笑みを滲ませてじっと達也を見つめている。一瞬その神秘的な目に吸い込まれてしまいそうな感覚にとらわれ、達也は視線を逸らしながらブランデーを飲み干した。

どうにも沈黙が気まずくなり、彼女に目を戻して、あの・・、と声を絞りだしたが、不意に彼女の視線は達也から斜め上へと逸れた。そしてその顔に華やかな笑みが広がる。

「あら、航平」

由紀の言葉に達也ははっとして振り返った。いろいろなドリンクがのったトレイを持った航平が後ろに立っていた。

「やっと来たわね。まったくあんたは人気者で忙しいわねえ。さ、座んなさい」

達也はすばやく腰を上げて座っていたスツールを航平に譲った。だが隣のスツールに座り直した途端にちょっと後悔した。ジュリアのまん前だ。

由紀の向こう隣に座っている中年ぽい白人の男が何か話しかけ、航平は英語で答えながら腰を下ろしてそれぞれの前に飲み物を配った。達也には瓶ビール、ジュリアにはピンクっぽいカクテルだ。

「ありがとう」華やかに微笑んだままジュリアが言う。

何気なく隣に目をやると、航平も意味ありげな笑みを浮かべてジュリアを見ていた。達也の視線に気づき、空咳をしながらすばやく彼女から目を逸らす。

「ねえ、今聞いたんだけど、ジュリア、フランス人の彼と別れたんですって」

由紀の言葉に、そうみたいだね、と感心なさそうな口調で答え、航平はビールを飲んだ。

「なんだ、知ってたの?」

「ん? ああ」

「ちょっとあんた、チャンスじゃない。どうする?」

由紀はにやけた顔で航平の顔を覗き込む。ジュリアがクスッと笑った。

「ユキ、航平だって今は他に好きな人がいるかもしれないじゃない」

「あら、あんた誰もいないのよねえ。誕生日だって仕事してたし」

「由紀さん、俺、好きな人がいないなんて言ってないよ」

「あら、じゃあ誰かいるの?」

「いるよ」

一瞬ドキッとし、持っていたビールを落としそうになった。航平は由紀に顔を向けながらテーブルの下で達也の膝に手をのせている。

「誰、誰?」興奮げに由紀が身体を乗りだしてくる。

達也は視線を泳がせながらビールを喉に流し込んだ。

「由紀さんの知らない人」

そっけなく言い、航平はまたビールを飲んだ。そのうちフランクが英語で航平に話しかけてきたので彼はそちらに顔を向け、由紀も交えて英語で話しだした。だがジュリアは話には加わらず、ちらちらと達也に目をやりながらカクテルを啜る。

「あ、あの、俺のこと気にしないで、みんなと英語で話していいよ」

苦笑しながら達也が言うと、ジュリアは小さく首を振った。

「私はあなたと話したい」

航平はちらっと顔を向けたが、フランクがまた何か言ったのですぐにそちらに視線を戻した。少々気まずい思いでビールを飲み、軽く咳払いをしてから言ってみた。

「えっと、・・大学では何の勉強してるの?」

「分子物理学よ」

「・・へえ」少々情けないが、それ以外言うことが見つからなかった。

「ジュリアは遺伝子治療の研究をしたいんだよな」

突然航平がこちらを向いて話しに入ってきた。

「それはまだ変わってないんだろ?」

ええ、と答え、それからジュリアはふと真顔になって言った。

「ねえ航平、あなたはこれからどうするの?」

「どうするって?」

「奥村さんは亡くなったのに、まだこのバーをやってる。このまま続けるつもりなの?」

達也はさっと航平を見た。そう言えばそうだ。奥村がいない今、航平はこのバーを続ける必要はないはずだ。

「そうだな。他にできることもないし」

「そんなことないわ。あなたはMBAを取得してるんだし、それに今から大学に戻って本当にやりたかったことを学ぶこともできるのよ」

「今さら勉強はいいよ。俺はミドルスクールんときからずいぶん勉強したからもう十分だ」

にべもなくそう言うと航平はビールをごくごくと飲んだ。ミドルスクールというのは日本で言うと中学のことだ。たしかずっと前に航平から聞いたことがあった。

ジュリアが英語で何か言い、航平もそれに英語で答える。少しの間そうやってふたりの間に英語でのやり取りがあったが、達也にはまったく分からなかった。ふたりとも表情は穏やかだが、言い争いをしているようにも取れる。

ふと達也に目を向け、ジュリアはっとしたように手で口元を押さえた。

「ごめんなさい」

「俺のことは気にしなくていいって言ったろ?」笑いながら胸の前で手を振る。

ジュリアは自省しているような表情で目を伏せ、カクテルグラスを手に取った。そしてひと口カクテルを飲んでから気を取り直したように改めて笑みを向けてきた。

「ねえ、タツヤは航平のどこが好きなの?」

思いがけない質問に達也はビールを口に運びかけていた手を止めた。無意識のうちに由紀のほうに目玉が動く。彼女は反対側に身体を向け、フランクも含めて向こう側の連中と何やら楽しげに談笑していた。

「なんだよ、それ」隣で航平が苦笑する。

「どうして?」ジュリアは彼に向かってその整った眉を上げてみせた。「シンプル クエスチョン」

「笑顔」考えずにその言葉が出ていた。

航平とジュリアが同時に顔を向けてくる。

「俺、こいつの笑顔がめちゃくちゃ好きなんだ」

そこで少し目線を落とし、ちょっと考えてから続けた。

「それから、一緒にいると安心する。心のよりどころっていうのかな。・・航平は俺の一部なんだ。・・航平がいない人生なんて俺にはもう考えられない」

航平と過ごした様々な情景が脳裏に浮かんできて、知らぬ間に頬が綻ぶ。

「俺、こいつのすべてが好きだ。・・眼鏡をかけた顔も、寝起きのぼさぼさの頭も、・・俺をからかってはげらげら笑う、そういうガキみたいなところも、それから・・」

そのとき大きな笑い声が聞こえてきて、達也ははっと我に返った。由紀たちだった。

目の焦点が合うと、驚いたような表情でじっとこちらを見つめているジュリアに気づいた。大きく見開かれたその美しい目がゆっくりと瞬かれる。

いったい自分は何を言っていたのだろう。急速に全身が火照りだした。無性に気恥ずかしくなり、あわてて顔を伏せる。ジュリアも航平も無言だ。ますます気まずくなってくる。

「ちょっとトイレ行ってくる」

俯いたまま早口で言い、くるりと身体の向きを変えながら立ち上がってすばやくテーブルを離れた。


《ばかやろー! なんで彼女にあんなことを言ったんだよ!》

鏡の中の赤ら顔の男に頭の中で罵倒する。

《しかも航平の前で! 何考えてたんだ、この間抜け!!》

あのブランデーのせいで頭が麻痺していたにちがいない。

息苦しくなり、ネクタイを乱暴に取って上着のポケットに突っ込みながらシャツの一番上のボタンを外した。そして火照った顔を冷やすために蛇口をひねって両手に水をため、腰を屈めてごしごし顔を洗ってからペーパータオルで顔と手を拭く。

「もう酔ったのか?」

不意に背後から声がして、ギクリとしながら振り返った。

にやりとした顔でこちらを見つめている航平がそこにいた。腕を組みながらトイレのドアに寄りかかっている。

思わず笑いそうになった。そういえば前にもこんなことがあったっけ。

達也はすばやく深呼吸をし、そして大真面目な表情で言った。

「脅かすなよ」

ふたりは同時にぷっと噴き出した。それから航平は両手を広げながら満面の笑みで近づき、達也の身体をがっしりと抱きしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ